長谷川路可 生誕110周年、没後40周年記念特集

長谷川路可伝〔下〕
 
 渡 部 瞭(会員)
 
帰国  イタリアで還暦を迎えた長谷川路可は、彼の地での仕事に区切りをつけて、1957(昭和32)年8月末、羽田空港に降り立った。[右写真]
 1950(昭和25)年の聖年を期して渡伊して以来だから、足かけ8年、働き盛りの時期をイタリアで過ごし、そのうち6年間はチヴィタヴェッキアの壁画のために費やしたことになる。
 路可は帰国早々、9月15日付けの朝日新聞に「壁に向かって六年間」と題する帰朝報告をしたためている。「面壁三年」をもじり、その倍も壁に向かっていた時期の孤独に耐え、創造の喜びに満ちた日々を、極めて要を得た簡潔な文章で綴ったもので、当時イタリアで開発されたストラッポという壁画保存技術を学んだことを紹介し、日本における古墳壁画を含めた保存について提唱していることは注目に値しよう。
 1956(昭和31)年の経済白書は「もはや戦後ではない」と記し、一種の流行語にもなっていた故国の姿は、「今浦島」路可の目にはどう映ったであろうか。
 9月、新学期を迎えた文化女子短期大学へ復職するとともに、一方、各種雑誌・新聞等への寄稿も数多く手がけるようになった。帰国した年には「ローマの女と旦那たち」(『文藝春秋』11月号) 、「壁画・宗教・芸術」(宮本三郎と対談『美術手帖』11月号) 「グレコとファッツィーニ―現代イタリアの美術界」(『みずゑ』546・548)、「阿部真之助対談―壁画を描く因縁―ストラッポ会得」(『週刊サンケイ』) といったイタリアでの体験に基づくものが中心である。一方、秋には「松本亦太郎博士生誕百年の集い」が開かれ、「敦煌壁画模写のいきさつ」と題するスピーチを行い、録音テープが遺っている。

シロン号沈没事件  こうした矢先、路可を大いに落胆させる悲劇的な事件が起こった。壁画資料・滞伊中のスケッチ等を積んだ英国船シロン号がスエズで沈没したという知らせが届いたのである。
 この事件のちょうど1年前に起こった第二次中東戦争は、エジプトのナセル首相によるスエズ運河国有化計画に対し、この運河を利権として、莫大な通行料収入を得ていた英仏両国政府がイスラエルを巻き込んでエジプトに侵攻してスエズ運河地帯の確保を画策した戦争である。これに対しエジプト軍は艦船を運河に沈めてバリケードを築いた。英仏が連合国として賛成すると考えていたアメリカ合衆国は、冷戦で対立していたソ連とも手を組み、停戦と英仏イスラエル軍の即時全面撤退を通告した。こうして英仏イスラエル対米ソエジプトの対立関係が生まれた。ここで、カナダのピアソン外相が、PKOの提案を国連にし、停戦に漕ぎつけた。結果、英仏はエジプトでの利権を失い、米国の発言力は増し、アラブ世界に面目を施したエジプトは、翌年4月にはスエズ運河の通行を再開した。
 スエズ運河再開の半年後、シロン号沈没事件は起きた。原因はベルギーのタンカーと衝突したからとされている。しかし、船は英国船、場所が場所、時期が時期である。未処理機雷の存在とか様々な推測もなされているようだが、事実は不明のままである。
 いずれにせよ、ジェノア港から積み込まれた路可の木箱には、苦労して入手した60冊の壁画研究書や資料、帰国後の個展を楽しみに制作した滞伊中の作品35点などの他に知人から依頼を受けた品々が入っていたが、すべてスエズ運河の藻屑と消えてしまったのである。
 
服飾史教育者として  翌1958(昭和33)年度からは、新たに武蔵野美術学校本科のデザイン科講師に迎えられ、昭和女子大学短期大学部、日本女子大学へも出講、服装史を担当することになった。この時代、この分野を担当できる専門家は少なかったのかも知れない。
 2004年の鵠沼郷土資料展示室での展示に訪れたこの時代の教え子(どの学校かは聞きそびれた)のお一人によると、「路可先生の授業はお話がお上手で、ノートを取るのも忘れて聞き惚れてしまった。板書の絵も達者で、流石と思わされた。」という。女子学生から圧倒的な人気だったことが想像できる。
文化学園にて 
カルダン(中央)と路可(右)
 この年の11月には文化学園の招きで初来日したフランスの新進デザイナー=Pierre(ピエール) CARDIN(カルダン)(1922-)の案内役を引き受けたり、実演講義の通訳をするなど活躍した。
 なお、カルダンは1961年に再来日し、文化服装学院の名誉教授に任命された。  
                  
