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防衛駐在官メモが語る「六四天安門事件」~「勇気ある市民」流血の記録~(上)

2019年06月16日10時00分

在中国防衛駐在官時代の笠原直樹氏(解放軍の陸軍訓練場で)=1990年5月[笠原氏提供]【時事通信社】

◇緊迫北京の「空気」分かる史料

【特集】天安門事件30年


 1989年6月4日のから30年を迎えた。当時、北京の日本大使館で防衛駐在官として人民解放軍の動向を追った笠原直樹氏(69)が、自分の足で現場に行き、自らの目で見た「流血の北京」について連日記したメモを残していた。

 30年の歳月を経て明らかになったメモには、自衛官の視点で民主化運動を武力弾圧した人民解放軍の動向が詳細に記されているほか、学生運動を支持、応援した勇気ある市民の抵抗が克明に描かれている。当時の緊迫した北京の「空気」がわかり、とは何だったのかと考えさせられる貴重な史料である。〈〉内はメモの記述(時事通信社外信部編集委員・前北京特派員 城山英已)

◇民主化運動の転換点

 本題に入る前に少し中国の民主化運動の経緯について触れておこう。

 北京では1989年4月15日に、学生に人気のあった清廉な改革派指導者・胡耀邦前共産党総書記が急逝した。それを契機に学生による胡耀邦追悼運動が始まり、北京・天安門広場には学生が集結した。学生らは19日には国家指導者が執務・居住する中南海の新華門を包囲し、非常線突破を試みた。

 26日付の共産党機関紙・人民日報が、学生運動を「動乱」と決め付ける社説を掲載すると事態はさらに急転。愛国運動と認識していた学生は大反発し、27日には社説撤回を求めて長安街などをデモ行進した。覚悟を決めた学生約2000人が5月13日からハンストに突入した。

 当時北京大学生で学生リーダーだった王丹(米国に亡命)は筆者のインタビューに、の転換点として「5月13日からのハンスト」を挙げた。「それまでは学生運動だったが、この日を境に民主化運動に変わった」。胡耀邦追悼や腐敗反対を要求する学生の運動は、ハンストが始まったことで、命懸けの学生を支援する大量の市民らが参加するようになり、民主化運動の色を濃くした。

1989年に起きた天安門事件の状況【時事通信社】

 5月15日にソ連の改革を推進したゴルバチョフ共産党書記長が北京入りした。「中国にゴルバチョフはいないのか」と学生・市民の士気は一段と高まり、17日のデモは空前の100万人超に達した。一方でハンスト継続による生命の危機も迫っていた。

 共産党内部では、戒厳令施行をめぐり学生に同情し、学生との対話による解決を目指す趙紫陽総書記と、強硬派の李鵬首相らとの対立は激化していた。李鵬らの背後には、実際に政治権力を握ったトウ小平ら8人の長老がおり、長老が5月20日からの戒厳令実施を決定した。失脚した趙紫陽は19日未明、広場を訪れ、「来るのが遅すぎた」と涙ながらにハンストをやめるよう学生を説得した。学生らがつくった「民主の女神」が広場内で除幕されたのは30日だ。

◇戒厳令5日後の赴任

 「北京に戒厳令」。笠原は北京出発前の89年5月20日、新聞の夕刊を見て驚いた。不安を抱えたまま25日に着任。メモには〈それにしても、暑い、汚い、自転車が多い。そんな5月末の北京の第一印象だった〉と記した。

 前任の防衛駐在官が帰国する6月2日まであいさつ回りが続いた。北京の印象は〈東京とはだいぶ違うが、とにかくにぎやかではある。戒厳令が出ている街とはとても思えない〉

 大使館政治部の同僚に案内されて天安門広場を視察に行ったが、〈なるほどすごい人出で、まるでお祭りのようだ〉同僚は笠原にこう語った。〈「自転車で来ているのは市民で、ありゃやじ馬ですよ。(中国の)新聞やテレビで報道しないんで皆自分で見にくるんですよ」「仕事が終わるとここにくる市民が結構いるんですよ。でももう下火かなあ」〉

