【大相撲の不思議】関取の四股名から「川」が消えたって知ってた!?

大相撲が象徴する日本の川の衰退

近代化と共に縁起が悪くなった「川」

両国の国技館で相撲を観戦していると、相撲というのはつくづく不思議な競技だと痛感させられる。

東西から力士が土俵に上がるたびに、場内アナウンスが四股名とともに、出身地を紹介するのである。「東方(ひがしかた)、××山、青森県□□町出身」「西方(にしかた)、○○川、鹿児島県▽▽市出身」という具合に。いちいち競技者の出身地を紹介する競技が他にあろうか。

 

なぜこうも力士の出身地にこだわるのだろうか。そして、力士はなにゆえ、生まれ故郷の山や川、海の名をもって四股名としているケースが多いのだろうか。日本の一級河川すべてを水源から河口まで踏破した川フリークとして、本稿では特に、「川」と相撲の関係を探ってみたい。

東京都江東区にある富岡八幡宮には、相撲に関連する碑がいくつも存在する。歴代横綱の名を刻んだ「横綱力士碑」「大関力士碑」「強豪力士碑」…。徳川幕府に禁じられていた江戸の勧進相撲が、貞享元(1684)年に興業許可され、復活して最初の興業地がこの境内だったからである。

碑の裏面に刻まれている四股名をたどると、「山」を冠した力士名がすこぶる目立つ。水戸士族の出身で「角聖」と言われた常陸山、不世出の大横綱・双葉山、近いところでは31回の優勝を飾り、53連勝を記録した千代の富士ら19名に達する。次いで「海」が12名である。

一方、「川」を冠しているのは、2代横綱・綾川五郎次、5代・小野川喜三郎、14代・境川浪右ヱ門、34代・男女ノ川登三(みなのがわとうぞう)のたった4名にすぎない。江戸時代の相撲全盛期を谷風とともに支えた小野川を除けば、実績においても「川」の劣勢は覆いようがない。

富岡八幡宮の横綱力士碑の裏面には、双葉山と並んで男女ノ川の名が刻まれている

「川」に対する「山」の優勢は、十両以上の関取全体に広げても同様なのである。近年に至って、「川」の劣勢にさらに拍車がかかる。2020年9月場所における、十両以上の番付表を眺めれば一目瞭然だ。「××山」「△△海」はいまだに番付表に存在感を示しているというのに(幕内、十両の関取70人中、「山」にまつわる四股名の力士15人、「海」は8人)、「○○川」は目を皿のようにして探してもただのひとりも見当たらない。

若瀬川剛充が平成4(1992)年に引退してからというもの、十両以上の番付表から「○○川」は姿を消した。

無念のホゾをかんでいた川フリークを驚喜させてくれたのが徳瀬川正直であった。平成11(2009)年7月場所に十両となり、平成12(2010)年3月場所で新入幕。出身がモンゴルであろうと、贅沢はいっておれない。国技館に馳せ参じ、声を限りに「徳瀬川」の名を叫んだのも束の間、平成13(2011)年4月、八百長問題で引退してしまった。

これでまた元の木阿弥(もくあみ)。武蔵川、境川、安治川、入間川、湊川など、年寄名跡にかつての栄光を偲ぶより手がない。

「山」と「川」は自然の景物として並び称され、戦場の合言葉として多用され、ともに多くの学校の校歌の中で歌われてきたというのに、この落差はいったいどうしたことか。

相撲界というところは、何かにつけて縁起を担ぐ。勝敗を競うからには、負け(黒星)を嫌う。あげくは、縁起が悪いとして、真っ黒い炭を丸く固めた炭団(たどん)まで遠ざける世界だ。

興行としての相撲が始まった江戸時代は、米作りが国の根本であり、田を潤す「川」は重要な存在であった。大雨が降れば恐ろしい洪水を起こすが、日々の生活に命の水を与えてくれる尊いものであったはずだ。

それが、明治以降、近代化(工業化)が進むと、川の汚染が始まり、戦後になるとその傾向は加速し、昭和40年代、高度経済成長期に入ると、川は汚れ放題に汚れ、炭団そこのけの黒い色を呈するありさまとなった。

縁起を担ぐ力士たちは、このていたらくに敏感に反応し、故郷の川名を己が四股名にいただくことに二の足を踏んだのであろう。

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