母が教えてくれたこと
母の妹、私の父、姉、私の4人で最期を看取りました。
また、通夜、葬儀及び告別式は去る10月16日、17日に滞りな
ご会葬、ご焼香にお越し下さった皆様、
また人数の関係でお知らせ出来なかった皆様、
16日は1日晴天、17日はしとしと雨。
明るい表情と悲しい表情。
まるで母の様な天気だな、と。
私や姉、家族に嬉しい出来事があると、とても喜んでくれて、
辛い出来事があると、一緒に辛い想いさえも共有してくれる。
人の心に寄り添ってくれる、本当に優しい母でした。
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母の病気が判明したのは、今年の3月中頃。
ちょうど宮城へ出張中の夜の事でした。
判明前から調子があまり良くない時期が続いていたのですが、
MRIやCT、マーカー検査でも何も判らなかった。
胃カメラを飲んで、初めて判った病魔。
高校の同期の消化器外科の医者になった人間に聞くと、
まれにこの様なケースもあるみたいなので、
判明した直後、父も姉も私も、
ただただ項垂れ、ただただ泣く事しか出来ませんでした。
そんな中でも、現実を静観すると言うか、本当に落ち着いていて、
『ちゃんと仕事は行ってるのか』
『この予定は私に構わず行きなさい』
きっと気持ちは穏やかじゃなかったと思うんだけどな、
本当なら『ああしとけば良かったね』『こうすれば良かった』
今までの仕事感も同様で。
震災だってそうだった。
起きなければ良かったし、本来であれば起きて欲しくない出来事。
でもそれは事実『起きてしまった』んだ。
その事実は時空をねじ曲げでもしない限り変わらない。
だから自粛ムードの中でも敢えて大きな声で『楽器の支援をする』
起きてしまった事実にクヨクヨするぐらいなら、
起きてしまった事実と共生しながらまず行動、前に進もうと。
与えられた環境を受け入れて、その中で最善を尽くすのだと。
今までそう生きて来れたのは、
だから今回も、少しずつですが家族各々気持ちを切り替えて。
とにかく姉と父と、様々病院や治療方法を模索しました。
2週間も経つと、
この時はエビデンスという言葉そのものが本当に嫌いになりそうでした。
ですが最終的に大変お世話になっている方から県立のがんセンター
入院後は本当に恵まれた環境でした。
担当の先生にも、看護士さんにも、様々恵まれていました。
また母のコミュニケーション力は凄まじくて、
看護師さん達ともあっという間に仲良くなり。
人は鏡と言ったもので、自分を映し出した環境や人が自然と現れるのだろうな。
重い病気にかかったり、余命宣告があると、
母は全く変わらず、看護師さんにもいつも笑顔で。
母はまわりを自然と穏やかな気持ちにさせてくれる人なんだなと。
家族は本当に母中心に回っていて、
母のいた様々なコミュニティの皆様も口を揃えて同様の事をおっし
そんな母に育ててもらえた事が、どんなに有難いことなのか。
母にも、母と出会ってくれた父にも、姉として生まれて来てくれた姉にも、
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療養入院して直ぐ、入院中のお供にと、母にiPodを買いました。
姉の演奏会の録音や、弊社アーティストのCD楽曲、母が好きだったポール・モーリア。
その中に高校の吹奏楽部の定期演奏会の録音をいれたのですが。
3年卒業時の1番メイン曲、〝交響組曲第2番「GR」 〟を母が『懐かしいね』と何度も聴いてくれておりました。
5月頃に、
6月某日、弊社の子達や、高校、
会場はkaho*ワンマンでもお馴染みの戸塚さくらプラザホール
弊社アーティスト達のライブ(男性アーティスト陣は公演時間の関係上スタッフに徹してくれました、感謝。)
高校吹奏楽部の後輩、同期、先輩と奏でた〝交響組曲第2番「
1人では決して出来なかった。
人との繋がりの大切さを常に説いてくれた母に、
仲間達の力を大いに借りて開催することが出来ました。
友達夫婦がその日の写真集を作ってくれて、
母も嬉しそうに読んでおりました。
全然恩返し出来てなかったから、
泣いて喜んでくれた母の姿に、私自身もとても嬉しかった。
快く力を貸してくださった友達や仲間達に、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
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なかなか病状が改善することはなかったのですが、
最期の最期まで、母は母のままで、穏やかな最期でした。
通夜、葬儀・告別式は、清水社長のサバスホールで。
父と姉と、母らしい式になる様にと様々準備を行いました。
また、サバスホールの皆様や受付をかって出てくれた商店会の皆様にも多大に尽力頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。
両日で450人を超えるご参列を頂き、人が大好きな母だからこそ、
