吹上遺跡全景(1枚目)、吹上遺跡調査近景(2枚目)、吹上遺跡出土品(3枚目)
斐太遺跡群の位置関係(4枚目)、釜蓋遺跡全景(5枚目)、釜蓋遺跡出土品(6枚目)
斐太遺跡群は、高田平野南部の丘陵地から平野部の半径約1.5キロメートルという狭い範囲の中で、弥生時代から古墳時代にかけて存在した拠点的集落である、吹上遺跡、斐太遺跡、釜蓋遺跡の3遺跡からなります。
いずれの遺跡も、この地域が青田川の扇状地で水田耕作に適していたこと、日本海側と長野方面を結ぶ交点だったことから地域間交流の拠点であったと考えられています。
また、吹上遺跡の集落規模が縮小する時期に斐太遺跡への集住化が図られ、斐太遺跡の縮小と吹上遺跡の一時的な廃絶とほぼ同時に釜蓋遺跡が成立しています。
このように、斐太遺跡群は、この地域の成り立ちや拠点集落の移り変わりがわかる非常に貴重な事例です。
それぞれの遺跡の特徴は以下のとおりです。
弥生時代中期から古墳時代前期にいたるまで長期間存続した遺跡です。史跡指定面積は約8.5ヘクタールにおよび、多様な建物や墓域の存在から、地域の中核的集落と考えられます。
遺跡の特徴は、弥生時代中期に盛んにおこなわれていた大規模な勾玉や管玉生産で、なかでもヒスイ製勾玉の生産量が全国でも有数の規模を誇ります。生産された勾玉はその需要が高かった中部高地を中心として、広域に流通したと推定されます。
また、石包丁やこの地域には珍しい銅鐸型土製品や銅戈型土製品が出土していますが、これは、遠隔地を含んだ広域流通の存在や、中核集落としての重要度を示しています。
扇状地を見下ろす丘陵上に形成された弥生時代後期から終末期の東日本最大級の高地性環濠集落です。
遺跡の総面積は8ヘクタールを超え、谷に隔てられた丘陵に巧みに環濠(堀)を巡らし、4か所の居住域に200基以上の竪穴住居が密集していることから、高度な集住形態を持つ拠点的な集落とされています。また、居住域が谷と環濠に囲まれた丘陵上にあることから、防御的な性格の強い集落と考えられます。
遺跡からは、遠方との交流を示す遺物も出土しており、物流の拠点としても機能していたと想定されます。
扇状地北端に位置する、弥生時代の終わりから古墳時代はじめの環濠集落です。
史跡指定面積は約4.6ヘクタールで、集落を取り囲むように幅2~3メートル、深さ約2メートルのこの地域では極めて規模が大きい3条の環濠が確認されています。また、遺跡の東側にあった河川も環濠の一部として利用していたと考えられています。
集落東側を流れる河川に結束すると推測される環濠を持ち、舟運を思わせる建物跡や、環濠内部からは、近江など西日本を中心とした遠方の土器が多数見つかっています。
本来は居住に向かない低地にあえて集落が作られたのは、舟運による物資の流通を優先させたためであり、地域間交流の拠点として、近隣周辺のみならず、遠隔地とも盛んに物資の流通を行った姿が想像されます。
以上のように、それぞれ異なる遺跡の性格や集落の盛衰は全国的な動向や傾向と密接に関わっており、弥生時代から古墳時代の我が国の古代国家形成期における地域のあり方を示すものとしてもきわめて重要です。