壁画作家として  帰国後の路可の制作活動は大きく変化した。これまでの日本画家(絹や紙に岩絵の具で描く)という側面は見られなくなり、フレスコ画家、壁画作家=長谷川路可に変身したのである。手法としてはフレスコに加えてモザイクという技法が加わった。
 本格的なモザイク壁画の作品としては、1958(昭和33)年に新築された山口県岩国市庁舎吹き抜け部分を飾った『繁栄』という名の縦2.9b、横9.3bの作品が第1号である。これは全面モザイクではなく、コンクリート打ち放しの壁面に大理石を埋め込む手法で、学生2人と地元の業者との共同制作という形を採った。
 この市庁舎の設計は、地元出身の建築家で大隈講堂の共同設計者、建築音響学の先駆者として知られる故佐藤武夫(1899-1972)で、路可とは旧知の間柄という。
 壁画制作の経緯としては、佐藤が路可に依頼したという説が一般的だが、山口新聞の報道によれば「旧庁舎建設中の1958(昭和33)年、庁舎設計者の岩国出身の建築家、佐藤武夫氏のところへ、ローマから帰った長谷川氏が訪れ“フレスコ画を描きたい”と申し入れた。佐藤氏からは“大理石の本物のモザイク壁画を描いてください”と依頼され、新興岩国市の繁栄をテーマに制作した。」とあり、路可が佐藤に、しかも最初はフレスコ画の制作を申し入れたことになっている。
 実は、この情報はごく最近(今年の8月12日)入手した。
 市庁舎の老朽化による2001(平成13)年芸予地震での損傷が契機となり建て替え計画が進められ、2005年から具体化したが、当初入札者がゼロだったことが話題になったりした。1999(平成11)年度から始まる「平成の大合併」の最終段階で、山口県岩国市と同市を取り巻く旧玖珂郡(くがぐん)の8町村が2006(平成18)年3月20日に合併を行った。結局合併後に本格的に建て替え計画が練り直されるが、その際に問題となったのは「路可の壁画の運命や如何に?」ということである。
 2008年5月13日の中国新聞によれば、「長谷川氏の長女や市民からも“貴重な壁画をぜひ残してほしい”との要望があり、市は“作者に配慮して保存を決めた”という。長谷川路可氏の研究者で崇城大(熊本市)芸術学部の有田巧教授は“部分的にでも残す市の対応はよかった。全国的に公共施設の建て替えで芸術作品が失われており、保存へ向けた契機になると思う”と評価している。」とある。
 保存は壁画全体ではなく、緑の樹木に鳥たちが戯れる姿を描いた壁画の中心部(横2.2b、縦2.6b、重さ約2.6d)を切り出し、市が旧庁舎跡地に整備する公園での展示に向け保管するという。この作業は2008年8月中旬に進められ、既に完了した。
 こうして長谷川路可のモザイク壁画第1号は、記念碑的な形であるにせよ、かろうじて保存が図られることとなった。
 その契機は、先ず長女=百世さんや有田巧教授の働きかけがあり、岩国市民の要望が重なって市側を動かしたことが読み取れる。
 続いて1959(昭和34)年、熱海の老舗旅館《古屋旅館》の大浴場に『宇宙神話』と題するフレスコ壁画を制作した。これには学生数人も制作に参加した。
 古屋旅館は、熱海七湯のひとつである《清左衛門の湯》源泉を所有し、江戸時代から続く高級老舗旅館である。路可は大浴場の壁画としてギリシャ神話にヒントを得てこの『宇宙神話』を描いた。浴場の壁面はフレスコ保存の条件としては決して良い環境ではないが、画面そのものは案外保たれた。しかし、カビの害もあり、改築に際して取り壊され、現在は見ることができない。
 2004年の鵠沼郷土資料展示室の展示に際して同旅館から提供を受けた古いリーフレットや正面写真、下絵などによれば、高さ約3b、幅は約24bに及ぶと思われるかなり長大なもので、20人の男女と馬やイルカ、怪獣などが描き込まれている。
 
フレスコ画家=長谷川路可として  先述のシロン号沈没を報道した朝日新聞の記事は、帰国後の個展を楽しみに制作した滞伊中の作品35点が失われたことを紹介し、最後に「長谷川画伯の話」として、「画家をやめるわけにはいかないので、来年の秋までには日本で初のフレスコ画の個展を開くようにがん張ってみましょう。」という言葉で締めくくっている。
 この発言通り、翌1958年11月に日本で初のフレスコ画の個展が開かれた。会場はヴァチカン美術館のポンペイ壁画等の模写を依頼した石橋正二郎の《ブリヂストン美術館》である。『山幸彦の物語』、『イタリアの想い出』等のフレスコ画の手法を用いた作品が展示された。これ以後、壁画はもとより展覧会に展示される作品の多くがフレスコで描かれる。また、モザイクも時に用いられたが、伝統的な日本画や油彩はほとんど例外と言っていい存在になって行く。
 戦前の「官展」の流れを汲む文部省主催の公募美術展は、戦後の1946(昭和21)年には、《日本美術展覧会》(日展)として再出発し、1948年に日本芸術院主催、さらに1949年からは日本芸術院と日展運営会共催となる。この段階で開かれた第5回《日展》に、路可は『聖母子』[日本画]を出品したことは、すでに〔中〕で紹介した。
 そして1958年からは「社団法人日展」が運営者となり、これにより官展でなくなっているが、《日展》の名は引き継がれた。ここからの再スタートした《日展》から第1回と数え直されている。(2007年には、1907(明治40)年「官展」の第1回《文展》として初めて開催されてから100周年にあたるとして、会場を上野から六本木に2007年1月21日開館した《国立新美術館》に移しているから、どうもややこしい。)
 その1年後、1959(昭和34)年11月に開かれた第2回《日展》に、路可はフレスコ画の『シニョリーナ=マヌカン』を出品した。いかにも服飾史の専門家らしいモティーフを選んだものだが、他には余り類例はなさそうである。この作品は、後に『ファッションモデル』と改題され、現在も文化学園に飾られている。
 
オペラ『細川ガラシア』  翌1960(昭和35)年5月27日〜28日に文京公会堂で《国民歌劇協会》第20回公演として上演されたオペラ『細川ガラシア』の衣装考証および舞台美術監修を長谷川路可が担当した。カトリック美術の第一人者であり、服飾史の専門家であった路可にとって、まさに打ってつけの仕事といえよう。
 この作品は、1923(大正12)年にイエズス会神父として来日し、上智大学学長も務めたHermann(ヘルマン) HEUVERS(ホイヴェルス)神父(1890-1977)の戯曲を、1926(大正15)年サレジオ会神父として来日し、86歳で帰天するまで日本のカトリック文化(ことに音楽と出版)に多大な功績を残したDon(ドン) Vincento(ヴィンチェンツォ) CIMATTI(チマツティ)神父(1879-1965)が1939(昭和14)年に作曲したものである。1940(昭和15)年1月にミュージックドラマとして日比谷公会堂で初演され、以後大阪、盛岡、横浜で上演された記録がある。
 これを戦後になって歌手で演出家の神宮寺雄三郎の企画推進、塚谷晃弘(1919-1995)編曲により4年がかりでオペラ化され、この1960年の公演がオペラとしての初演だった。以後1965年(この回は路可の衣装考証および舞台美術監修の記録あり)、1966年、1967年に、いずれも《国民歌劇協会》が東京で公演をしているから、ここまでの美術は路可の手が及んでいるものと思われる。
 
