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住銀のドン磯田一郎会長の「裏カード」

西貞三郎元住友銀行副頭取死去で、イトマン事件を想う

文=編集部
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post_387.jpg『ドキュメント イトマン・住銀事件』(日本経済新聞社)
『【訃報】西貞三郎氏(にし・ていさぶろう=元住友銀行〈現・三井住友銀行〉副頭取)6月30日、胃がんのため死去、85歳。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、慶子さん。イトマン事件【注1】に絡み、1990年、当時の磯田一郎住友銀行会長の辞任と同時に同行副頭取を退任した。』

 住銀のドンとして君臨した磯田一郎・住友銀行会長は、2枚の裏カードを持っていた。1枚はイトマン(現・住金物産)の河村良彦社長(当時)である。山口商業高校を卒業して住友銀行に入行。人の3倍働くモーレツな仕事ぶりで業績を上げ、常務に昇進。経営が悪化したイトマン(当時は伊藤萬)の再建を担う社長として送り込まれた。

 もう1枚の裏カードが、磯田会長と共に引責辞任した西貞三郎副頭取だった。磯田会長は河村氏を辞めさせ、代わりにイトマンの社長に送り込もうとしていたのが西副頭取だった。

 西氏は46年、和歌山商業を卒業して入行。働きながら関西大学経営学部(夜間)に7年間通い、53年に卒業した苦学生である。旧帝大の東大、京大卒が幅を利かすエリート集団の中にあって、西氏が副頭取へと出世の階段を上り詰めていく間には、人に言えない数々の苦労があったことだろう。

「住友に西あり」と知れ渡ったのは、大正製薬に喰い込みメインバンクになった時、新宿支店長時代の72年のことだ。大正製薬のオーナー、上原正吉氏の妻、小枝さんは新宿支店の貸金庫を利用していた。その応対に当たったのが西氏だった。小枝夫人を通して、三菱銀行(当時)だけの付き合いだった大正製薬を住友の顧客にしていった。

 ちょうど、大正製薬が家庭薬から医家向けの分野に進出しようとしていた時期に当たる。まず、住友化学工業が開発した特許製品を大正製薬だけに公開し、医家向けの品揃えの強化に協力した。海外戦略では住友商事に支援を頼み、内部の管理体制作りは住友銀行が“助っ人”する。住友グループの総力を結集した地道な努力が実って、大正製薬のメインバンクは三菱銀行から住友銀行にひっくり返った。

 三菱銀行の中村俊男頭取(同)は「まるで夜襲ではないか」と激怒したと伝えられている。三菱銀行の「住友嫌い」は昔からだが、大正製薬事件でさらに強まったといわれている。

 住友銀行は大正製薬を取り込むのに、“政略結婚”までやった。上田正吉氏の後を継いだ次男、昭二氏の長女、正子さんと、住友銀行の“天皇”と呼ばれた堀田庄三・元頭取の次男、昭氏を結びつけた。上原家の婿養子となった上原昭氏は、持ち株会社・大正製薬ホールディングスの会長兼社長。82年から30年間、トップの座にある。この養子縁組に奔走したのが西氏だった。

 西副頭取には、誰にもまねできない得意技があった。それは「磯田さんのカバンをさっと持ってしまう」というもの。関西のあるゴルフ場で、西氏のこの得意技を目の当たりにした上場企業の社長が、苦笑しながら語ったことがある。

「ゴルフ後の食事も終わり、みんなで帰ろうとしたら、もう西さんが磯田会長のゴルフバッグを持って、クラブハウスの玄関に向かっているのです。年季の入った早業でしたね」

 磯田氏と西氏の出会いは、磯田氏が初めて支店長になった大阪・高麗橋支店だった。西氏は同支店の中堅行員として猛烈に働き、抜群の成績を残し、新米の支店長を陰日なたなく支えたといわれる。

