日本で唯一の民間機専業、たった8人で航空機の設計製造を手がけるオリンポスの四戸哲(しのへ・さとる)社長は、MRJ苦闘の原因を、遙かな昔、冷戦体制の中で、米国が日本に無制限に流した最新技術情報が「日本の航空エンジニアを“中毒”させた」ことにあると読み解いた。

 しかし、それは同じ敗戦国だったドイツでも同じことがあったのではないか? なのにドイツはフランスと並びエアバスの主要国として航空産業を着実に育成している。

 敗戦後の日本とドイツ、航空産業の道が分かれたのはどこだったのだろう。

(前回はこちら

松浦:気になるのが、同じく敗戦国であったイタリアとドイツ、中でもドイツの戦後の経緯です。ドイツも連合国から航空機の研究開発や製造を禁止されましたが、1950年代に日本と同じく航空機開発に復帰しました。でも、その後が違う。へなへなとなってしまった日本と対照的に、ドイツは航空機産業を着実に育成して、現在ではフランスと並んで旅客機のエアバス・ファミリーの設計に参加し、かつ主要生産国になっています。いったいこの違いが発生した原因はどこにあったのでしょうか。

四戸:まず、第二次大戦以前からドイツの航空宇宙技術は世界的に見てずばぬけて進んでいた、という事実があります。実際、第二次世界大戦から冷戦期にかけての米国の航空技術の躍進には、かなりの部分、ドイツからの移住者が関わっています。たとえば、太平洋戦争末期に、日本を爆撃しに飛んでくるB-29を護衛したノースアメリカンP51ムスタング戦闘機ですが、設計者のエドガー・シュミードはドイツからの移民です。

<b>四戸 哲</b>(しのへ さとる)有限会社オリンポス代表取締役。1961年、青森県三戸郡生まれ。小学生時代に見た三沢基地でのブルーインパルスのアクロバット飛行を見たことが航空エンジニアを志すきっかけとなった。学生時代のヒーローは航空エンジニアの木村秀政氏。高校卒業後に木村氏が教授として在席している日本大学理工学部航空宇宙工学科に入学し、日大航空研究会に所属。卒業後、日本には極めて珍しい、航空機をゼロから設計する会社としてオリンポスを創業。木村氏を顧問に迎える。以後、軽量グライダー、メディアアーティスト八谷和彦と、『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」を模した一人乗りのジェットグライダー(<a href="/article/interview/20131204/256706/" target="_blank">こちら</a>)の機体設計・製作を担当。国産初の有人ソーラープレーン「SP-1」、「95式1型練習機(通称・赤トンボ)」の復元プロジェクト、安価な個人用グライダーの開発・製造を行っている。
四戸 哲(しのへ さとる)有限会社オリンポス代表取締役。1961年、青森県三戸郡生まれ。小学生時代に見た三沢基地でのブルーインパルスのアクロバット飛行を見たことが航空エンジニアを志すきっかけとなった。学生時代のヒーローは航空エンジニアの木村秀政氏。高校卒業後に木村氏が教授として在席している日本大学理工学部航空宇宙工学科に入学し、日大航空研究会に所属。卒業後、日本には極めて珍しい、航空機をゼロから設計する会社としてオリンポスを創業。木村氏を顧問に迎える。以後、軽量グライダー、メディアアーティスト八谷和彦と、『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」を模した一人乗りのジェットグライダー(こちら)の機体設計・製作を担当。国産初の有人ソーラープレーン「SP-1」、「95式1型練習機(通称・赤トンボ)」の復元プロジェクト、安価な個人用グライダーの開発・製造を行っている。

松浦:そういえば、プロペラからジェットへの航空機高速化の過程で、まさに技術的な核心となった後退翼の理論も、ドイツが先行していましたっけ。米国はドイツから後退翼の技術的資料を入手して、F-86戦闘機とかB-47爆撃機を開発した。

四戸:遷音速から超音速にかけての空力的ノウハウも、クルト・タンクなんかが先行して設計で実践しているわけですよ。

松浦:そのような実践を支えていたのが、ぶ厚い系統的な空力実験データの蓄積で、ドイツは20世紀初頭にルートヴィヒ・プラントルという流体力学者が出て、近代的な風洞を発明してゲッティンゲン大学で組織的な研究を行っていますよね。ゲッティンゲン翼型というのは、今も空力の基礎データとして使われていますし。

四戸:そうです。実はゲッティンゲン大学での翼型の研究は、まだ離散的で連続的なデータを蓄積するには至っていなかったんです。系統的空力データの重要性に気が付いて、国費を投入して組織的にデータ蓄積を押し進めたのが戦前の米国です。