多くの皆様に見送られ、とても喜んでいると思います。
ご多用の中ご参列いただきありがとうございました。
お知らせできなかった皆様、本当にごめんなさい。
だから変な話ではありますが、葬儀後は生明家はみな笑顔でした。
母をちゃんと送り出せたと、ホッとした安心感が生明家を包み込んでいて。
姉とも父とも、なんだか笑顔でした。
なんか、これも母が優しさを返してくれたのかなと、改めて感謝です。
そしてあの入院生活は、姉、父がいなかったら絶対に成立しなかった。
姉は7月から3ヶ月看病で泊まり込みでした。
家族の存在にも改めて感謝ばかりの7ヶ月でした。
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こんな歳になってなんですが、私は本当に母が大好きでした。
小さい頃から甘えん坊で、小学校卒業まで同じ部屋で寝て。
中学時代、毎朝毎晩の勉強の時間に作ってくれるココアが楽しみで。
高校入試では、願書の到着日を1日間違えて出し忘れた時に、学校に問い合わせをして、学校近くの郵便局なら早めに到着が可能だと、願書を届けてくれて。(じゃなきゃ高校に入る試験すら受けれませんでした)
大学時代は、音楽の道を目指す事に大反対。
でも貫いて活動を始めてからは一番の応援者で、一番のファンでいてくれて。
会社の事は特にたくさん応援してくれて、手伝ってくれていました。
私がどんな状況であっても、いつも味方でいてくれた人。
たまにみせる厳しさに、本当の愛情を感じさせてくれた人。
人の喜びにも、人の悲しみにも寄り添ってくれる人。
見返りなんて求めず人のために尽くしてくれる人。
決して人を責めることも物事を決めつけることもせず、広い懐で受け止めてくれた人。
失敗するのを判っていても経験を積ませようと、いつも見守ってくれた人。
母が残してくれた7ヶ月は、私自身は後学になることが多く。
母なしで生明家が3人で過ごす訓練の時間(?笑)にもなり、姉が最期3ヶ月ずっと泊まり込みで看病してくれて、姉の大切さも改めて実感できたり。自分がダメになりそうな時にそっと手を差し伸べてくれる人の大切さも分かった。人の温もりや思いやりもより一層感じることが出来た。人の優しさに、まわりの心遣いに何度も心救われた。
ちょっとした非日常は、たくさんの経験や知識をも与えてくれたのだと、母が身を粉にして教示してくれたことを、しっかりこれからも心の中で握りしめて歩んで行こうと思う。
でも、やっぱりまだ悲しいけど。
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お袋の味なんてよく言ったもんですが、
やっぱり母のご飯がもう食べれないのは悲しい。
実家の台所からまた母さんの声が聞こえてきそうな。
きっといっぱい食べておいた方がいいっす。
ご飯の度に、母がもういないことの実感を積み重ねている気がします。
そんな実感と共に湧いてくるのは、母さんへの感謝の気持ち。
いつだって前向きだった母さんには、感謝しかないっす。
母さん、ありがとう。
今頃、今年の5月に亡くなった愛犬ティガとお散歩しているのかな。
これから生明家はちょっとの間人数が少なくなりましたが、
父さんと姉貴と俺で、新しい生明家を築いていきます。
俺も姉貴も、各々自分たちの家庭を持つ時は、
母さんと父さんが築いてくれたような、あたたかい家庭になるよう頑張るよ。
いずれ自分たちも母さんのいる世界に行くけど、
下界で頑張りたいことやりたいこといっぱいあるから、ちょっと待っててね。
ご飯ちゃんと食べるから、不規則な生活にならない様に頑張るからさ、
父さんの老後は俺たちで面倒みるから、大丈夫。
どうか安らかに、安心して空から見守っていてね。
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葬儀から1週間経ち、すこーしばかり頭がぼーっとしていましたが、
身体を動かして、色々な人と話すことでまた生活レベルを戻してきています。
色々とご心配おかけしてしまった皆様、本当にごめんなさい。
今年度はうまく仕事に身が入らないこともあり、
迷惑をお掛けしてしまった人もたくさんいたのかなと思います。
本当に申し訳ないなと思うことが今年度は多すぎた。
仕事を誰よりも応援してくれた母が安心できる様に、
少しずつ自分のペースを取り戻しながら、一生懸命前に進んで行きます。
どうかこれからも母が生前の頃と同様に、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします。
今年度も来年度も、弊社スタッフやアーティスト達、アーティストを応援してくださる皆様、商店街などのまちの皆様、提携してくださる企業の皆様などなど、
精一杯皆様の幸せや充実感を追求できる企業を目指して、邁進してまいります。
来年度は新規事業に更に乗り出す予定です。
どうか!これからも普通に絡んでやってください。
ご期待ください!はい!