猛虎人国記

猛虎人国記(24)~静岡県(上)~ 背番「1」のサードが放った劇的弾

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 「静岡の早慶戦」と呼ばれる静高(しずこう)-静商(せいしょう)から各5人が入団している。

 朝井茂治は1960年代中盤、阪神のサードを守った。「名手」三宅秀史が1962年(昭37)9月、左目にボールを受けて倒れ、出番が回ってきた。64年のリーグ優勝に貢献し、南海との日本シリーズでもジョー・スタンカを打った。

 阪神で背番号「1」のサードと言えば、球団草創期、イロハ順で決めた伊賀上良平の系譜だ。

 派手な活躍もあった。65年8月2日、「死のロード」に出向く前の大洋(現DeNA)戦(甲子園)。2-3の9回裏2死一塁、左翼ラッキーゾーンへ逆転サヨナラ本塁打をたたき込んだ。翌朝のスポニチ1面に<また殊勲! 朝井劇的2ラン>の大見出しが躍った。<また>とは7月29日巨人戦でも本塁打含む3安打で村山実を援護。前後14試合連続安打で、この間28打数14安打と絶好調の6番。劇砲も「狙っていた」と語る。翌66年にもサヨナラ弾を放った。

 静岡商で59年夏の甲子園に出場。大会後に米西海岸、ハワイに遠征した全日本高校選抜では4番に座った。自由競争の時代、争奪戦だった。入団発表では優勝投手の西条・金子哲夫、倉敷工・三宅博の甲子園トリオで会見。朝井は「大毎などにも誘われたが、小さい頃からタイガースファンだったので」と喜んだ。

 だが球団は毎年、三塁の新外国人を獲得。68年には再三譲渡を求めていた広島に移っていった。

 静岡商54年夏の全国準優勝バッテリー、松浦三千男-滝英男も入団。4番に興津立雄(後に広島)がいた。滝は滝安治(巨人)の兄。2年生だった松浦は1年後、大木利男とともに入団。アウドロ(外角への落ちるカーブ)に威力あった松浦は退団後、鐘淵化学で阪神同僚の大根(おおね)晃と一緒になった。勝亦治は池谷公二郎(広島)と同期だった。
 静高出身の阪神第1号は立教大-大昭和製紙の望月充。1年目72年オープン戦で打ちまくり、開幕から3番に抜てき。オールスターにも選ばれた。76年、江夏豊とともに南海に移籍した。

 植松精一は73年夏、全国準優勝時の3番。優勝した広島商の3番・楠原基との打撃比較が朝日新聞に連続写真入りで載った。植松の優秀さを示す分析だったと記憶する。法政大で江川卓や先の楠原と黄金期を過ごし、ドラフト2位で背番号「1」。1年目78年から104試合に出た。翌年から故障に泣いた。

 山崎一玄(かずはる)はクレバーでスレンダーだった。期待から「16」を背負った4年目、94年6月15日巨人戦(東京ドーム)での初完封が印象に残る。先発もロングリリーフもこなした。近鉄移籍後の02年に自由契約。古巣阪神への出戻りテストを受けた後、引退。阪神打撃投手として来季10年目を迎える。=敬称略=

続きを表示

バックナンバー

もっと見る