 大使館では、天安門広場を見渡せる長安街に面したホテル「北京飯店」14階に部屋を確保し、情報収集の拠点としていた。〈群衆の中に学生が建てたと言う『民主の女神』が白くそびえたっていた〉

◇解放軍に「衝撃が爪先まで走った」

中国当局による武力介入が起きる2日前の北京の天安門広場=1989年6月2日、北京【AFP=時事】

 事態が急変するのは6月3日午前1時半。2日に前任者が帰国し、前任者が住居とした斉家園の外交官アパートに荷物を運んだ。日本大使館のある建国門外地区には二つの外交官アパートがある。一つが斉家園外交公寓で、もう一つが建国門外外交公寓だ。150メートルほど離れた場所にあり、いずれも長安街に面している。日本大使館からも近い。

 この日夕方には夫人と一緒にイタリア大使館のナショナルデーに出席し、床に就いたのが午前0時頃。それからわずか1時間半後、アパート前で「ワーワー」言う声がして夫人が先に目を覚まし、笠原を呼んだ。「なんだ、いま何時だ」。

 〈ワーワー言う声は市民で、何かに向かって罵声を浴せているらしい。道路を何かが歩いている。暗いし、4階の窓からは40~50メートル離れているため良く分からないが、相当多くの人数が東から西に向かって整然と行進しているようだ。眠い目をこすってもう一度良く見た。一様に白い物を着ているが、「あーっ、あれは解放軍だ」衝撃が頭から爪先まで走った〉

 〈戒厳令の発令と同時に非武装で出動し、市民の説得にあって撤退した解放軍がまたも出動したのだ。今度は徒歩で、夜中に奇襲か?武器は?その数2000~3000人。そうだ、こうしてはいられない〉

 笠原はジーパンとTシャツ姿で大使館まで駆けた。大使館政治部はまだ明かりがつき、館員が残業していた。笠原は婦人用自転車を借りて天安門方向に急いだ。

 〈真夜中にもかかわらず道路はすごい人出だった。解放軍に抗議する人々を避けながら北京飯店手前までたどり着いた。そこでは学生らしき多数の人々が道路に車を引き出し、バリケードを作り解放軍の兵士をブロックしている。学生と解放軍とヤジ馬で全く動きがとれない。解放軍の兵士は上着を脱ぎ、白シャツ姿、武器は持たず水筒と雑のうのみ。相当歩かされたらしく汗をかき、疲れきっている。そして皆子供のように若い。指揮官らしきものは…いない。ただ市民に強烈な罵声を浴せられているだけで、なすすべを知らないようだ〉

 〈学生にブロックされ、もみ合うこと10分。兵士たちはバラバラと帰り始めた。その姿はまるで敗残兵のようだった。何の秩序も無く、三々五々、トボトボと元来た道を引き返す。それに向かって市民は容赦なく罵声を浴びせる〉

 武力制圧に向けた前哨戦であったが、何より際立つのは、学生たちのいる天安門広場に軍を接近させないと阻止する市民の抵抗である。

人民解放軍の兵士に帰還するよう訴える民主化運動の学生=1989年6月3日、北京【AFP=時事】

◇自転車で天安門・中南海まで

 6月3日は土曜日だった。笠原は未明からの騒動が一段落し、少し寝たが、大使館からの電話で起こされた。「武官、建国門陸橋のところに解放軍が来ているそうですよ。見てきてくれませんか」

 笠原はまた自転車で陸橋に行くと、市民が取り囲みすごい人だかりだった。自転車を降りて近づいた。

 〈「解放軍の出動だ」。人波をかきわけてトラックのほろのなかをのぞくと、解放軍兵士がぎっしり乗っている。完全武装だ。銃には弾倉も着いているし、弾帯にはそれぞれ弾倉が入っている。「こりゃ本気だ」。50両。1両に20人~30人として、1000~1500人。アンテナを立てた指揮官車らしきものもある。指揮官、兵士とも市民の説得、罵声にじっと耐えてただ黙ったままである〉

 いよいよ解放軍は本気を出し始めた。

 笠原は3日午後、大使館員が各自集めてきた情報について、時間、場所、内容、収集者を定型のカードに記録するよう求めた。さらに大使館内の壁に貼ってあった北京市の大きな地図をはがし、政治部の大部屋の床に置いた。地図上に「兵隊が何十人」などと、館員が入手した情報を鉛筆で書き込み、情報の共有を図った。ここを「オペレーションルーム」にしたのだ。自衛官ならでは発想であった。