菊池寛賞  「伊太利チヴィタヴェッキア修道院に於ける日本二十六聖人殉教大壁画の完成により」という功績を認められ、長谷川路可は1960(昭和35)年の第8回〈菊池寛賞〉を受賞している。同賞は《(財)日本文学振興会》が授与するもので、菊池寛ゆかりの文藝春秋社が担当している。
 同社の解説によれば「菊池寛賞は、故菊池寛が日本文化の各方面に遺した功績を記念するための賞で、昭和27年に制定されました。同氏が生前、特に関係の深かった文学、演劇、映画、新聞、放送、雑誌・出版、及び広く文化活動一般の分野において、その年度に最も清新かつ創造的な業績をあげた人、或いは団体を対象としております。」ということで、「人物」よりも「仕事」に対して与えられるといった性格が強いようである。これまでの受賞者は極めてヴァラエティーに富んでいるが、画家は案外少ない(漫画家は3人もいるが)。
 路可はこれまでに〔上〕で紹介したように、外国では1925(大正14)年、ベルギーで〈Chevalier de L'Ordre de Leopold U〉を、1930(昭和5)年、イタリアで〈Cavaliere Corona de Itaria〉という二つの勲章を受章している。しかし、国内では没後に追贈された従五位勲四等〈旭日小綬章〉以外ではこの〈菊池寛賞〉が最大の栄誉と言えよう。
 
F.M壁画集団  イタリアでは独力で大壁画を制作した路可だが、60代を迎えて体力的にも限界を感じていたし、後継者の育成は急務だった。武蔵野美術学校では、正規の講座は服装史であったが、本科油絵科の教え子を率いて、《F.M壁画集団》を結成することになった。F.Mとはフレスコ・モザイクの略である。以後の壁画あるいは床モザイクの制作は彼らとの共同制作という形をとる。
 壁画は通常垂直に立った動かせない大きな壁面に描くものだから、櫓を組んで昇ったり、それに画材を運び上げたり、移動したりと大変な体力を必要とする。
 また、それを集団で制作する場合、構成メンバーの力量が揃っていなければならない。しかし、この段階では日本の美術教育機関ではこの分野の専門教育は全く行われていなかった。
 武蔵野美術学校においては学校の協力も得て、新校舎の階段壁面、踊り場の大壁面が壁画制作の実践の場となり、特に3階〜4階吹き抜けの大壁面は、4年生の卒業制作の壁面として共同制作が行われた。これを経験した学生たちが後に路可の弟子として実際に壁画制作作家として育って行くのである。
 《F.M壁画集団》結成から半年後の1960(昭和35)年末、習作を展示する第1回《F.M展》が文藝春秋画廊で開催され、以後、毎年同じ場所で開催された。《菊池寛賞》を受賞した路可は、その縁もあって《F.M壁画集団》の展覧会を《文藝春秋画廊》で毎年開催する約束を取りつけたという。
 メンバーには現在の日本美術界、ことに《春陽会》や《モザイク会議》の中心メンバーとして活躍する美術家が多い。
 彼らの最初の共同制作は、早稲田大学33号館(第一研究棟)1階エレベータホールの『杜(もり)のモザイク』と題する路可原画の大理石の床モザイクである。
 この建築は、同大学建築学科出身の村野藤吾(1891-1984)の設計により1962(昭和37)年3月に竣工したもので、外見は高く厚味のあまりない単純な四角柱に見えるため「国連ビル」などと呼ばれてきた。細部にはこの床モザイクの他、彫刻家=辻晉堂(しんどう)(1910-1981)のタイルレリーフやガラス工芸家=各務(かがみ)鑛三(1896-1985 鵠沼在住)のアートブリックなどがさりげなく配置され、変化を与えている。
 それらの中で『杜のモザイク』は、ローマン=スタイルを用いた。白と黒2色の大理石のテッセラをローマ時代に確立された手法を用いて森林の木々に飛ぶ小鳥を配したもので、研磨はなし。この方法は設計者=村野藤吾の希望でもあった。研磨なしのため、40年余り過ぎた今、自然研磨によりその表情は暖かく、日本では他に例を見ないものである。
 ところが昨年、この建物に耐震構造上の問題点があることが判り、大学はこれを取り壊して建て替えることを決定した。ここでもまた、「路可の作品の運命や如何に?」という問題が生じたのである。
 大学内部から文学学術院丹尾(たんお)安典(やすのり)(1950-)教授(美術史)らが美術作品の保存を積極的に働きかけた。原田恭子さん(以下敬称略)を中心とする制作メンバーは、何回か開かれた説明見学会に協力した。ついに大学側も保存の方向に転回し、昨年秋、文学部校舎の美術的なものは新校舎に移設することが決定された。床モザイクを移設するという難工事はわが国では最初の試みである。恐らく4、5年後には新校舎に他のタイル壁面と共に移設された姿が見られるであろう。
 
今は亡き二つの作品  船橋ヘルスセンターは、1955(昭和30)年2月、船橋市の埋め立て地にオープンした。遊園地、プール、ボウリング場、ホテルのほか、大ローマ風呂、約30カ所もの宴会場などを備え、当時としては国内最大のレジャー施設といわれていた。劇場ステージでは、有名芸能人などによる歌謡ショー、漫才、落語などが上演され、特に往年の人気番組「8時だヨ!全員集合!」の公開放送が頻繁におこなわれた。
 1962(昭和37)年に《船橋ヘルスセンターホテル日本館》がオープン、その玄関ロビー壁画に『人魚』[フレスコ]、『四季のモザイク』[モザイク]、床モザイクとして『河童百態』が長谷川路可と《F.M壁画集団》の若者たちの手で制作された。彼らの共同制作第2号である。
 1977年5月、船橋ヘルスセンターは閉鎖。ホテルも、そこにあった共同制作作品も取り壊された。
 路可は船橋の仕事の後、アリタリア航空の就航記念招待で渡伊。日本二十六聖人列聖百年祭に参列し、イタリア各地をスケッチして9月に帰国した。
 東松山カントリークラブは埼玉県東松山市大字大谷1111にあり、創業者が倒産したため会員が出資して自力再建、個人株主制のゴルフクラブになった。1962(昭和37)年に9ホールの増設が完成。翌年新クラブハウスが完成した。この際、玄関ホール側壁に黒・白・茶3色の大理石を用いた『彩雲』と題するモザイク壁画が、路可と《F.M壁画集団》によって制作されたが、その後の改装工事で失われた。
 
