ロッテ打撃コーチ時代の高畠さん=02年3月 「才能とは、最後まであきらめないこと」。甲子園を夢見た元プロ野球コーチは、教壇からいつもそう語りかけていた。膵臓(すいぞう)がんで1日に亡くなった福岡県太宰府市の筑紫台高校教諭の高畠導宏(みちひろ)さん(60)。60歳を前にして、昨年4月に教師へ転身した矢先だった。遺志を継いだ同高は、全国高校野球選手権福岡大会で1回戦を突破した。
岡山県出身。プロ時代は高畠康真の登録名で活躍。選手として南海(現ダイエー)で5年、コーチとして福岡ダイエーホークスを含めセ・パ両リーグ延べ7球団で計30年を過ごした。
打撃指導に催眠術を使うようなアイデアマンだった。若い選手の心に近づくため心理学に目を付け、大学の通信講座で教職課程を受講。5年かけて単位を取った。
プロ野球打撃コーチから高校教師に転じた高畠導宏さん=03年10月21日、福岡県太宰府市の筑紫台高で ロッテとのコーチ契約が切れた02年秋、筑紫台高校を知人に紹介され、縁もゆかりもなかった太宰府で2週間教育実習をした。教室で、廊下で、気さくに生徒に声をかけ、職員室でも生徒に囲まれるほど慕われた。
校長から「ぜひ教諭に」と請われた。2球団からコーチの誘いを受けていたが、東京で留守を守る妻聡子さん(47)に「5年だけ」と頼んだ。単身赴任を心配する妻に「一度甲子園に行ったら帰ってくる」と約束した。
プロ関係者が高校野球の指導者になるには、退団後に2年以上の教諭経験を経た上で、日本学生野球協会の適性審査を受けなければならない。だから、赴任しても野球部が練習中のグラウンドに決して入らなかった。
「練習がきつくてやっていけるか不安です」。副担任を務めるクラスの生徒がグラウンドの外でもらす悩みには、一教諭として進んで相談に乗った。目を見つめ、じっと耳を傾ける態度に、生徒たちは信頼を寄せた。
「子供のころは、兄弟が多くて、食事はいつもご飯のとりあいだった」。担当の現代社会の授業は、いつも少しだけ脱線した。軽妙な話しぶりで教室をわかせた。
だが、今年5月、診察で、がんが見つかった翌日の授業は少し違った。
「大事な話がある」。いきなり病気について切り出した。「絶対帰ってくるから待っててくれ」。クラス全員が「頑張ってきて」と見送った。
東京で入院。病室には、できたてのユニホームが飾られた。来春以降の監督就任を待ちきれず、自分でデザインした。地元から愛されるよう、袖には県名ではなく「太宰府」と入れた。長男の陽平君(13)に着せて、「かっこいいな。早く着たいな」と笑った。
しかし、二度と教室に戻ることはなかった。
5日の告別式には、巨人の小久保裕紀選手ら多くのプロ野球関係者が集まった。ヤクルト時代にコーチをした長嶋一茂さんから、聡子さんは声を掛けられた。「周り全部が敵だった時、高畠さんだけは味方でした」
ひつぎには、一度も袖を通すことのなかった筑紫台高の新ユニホームが入れられた。
同高野球部は12日の福岡大会1回戦で、春の福岡大会優勝の強豪久留米商と対戦。高畠さんが見守っているかのように試合の流れを引き寄せ、4−1で快勝した。選手たちは21日に同校である「お別れ会」で、「成長した姿を報告したい」と気持ちを一つにしている。
(07/20)
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