 3日午後8時。まだ空は明るい。笠原は自転車で長安街を西進し、天安門まで行くことにした。

 〈興奮した市民がやったのだろう、中央分離帯の鉄柵などが道路に並べられたり、交差点にバスが並べられたり、至る所障害が作られている。長安街のあちこちでは、市民が所々に集まって何やら話をしている。天安門から帰ってきた人をつかまえて、情報交換をしているのだ。皆、相当興奮している様子だ〉

北京の天安門広場を舞台に展開された民主化運動の学生リーダーの王丹氏(中央)=1989年5月1日、北京【AFP=時事】

 笠原はさらに進み、中南海新華門まで来た。

 〈兵士が一線にならび、中南海への市民の進入を阻止している。大勢の市民が、兵士にかみつくようにして抗議している。潜り込んで観察すると、兵士たちはヘルメット、弾帯姿だが、武器は持っていない。そこらの市民に聞いてみると、昼間、どこからか多数の兵隊がわき出て、市民に押されて中南海に逃げ込んだということらしい。あちこちに軍が出ているのだ。それにしても、兵力の分散投入のようであり、あまりうまいやり方ではない〉

◇「血の弾圧」の予兆

 さらに事態が急変したのは3日午後11時。大使館にいる笠原の元に北京飯店の拠点から電話が入った。「戦車が1両、建国門陸橋の方へ走っていった」。実際は砲塔のない装甲車(APC)だったが、笠原は〈APCまで持ち出したか。本当にやる気なんだなあ〉と感じた。

 笠原は現場の長安街に走ったが、建国門陸橋から既に東の方向に突き抜けた装甲車は引き返してきた。キャタピラとエンジンの音が聞こえる。

 〈薄暗い道路を装甲車が1台走ってくる。逃げ惑う市民、後を追いかける市民、あたりは騒然としている。装甲車は時速50~60キロでグングン近づいてくる。薄暗い中で見る装甲車は、不気味ですごい迫力だ。装甲車は、我々の前を通過すると建国門陸橋へと突進していった。多くの若者が駆け足や自転車で追いかけて行く。我々もその中に入り、追いかける〉

 〈建国門陸橋の市民は、一部のものが道路脇へ避難したが、多くの人々は装甲車を止めようとそこを動かない。装甲車は、建国門陸橋の市民のまえに来ると、速度を落とした。回りに安堵(あんど)感が流れた。装甲車の上に登ろうとする若者がいる。と、そのとき、ブーン エンジンをふかし、装甲車が急発進。「あーっ、突っ込むぞ」。装甲車は、市民の群れの中に突込み、その中に消えた。「ヤースーラ(筆者注・ひき殺した)」「ヤースーラ」。人々が大騒ぎをしている。だれかがひき殺されたに違いない。行ってみたがものすごい人で、近付けない。装甲車もみあたらない。建国門陸橋にいる解放軍のトラックと兵士は、まだ何も行動を起こしていない。市民がすべて興奮状態になっているような雰囲気を肌で感じた〉

 いよいよ「血の弾圧」につながる武力制圧が天安門広場の西の方では始まっていた。大使館政治部の大部屋には、ひっきりなしに電話がかかってくる。北京飯店の拠点や大使館員から情報が入り、笠原は北京地図にその情報を反映させた。

 笠原は当時の情勢をこう分析した。〈市内中心部の天安門に向かって、全周から解放軍が進入しようとしており、二環路(第二環状線)または三環路(第三環状線)との交差点等でそれぞれ学生・市民と対峙(たいじ)していると言うことだ。ちょうど(筆者注・二環路と長安街が交わる)建国門陸橋の様な状況があちこちで起こっているのである。特に西側に解放軍は重点を置いている様に感じられる。強攻策を取る可能性が高い〉

 笠原のこの分析は後から見ても非常に正確である。でもっとも軍と市民が衝突し、犠牲者が出たのは天安門広場から8キロほど西に行った木セイ地だった。

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