日生劇場床モザイク  《日本生命日比谷ビル》は、オフィスビルの中に劇場を取り込んだ形の建築で、早稲田大学33号館に続く村野藤吾の代表作とされ、昭和を代表する建築ともいわれる。1963(昭和38)年竣工当時には、向かいに大正を代表する建築の誉れ高いFrank(フランク) Lloyd(ロイド) WRIGHT(ライト)(1867年-1959)設計の《帝国ホテル》が対峙していたわけで、そのバランスにも村野は気を配ったといわれる。
 このビルの1階、すなわち日生劇場のエントランスの床モザイクを長谷川路可と《F.M壁画集団》が手がけた。村野は早稲田大学の時と同じようにローマン=スタイルで研磨なしを希望していたが、ピロティーという人々の行き交う場所での安全性を慮った日生側の要望で最終的に機械研磨となった。
 制作には長谷川路可の指導のもと、《F.M壁画集団》が中心となったが、メンバー以外の武蔵野美術学校の学生も多数参加し、《F.M壁画集団》は彼らの指導も行った。日生劇場/劇場案内のホームページには、長谷川路可の作品と紹介されているが、原画は矢橋六郎(1905-1988)(洋画家。矢橋大理石商店=現・矢橋大理石鰍フ専務を務めた。同商店は1901年創業。六郎は創業者の六男)による。
 矢橋は他に壁モザイクも担当し、また、劇場内壁面ガラスモザイクは小柴外一が担当した。喜井豊治氏は『戦後日本のモザイク』の中で「村野(藤吾)氏の建築の中でも、日比谷の日生劇場は特に忘れがたい事例である。上述の矢橋(六郎)氏、小柴(外一)氏、長谷川(路可)氏などが一堂に会して大面積のモザイクの制作にあたった得がたい機会であった。」と記し、この3氏を戦後の代表旗手としている。
 日生劇場にはファッツィーニの作品もあることから、長谷川路可が関与したことは間違いないが、この床モザイクは路可が共同制作を指導した作品である。
 いずれにせよ、この床モザイクは、客席天井の2万枚に及ぶといわれるアコヤガイの装飾と並んで、日生劇場を訪れる人々に深い感銘を与え続けている。

国立霞ヶ丘競技場  東京オリンピックを期に高度経済成長期を迎えた日本では、建築物に装飾を施すゆとりが漸く芽生えてきた。
 自らモザイク作家であり、モザイク研究家の喜井豊治(1953-)は、「1964年に東京オリンピックが開かれた。モザイクの制作量に関しては、どうもその頃がピークだったようである。」と述べる。
 国立霞ヶ丘競技場(通称国立競技場)は、1958年、神宮外苑陸上競技場の跡地に建てられた。1964年、東京オリンピックの主会場として使われ、その改修を期に路可と《F.M壁画集団》は、オリンピックのメイン会場となる国立霞ヶ丘競技場の正面入り口に床モザイクとメインスタンドのエレベータータワー外壁にモザイク用ガラスを用いたモザイク装飾を施した。左側が「勝利」を意味する『野見宿禰(のみのすくね)』像、右側が「栄光」を意味する『ギリシアの女神』像。日本のモザイクにエポックをもたらした記念すべき作品とされる。メイン玄関ホールには、『悠久(宇宙)』と題する国産大理石を用いた床モザイクが、路可の原画に基づき《F.M壁画集団》の手で制作された。開会式に訪れた昭和天皇は、「この床は若者たちが一枚一枚大理石を張って造られたものです」との説明を聞き、わざわざ端を歩かれたというエピソードが伝えられている。
 この床モザイクはハイテク化に伴う地下ケーブル埋設工事の際、残念ながら取り壊された。メインスタンドの巨大な立像「勝利」と「栄光」は、最も多くの人の目に触れる路可作品として健在である。
制作中の路可
 今夏、北京オリンピックが盛大に開催され、無事閉幕した。
 次の夏期大会はロンドン。その次の2016年夏期大会には東京都が名乗りを上げている。決定は2009年だが、東京に決まれば霞ヶ丘競技場の改修は必至であろう。
 「路可の作品の運命や如何に?」