「ある日曜日の朝、新婚間もない西さんの家を磯田夫妻が突然訪れ、結婚のお祝いにと、泥だらけになって庭に木を植え、雑草を抜いていった」とのエピソードが残っている。それほど磯田氏は西氏を頼りにしていたのだ。

 西氏と河村氏に共通するのは、商業高校出身のノンキャリア組だという点だ。出世の階段を上り詰め、2人は副頭取と常務になった。2人はノンキャリア組の目標であり、励みであり、そして羨望の的でもあった。エリート集団への対抗意識をバネに、引き上げてくれた磯田氏のことだけを考えて突き進む2人を、磯田氏は「行内は西、行外は河村」といった具合に裏カードとして使い分けたのだ。河村氏は最後に磯田氏と決別するが、西氏は磯田氏と一緒に引責辞任し運命を共にした。

 昨年10月、三井住友銀行初代頭取を務めた西川善文氏の著書『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』(講談社)が刊行され、金融&経済界の話題をさらった。同書の中で、イトマン事件について、こう記されている。

<今まで私を含めて誰も住友銀行関係者は語ってこなかったことがある。この機会にあえて申し上げよう。イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う。私は磯田園子さんと直接話した機会はなかったのだが、磯田さんの溺愛ぶりを示す、こんなことを耳にしたことがあった。

 後に結婚することになるアパレル会社社長の黒川洋氏と磯田園子さんがロサンゼルスに駆け落ちした。それを認めるわけにいかず困っていた磯田さんは、秘書を派遣して二人を連れ戻したのだ。磯田さんの秘書は園子さんに振り回されて、本当に苦労したようだ。

 そういう磯田さんに、父親として娘の事業を後押ししたい気持ちがなかったわけではない。磯田さんが溺愛していることを知って、イトマンの河村社長も伊藤(寿永光)常務も彼女の面倒をよく見ていたようだ。人間として、あるいはバンカーとして磯田さんは素晴らしいと思う。しかし、長女の存在が磯田さんの判断を決定的に狂わせた>

 伊藤寿永光氏や許永中氏が闇の世界とつながりがあることは、住銀の役員ならずとも、皆、わかっていた。イトマン問題の始末をつけるのには、磯田会長の退任が不可欠だった。常務企画部長だった西川氏は行動を起こす。秘密保持のため、当時の企画部次長に20数人いた本店の部長全員に電話させ、用件は何も言わずに緊急部長会を招集すると通知した。再び引用。

<(一九九〇年)一〇月一三日、土曜日。結婚式などでどうしても都合がつかなかった二、三人を除く部長全員が東京の信濃町にある住友銀行会館に顔を揃えた。皆の前で私はこう言った。「現在のイトマン問題と磯田さんのことをあなた方はどうお考えですか。お一人一人意見を聞かせて下さい」

 朝の一〇時から午後の二時頃までかかっただろうか。全員からたっぷり意見を聞いた。実に多様な意見があった。しかし共通して出たのは、磯田会長は口先だけでなく早期に辞めるべきだ。それを巽(外夫)頭取から磯田会長に言ってもらわなければならないということだった>

 部長会が退任要望書を提出した3日後の10月16日、住友銀行東京本部で開かれた経営会議で磯田会長が取締役相談役に退くことが決められた。同時に西副頭取も辞任することになった。

 イトマン事件の本質は、イトマン・住友銀行事件だった。イトマンの河村社長は絵画にとどまらず、リゾート、ゴルフ場開発など、バブル時代のあらゆる投機物件に手を出した。イトマンの負債総額1兆2000億円のうち、3000億円とも6000億円ともいう巨額の資金が闇の世界に流れたといわれている。イトマンに資金を融資したのは、磯田一郎会長が率いる住友銀行だった。
(文=編集部)

【注1】イトマン事件とは、日本の総合商社・伊藤萬株式会社(のちのイトマン株式会社)をめぐって発生した、商法上の特別背任事件。戦後最大の不正経理事件といわれている。

BusinessJournal編集部

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