静岡県での合宿  『長谷川路可画文集』の年譜によれば、1964(昭和39)年の冒頭に「相模原中央研究所壁モザイク制作『幽玄』。」とある。この施設はどうやら相模原市にあった富士製鉄(現新日鐵)の研究所らしいが、どのような作品だったのかは現在までのところ調べがついていない。なおこの研究所は閉鎖され跡地は売却され、いまは青山学院相模原キャンパスになっている、
 これに続いて先述の霞ヶ丘競技場の仕事を行っている。オリンピックの開会式は10月10日だったから、恐らく夏までに競技場での仕事は完成したと思われる。
 続いて多分秋になって《F.M壁画集団》を女性と男性に分けて、静岡県内の2か所の依頼主から発注された別々のフレスコ壁画の仕事を、それぞれ泊まりがけで行っている。これまでの共同作業は主にモザイクだったので、フレスコの実習段階に入ったのだろうか。
 一つは《F.M壁画集団》の女性陣によって制作された『樹林図』で、浜松市鴨江の古刹=鴨江寺境内に新設された国際仏教徒会館の食堂(じきどう)に描かれた。
 フレスコ壁画『樹林図』は、正確な大きさは調べがついていないが、写真で見る限り、高さを3bとすれば、幅は12b程度というかなり横長な画面である。
 左側は秋の紅葉した落葉樹林(カエデ、トチとシラカンバ)を上寄りに描き、その右下にはこれも黄葉したカラマツがあしらわれている。
 右側の画面には緑青(ろくしよう)色のスギを中央下寄りに配し、右手には竹林を描いた。スギの下方には花をつけたサクラが描かれている。左右の樹林の間の空間は、青灰色のグラデーションで霧を表現しており、遠景の樹林が霧の中に霞む。
 それぞれの樹種の担当をくじ引きで決め、伝統的な日本画の技法で描かせた。これが共同制作の共通項となり、図全体の統一性をもたらす狙いである。
 サクラの枝には1羽の小鳥がとまっている。左側のトチの大木にはキツツキが描かれており、空には3羽の小鳥が飛ぶ姿が描かれている。サクラとこれらの小鳥は路可自身が担当したという。
 《F.M壁画集団》の女性陣は、主に武蔵野美術学校の西洋画科の学生が中心だったが、ここでフレスコとともに日本画の技法も習得できた。
 一方のフレスコ壁画『香(かおり)の華』は、1964(昭和39)年、静岡市のシャンソンビルに路可の下絵により《F.M壁画集団》の5人の男性陣によって制作された。
 高さ3b、幅6bの壁面に薄緑の春の花野が描かれ、左手にジャスミンの花束を持った「香水の精」とされる裸体の女神が岩に腰掛けており、中央から右側には4人の長い裾の着衣の村娘が長い花輪を拡げて、女神に捧げようとしている。
 いかにも化粧品会社の本社ビルにふさわしい夢幻的で美しい仕上がりだが、さほど大きな評判にはならなかったらしい。
 というのは、1981(昭和56)年4月25日付けの『静岡新聞』に「忘れられた画法日の目」「長谷川路可の「香の華」フレスコの大壁画見つかる」などの見出しで大々的に報じられているからである。
 きっかけは写真家=岡村 崔(たかし)(1927-)にシャンソン化粧品の副社長が話したことから、岡村が現物を見て激賞したということのようである。岡村 崔といえば、ヴァチカン、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画『天地創造』をはじめ、数多くのフレスコ画を撮影し続けている世界的な写真家として知られる(彼は静岡の出身で、登山家としても有名である)。その岡本が「長谷川さんの大作がこんなところに残っていたとは驚きです。『香の華』は長谷川さん独特のイタリアの伝統的な絵画技法と日本画技法をみごとに調和させたすばらしい作品。日本では、めったに鑑賞できない貴重な作品では――」と褒めちぎっている。
 ところが、この作品は制作過程で完成を急ぐ余り固化する前に空調を入れるという手法に失敗があったらしく、剥落が進み、取り壊されたという。
 
日本二十六聖人記念館  1965(昭和40)年、《日本美術家連盟》理事に就任した路可だが、しかし、この翌年頃から体力の衰えからか寡作になっていった。
 1966年に《日本二十六聖人記念館》(長崎市)からの依頼で『ザヴィエル像』[フレスコ]を中山竹史を助手として制作したところで、心臓病で東京女子医大病院へ入院することになった。
 退院後の翌年、路可自身「爆弾」と呼んでいたニトログリセリンを常備し、弟子=宮内淳吉、古川清右を助手として《日本二十六聖人記念館》『長崎への道』[フレスコ]を制作、これが遺作となった。『長崎への道』は、2.7b×6.6bの壁一面に描かれたフレスコ壁画で、日本二十六聖人の大阪での捕縛から長崎で処刑されるまでの、14のシーンを描いている。国画の伝統的手法の一つである絵巻物の形式をとった物語風の壁画。まさにカトリック美術家、日本画家にして日本フレスコのパイオニアとして歩んできた長谷川路可の遺作にふさわしい作品といえよう。
 《日本二十六聖人記念館》はJR長崎駅前に聳える立山の中腹にあり、そこへは西坂と呼ばれるかなり急な坂道を登らなくてはならない。恩師の享年と同じ歳を迎えた弟子の原田恭子は、この坂を登って、心臓病を抱えてこの坂を毎日上下したことが路可の身体に与えたダメージを実感したという。

ローマでの客死  だが、国際的カトリック画家=長谷川路可としてはもう一つの作品が準備されていた。イスラエルはナザレの《受胎告知教会》に、日本を代表する聖母子像の制作が要請されていたのである。
 1967(昭和42)年6月、教皇の招聘によりヨシノ夫人と共に渡伊。チヴィタヴェッキアの壁画制作継続、イスラエル《受胎告知教会》のモザイク制作の交渉をするとともに、教皇=Paulus VIに拝謁。『暁のマリア』を献呈することができた。
 この間、欧州旅行中だった原田恭子や旧友の彫刻家=Pericle(ペリクレ) FAZZINI(ファツツィーニ)とも再会、ファッツィーニの許で修業中の日本人彫刻家=小野田はるの、川原竜三郎とも交流した。彼らは後の葬儀の際までヨシノ夫人の支えとなった。
 教皇拝謁の4日後、6月30日に路可は脳溢血を発病。《メルチェデ病院》(ローマ)に担ぎ込まれた。夫を頼り切って初めての海外旅行に赴いたヨシノ夫人にとって、この事態の展開における狼狽と心労は察するに余りある。
 原田は一足先にモンテカルロ(モナコ)にある路可のフランス留学時代の友人=Carlo(カルロ) ZANON(ザノン)(彼は来日した際に鵠沼の路可のアトリエを訪れたり、チヴィタヴェッキアの制作現場を訪れて、芳名録となった下絵に名を残している)の別荘を訪れるために夜行列車で向かった。路可夫妻は翌朝の飛行機でニースを経由しモンテカルロの駅で原田と合流する手はずになっていた。原田は予定の列車で路可夫妻が下車しないので、あるいは先に行っているのかとザノン宅を訪ねると、玄関先に蒼白な顔で現れたザノンは、電報を手渡した。「路可先生は亡くなったの?」と大声で叫ぶと、老人は大きく手を振った。原田は驚いてローマへ電話を入れたが、隣国とはいえ、国際電話である。当時の事情では繋がりが悪かった。イタリアの国境の町、ヴェンティミリアまで行き、ホテルに電話を入れて入院した事情を知り、早速夜行列車でローマに向かった。7月1日の早朝、病院に駆けつけると、ようやく危篤状態から脱し、冗談が言える程度の病状になっていたので、ひとまず安堵することができた。
 2日間の小康状態の後、愛妻ヨシノ夫人と原田恭子に看取られながら、マリアノ・石井神父による秘蹟を受け、7月3日午前5時、長谷川路可は《メルチェデ病院》から天に凱旋した。満70歳になる僅か6日前のことであった。
 亡骸は懐かしのチヴィタヴェッキアに運ばれ、《日本聖殉教者教会》の自らの作品に見守られる位置に安置された。チヴィタヴェッキア市名誉市民=長谷川路可の市葬には、與謝野 秀(しげる)イタリア大使(與謝野寛・晶子夫妻の二男)をはじめ、教会堂から溢れるほどの市民が粛々と参列して別れを惜しんだという。
 その模様はNHKイタリア支局によって収録され、日本へ送られた。
 原田はたまたま日本航空ローマ支店に勤務していた従姉の夫を訪ね、亡骸のまま帰国させたい旨を依頼し、実現した。
 かくして夫人と同じ便で亡骸は無事羽田に帰国した。日本での葬儀は7月11日、《聖イグナチオ教会》(東京・麹町)で執り行われた。
 また、従五位勲四等に叙され、〈旭日小綬章〉が追授された。
 
華の聖母子  イエス=キリストは「ナザレ人(びと)」とも呼ばれる。彼はこの世の生活の大部分を、イスラエル北部、ガリラヤ地方のナザレで過ごした。彼の父親(厳密にいえば母=マリアの夫)=ヨセフがこの町で建築業を営んでいたからだ。マリアがヨセフと婚約した段階で、天使=ガブリエルが彼女の前に現れ、胎内に神の子を宿していることを告げ知らせる。
 326年、コンスタンチヌス大帝の母ヘレナの頼みにより、ナザレの町、マリアの家の跡とされる場所に築かれた教会が中近東最大のキリスト教会とされるインターナショナルの《受胎告知教会》である。現在の聖堂は、カトリック=フランシスコ会によって14年かけて建造され、1969年に完成した。
 マリアのシンボルとされるユリの花をかたどったキューポラが聳え、正面の壁には聖母子、天使=ガブリエル、四福音書作者のレリーフが見られる。
 聖堂内外の壁面には各国の画家が描いたそれぞれの風俗を表す聖母子像の壁画が並んでいる。中でも異彩を放っているのが、長谷川路可作とされる『華の聖母子』である。高さ5.5b、幅2.6bの大画面に牡丹の花園に佇む細川ガラシアを想定した和装の聖母子が描かれたモザイク壁画だ。素材はズマルト(モザイク用ガラス)で一部に真珠を用いて日本を表現させている。
 たまたま師の臨終に立ち会うことになった原田恭子が中心となり、路可の遺志を継いで《F.M壁画集団》の山内祥、古川清右も加わって制作が進められた。制作はヴェネツィアのオルソーニ工房を借りて行われた。下絵に沿って基底材を細かいパネルに分割して制作、イスラエルに運ばれ、パネルの接続部分は現地の職人に任された。制作した《F.M壁画集団》の面々は完成に立ち会っていない。折から“第四次中東戦争”が始まったからである。
 筆者は1985(昭和60)年の夏、ナザレの《受胎告知教会》を訪れて『華の聖母子』の実物に接する機会を得た。「長谷川路可」というプレートしかないことから、これが没後に弟子の手で完成されたことなど知らずに、そのまま帰国し、後に会誌『鵠沼』86号に執筆した『旅先で出会った三人の鵠沼人の仕事』の中で勘違いのままを記してしまった。恩師への最後の奉公という弟子の希望から、路可の遺作として発表されたからである。ここを訪れる多くの人々も、路可が描いたのは下絵のみで、路可が育てた弟子たちが遺志を継いで造り上げ、イスラエルの職人によって完成したものであることを知らずに、この大作を見上げている。
 
おわりに  筆者は長谷川路可という人に会ったことはない。また、その作品も実物に接したのは『華の聖母子』の他に、ご遺族が藤沢市に寄贈された作品や没後の展覧会に出品された小品、地元の教会や寺院の作品くらいのものである。
 そんな筆者が不遜にも路可の生涯を綴る気になったのは、「はじめに」に記したように、2004年の100日間《鵠沼郷土資料展示室》で開かれた『―写真と資料による紹介―鵠沼が生んだ世界的画家 長谷川路可展』の仕事に携わり、すっかり長谷川路可という人物に惚れ込んだことと、路可という人物が忘れ去られようとしているような危機感を抱いたからである。
 書き出しては見たものの、これはとんでもないものに取り組んでしまったと気付いたが、後の祭り。はじめは〔上〕〔下〕で収めるつもりが〔中〕を挟んで3回分になってしまった。
 その間、風巻義孝、百世ご夫妻をはじめとするご遺族の皆様方、原田恭子、宮内淳吉両氏をはじめとする路可のお弟子さん方には様々な形で原稿の段階から文字通りのご指導、ご鞭撻を賜った。記して深く謝意を表する次第である。
 『長谷川路可伝』などという題名をつけたため、本格的な伝記を期待された向きもおありのようだ。筆者にはもとよりそのような大それたことをするつもりはなかった。第一そんな力量を持ち合わせていない。題名は、幕末に邦訳が出版されて以来、古い文語訳の新約聖書には『ルカによる福音書』が『路加傳』と題されていたので、それをもじったまでである。
 フレスコといい、モザイクといい、長期の保存を期待して数千年前に開発された技術である。ところが、現代の日本では、紙や絹よりも寿命が短い。岩国市庁舎や早稲田大学は、まだ幸運な例だ。それも、路可に近い方たちの呼びかけがあって初めて事態が動いた。チヴィタヴェッキアも気がかりである。さらにアンテナを張り巡らし、「路可の作品の運命や如何に?」という事態に備えなければならないだろう。                          〔完〕
(わたなべ りょう)
  長谷川路可 晩年の壁画
『人魚』[フレスコ]制作中のF.M壁画集団と路可
《船橋ヘルスセンターホテル日本館》(船橋市)
『華の聖母子』[モザイク]
《受胎告知教会》(イスラエル・ナザレ)
『香の華』[フレスコ] 
《シャンソンビル》(静岡市)
『長崎への道』[フレスコ]=遺作 《日本二十六聖人記念館》(長崎市)
長谷川路可略年譜
1897 7月9日 東京に生れる 本名・龍三。 =杉村清吉 =たか
1904 暁星小学校(東京・麹町)に入学。寄宿舎へ
1907 両親の協議離婚により母方に入籍。長谷川姓になる
   たか、妹=ゑい(東屋初代女将)のいる鵠沼へ転居。龍三の籍も鵠沼となる
1910 暁星中学校に進学
1914 函館郊外・当別のトラピスト修道院に滞在。三木露風と親交
   再興第1回《日本美術院展覧會(院展)》に出品。『浜辺にて』[水彩]
   暁星学校にてHenri(アンリ) HUMBERCLAUDE(アンベルクロード)神父より受洗。洗礼名:ルカ
1915 暁星中学校を卒業。渡邊華石に師事し南画を習得
1916 東屋の初代女将=長谷川ゑい、死去。=たか、女将を受け継ぐ
   東京美術学校日本画科に入学。松岡映丘に師事
   雑司が谷、巣鴨などに、在学途中からは従弟の長谷川欽一と住む
1921 東京美術学校日本画科を卒業。卒業制作『流さるる教徒』[日本画]
   日本郵船「加茂丸」にてフランスへ留学。船中で徳川義親侯爵と知り合う
   Charles(シヤルル) GUERIN(ゲラン) に師事、洋画技法を修得
   戸塚文郷の勧めにより《Bon(ボン) Samaritan(サマリタン)》に加わってロンドンに行く
1923 《Salon(サロン) d'Automne(ドートンヌ)》入選。リール美術館買い上げ
1924 松本亦太郎教授から西域壁画の模写を依頼される
   ドイツのフェルケルクンデ博物館、英国の大英博物館の西域壁画を模写
1925 5月まで フランスのルーヴル美術館とギメ博物館における模写
   《アール・デコ》(パリ)の日本美術館建設に参加
   ブラッセル文化美術博覧会の日本美術館建設と陳列に参与、勲章を受ける
   大英博物館の模写を終え、ベルリンに向かう
   ベルリンの日本美術展開催に小室翆雲代表と参与
1926 2月 パリに戻り、ルーヴルにおいて東京美術學校のための模写を行う
   Paul(ポール) Albert(アルベール) BOWDOIN(ボードワン)にフレスコ画技法を学ぶ
   《国際航空委員会議》でフォッシュ元帥に席画を披露
   《Salon d'Automne》会員推挙
   《Ecole(エコール) du(ドゥ) Louvre(ルーヴル)》の西洋服装史専科修了
1927 外遊より帰国し、現・藤沢市鵠沼海岸2-9-12にアトリエを構える
1927 東屋において「長谷川路可画伯歓迎会」
   新興大和絵会に加わり、第7回・同展覧会にフレスコ画などを出品
1928 1月15日 菊池登茂と結婚
   カトリック喜多見教会(東京)に日本で最初のフレスコ壁画を制作
   11月3日 長女=百世、誕生
1929 国民新聞に連載の大佛次郎『からす組』の挿絵を担当
   藤沢町旧郡役所にて個展。
   大和学園高等女学校(現・聖セシリア女子高校)で美術を担当する
1930 《羅馬(ローマ)開催日本美術展覧會》に大観、映丘、百穂などと参加、勲章を受賞
   教皇=Pius XIに拝謁、『切支丹曼陀羅』[日本画]を献呈
   銀座資生堂ギャラリーにて《世界一周スケッチ展》
   浜松の洋画家=佐々木松次郎らと《カトリック美術協会》を結成
1931 《新興大和絵会》解散
   早稲田大学で講演。理工学部建築科の研究室の壁にフレスコ画を描く
1932 第1回《カトリック美術協会展》出品。
   ジャワ、バリ島など南方の島々を廻る
   8月1日 次女=百合子、誕生
1933 徳川義親邸(東京)にフレスコ画を制作
1935 徳川生物研究所(東京)の建築装飾に従事
   台湾を廻る。台北教育会館にて個展
   4月16日 三女=清子、誕生
   松岡映丘を中心とする《国画院》結成に参加。
1937 鵠沼より東京目白へ転居
   文化服装学院に出講し、服飾美学・服装史を担当
1938 1月 妻=登茂、結核のため東京市療養所に入院
   3月2日 師=松岡映丘、死去
   尾張徳川家納骨堂(瀬戸市定光寺)にフレスコ壁画制作
   9月7日 母(東屋2代目女将)=長谷川たか、死去。墓所:本眞寺
   狩野光雅、遠藤教三と《三人展》結成
   文化服装学院の大講堂に大黒板左右1対の壁画制作
1939 共立女子専門学校に出講
   日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)へ出講。日本画、フレスコを担当
1939 カトリック片瀬教会献堂。内部装飾および『十字架の道行き』等を制作
   藤山工業図書館にフレスコ壁画を制作
1940 東京家政専門学校(現・東京家政学院大学)に出講。服飾史を担当
   11月22日 妻=登茂、東京市療養所にて死去
1941 《三人展》を《翔鳥会》と改称。出品。
   芸術科がある日本大学江古田校舎講堂にフレスコ壁画を制作
   朝鮮風景個展
1942 9月11日 金子ヨシノと結婚
1944 8月24日 長男=巌、誕生
1945 山形の妻の実家に疎開
1946 文化服装学院へ出講(再任) 11月 恵泉女学園高等部に出講。服飾史を担当
1948 2月13日 次男=路夫、誕生
1949 鹿児島カテドラル・ザビエル教会にザビエル渡来400年記念壁画を制作
1950 文化女子短期大学教授 就任
   母=長谷川たか墓所の本眞寺に『歩む釈迦像』[水墨板絵]を描く
   聖年に際しサイゴン経由のフランス船でイタリアに渡る
1951 教皇=Pius XIIに拝謁、『切支丹絵巻』を献呈
   金山政英代理公使に面会、《日本聖殉教者教会》の内装を依頼され、受諾
   1月 《日本聖殉教者教会》壁画構想に取りかかる 5月 下絵完成
   7月 チヴィタヴェッキアのフランシスコ会修道院に入る 8月 壁画制作着手
1953 徳川夢声連載対談「問答有用」第132回(海外版第9回『週刊朝日』
   日伊合作映画『マダム=バタフライ』のタイトルバックを描く
1954 2月 祭壇を囲む正面殉教図5画面と天井画完了し信徒席周辺6箇所の小    祭壇の壁画制作にとりかかる
   10月 壁画完成の祝別式、チヴィタヴェッキア市名誉市民に列せられる
1955 後援者=石橋正二郎の依頼により、ヴァチカン美術館所蔵の壁画を模写
1956 ウルバノ大学(ローマ)にフレスコ壁画制作
1957 《日本聖殉教者教会》壁画制作が一段落し、帰国
   文化女子短期大学へ復職
   壁画資料・滞伊中のスケッチ等を積んだ英国船シロン号がスエズで沈没
1958 武蔵野美術学校本科デザイン科講師として出講し、服装史を担当
   昭和女子大学短期大学部、日本女子大学へ出講し、服装史を担当
1958 岩国市庁舎壁画モザイク制作
   初来日したPierre(ピエール) CARDIN(カルダン)の文化学園での実演講義の通訳をする。1961も
   ブリヂストン美術館で個展
1959 古屋旅館(熱海市)大浴場にフレスコ壁画制作
1960 第20回《国民歌劇協会》公演オペラ『細川ガラシア』の美術を担当
   第8回〈菊池寛賞〉受賞
   武蔵野美術学校の教え子を率いて、《F.M壁画集団》を結成
1961 早稲田大学文学部棟1階エレベータホールに床モザイクを制作(F.Mと)
1962 船橋ヘルスセンターホテル(船橋市)にフレスコ・モザイク制作(F.Mと)
   第1回《国画人協会展》出品
   アリタリア航空の就航記念招待で渡伊。日本二十六聖人列聖百年祭に参列
1963 東松山カントリークラブ壁モザイクを制作
   日生劇場(東京・日比谷)ピロティ床モザイクを共同制作(F.Mと)
1964 文化女子大学教授に就任
   相模原中央研究所壁モザイク『幽玄』を制作(F.Mと)
   国立霞ヶ丘競技場玄関床モザイク、メインスタンド壁モザイク制作(F.Mと)
   国際仏教徒会館(浜松市)に《F.M壁画集団》女子とフレスコ壁画制作
   シャンソンビル(静岡市)に《F.M壁画集団》男子とフレスコ壁画制作
1965 《日本美術家連盟》理事となる
   オペラ『細川ガラシア』の衣装考証および舞台美術監修
1966 日本二十六聖人記念館(長崎市)に『ザヴィエル像』[フレスコ]制作
   心臓病で東京女子医大病院へ入院
1967 日本二十六聖人記念館に『長崎への道』[フレスコ]制作(宮内淳吉、古川清右と)
   教皇=Paulus VIに招聘され渡伊
   6月30日 ローマで脳溢血発病
   7月3日 午前5時、脳溢血のため、メルチェデ病院(ローマ)にて死去
   7月7日 日本聖殉教者教会においてチヴィタヴェッキア市葬
   7月11日 聖イグナチオ教会(東京・麹町)において葬儀
   従五位勲四等に叙され、〈旭日小綬章〉受章
1968 受胎告知教会に路可の下絵で《F.M壁画集団》による『華の聖母子像』完成
1975 Pericle(ペリクレ) FAZZINI(ファツツィーニ)から贈られた『長谷川路可のためのキリスト像』を受領
1996 早大建築科研究室のフレスコ再発見、修復後會津八一記念博物館へ
主要参考資料及び引用資料
 
【参考文献】
長谷川路可:『長谷川路可画文集』(株)求龍堂(1989)
高三啓輔:『鵠沼・東屋旅館物語』博文館新社(1997)
喜井豊治:『戦後日本のモザイク』
モザイク会議広報誌「Mosaic」vol.4(1999)
有田 巧:『長谷川路可・フレスコ画「アフロディーテ」の移設』
會津八一記念博物館研究紀要 第1号(2000)
p信祐爾:『東京国立博物館保管中央亞細亞画模写と長谷川路可』
東京国立博物館『MUSEUM』第572号(2001)
有田 巧:『長谷川路可のフレスコ画〈1〉〈2〉〈3〉』
會津八一記念博物館研究紀要 第4〜6号(2003〜2005)
大野 彩:『フレスコ画への招待』 (岩波アクティブ新書) (2003)
竹中正夫:『美と真実 近代日本の美術とキリスト教』(新教出版社)(2006)
片岡瑠美子:『描かれた日本の殉教者たち−長谷川路可作品を中心に−
純心女子大講座記録(2007)
チヴィタヴェッキア《日本聖殉教者教会》日本語案内リーフレット
 
【ホームページ】
http://blog.nanto-e.com/column/13/detail.jsp?id=451
http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=2581
http://mv.vatican.va/4_ES/pages/x-Schede/METs/METs_Sala05_01_01_031.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kitami_church/resources/fresco.html
http://www.waseda.jp/aizu/colle/col3e.html
チヴィタヴェッキア日本26聖人殉教者のミサ
http://www.youtube.com/watch?v=heomSTcLhag