松浦:ああ、NACA。

四戸:米国は1920年代以降、アメリカ航空諮問委員会(NACA)という国家組織が、翼型をはじめとした空力の系統的な実験を実施して、結果を誰でも読めるレポートにまとめていったんです。ですから、軍用機を開発する場合も、日本の技術者は実際に飛ばして試行錯誤で解決するしかなかった問題を、米国の技術者はNACAのレポートを読むことで解決することができました。これなんかも、ドイツからの刺激が米国で花開いた結果だったんでしょう。ドイツが米国に与えた影響は非常に大きかったんです。

B-29:米ボーイング製大型四発爆撃機。1942年初飛行。第二次世界大戦で日本本土爆撃に投入され、日本の主要都市を焦土と化した。広島と長崎に原子爆弾を投下したことでも知られる。

B-29(奥の機体)。手前にあるのはチャック・イェーガーが操縦して世界で初めて音速を突破したベルX-1実験機(前回参照。画像:NASA)
B-29(奥の機体)。手前にあるのはチャック・イェーガーが操縦して世界で初めて音速を突破したベルX-1実験機(前回参照。画像:NASA)

P-51:米ノースアメリカン製戦闘機。1940年初飛行。第二次世界大戦における戦闘機の最高傑作の呼び声高い大成功作。高速性能、航続距離、運動性能、武装のすべてに優れ、大戦末期はドイツや日本の戦闘機に対して圧倒的優位を誇った。

P-51戦闘機(画像:NASA)
P-51戦闘機(画像:NASA)

エドガー・シュミード(1899~1985):米国の航空機設計者。ドイツに生まれドイツの教育を受け、後にブラジル経由で米国に移住。ノースアメリカンでP-51戦闘機を設計した。「どんな愚か者にでも設計を批判することはできる。しかし最初の設計を行うためには天才が必要だ」という言葉を残している。

後退翼:現在の旅客機にみるような、後ろに大きく反った主翼の形式。音速に近い速度域での空気抵抗を軽減する効果がある。ドイツは第二次世界大戦前からの研究の蓄積で、戦中にほぼ後退翼の理論を完成させており、あと少しで実用化できるところまで進んでいた。

F-86:米ノースアメリカンが開発したジェット戦闘機。1947年初飛行。ドイツから得たデータに基づく後退翼を装備しており、朝鮮戦争では同じくドイツからのデータに基づいた後退翼を装備した旧ソ連の戦闘機ミグ15と互角の空中戦を繰り広げた。我が国の航空自衛隊も、1955年から1982年にかけて、F-86を主力装備として使用した。ちなみに、東京オリンピックの開会式(1964年10月10日)にあわせて、東京上空に五輪の輪を描いたのも、このF-86であった。

F-86戦闘機(画像:米空軍)
F-86戦闘機(画像:米空軍)

B-47:米ボーイングが開発したジェット戦略爆撃機。1947年初飛行。後退翼を装備した米国初の爆撃機である。この機体を開発することで後退翼の効果を実感したボーイングは、続けて後退翼を装備した同社初のジェット旅客機「707」を開発し、現在に至る「ボーイング旅客機帝国」の礎を築くこととなった。

B-47爆撃機。写真の機体は偵察型のRB-47(画像:米空軍)
B-47爆撃機。写真の機体は偵察型のRB-47(画像:米空軍)

クルト・タンク(1898~1983):ドイツの航空機設計者。ナチス・ドイツの主力戦闘機のひとつ「フォッケ・ウルフFw190」を設計した。戦後はアルゼンチンやインドなどで、ジェット戦闘機開発の指導を行った。

ルートヴィヒ・プラントル(1875~1953):ドイツの流体力学者。航空機主翼の理論を体系化し、ゲッティンゲン大学に風洞を設置して、翼に関する基礎的データを系統的に収集した。流体の熱伝導における重要な無次元数「プラントル数」にその名を残している。

翼型:翼を進行方向と平行な方向に縦に輪切りにした時の断面形状のこと。この形状は、航空機の性能に決定的な影響を与える。このため、ゲッティンゲンのプラントルチームは、組織的な翼型の研究とデータの蓄積を行い、米国のNACAはそれをさらに徹底して押し進めた。

四戸:もうひとつドイツの戦後の対応として、早い時期に占領軍と交渉して無動力のグライダーだけは解禁に持ち込んだことが大きかったと思います。「エンジンがついている飛行機だったら戦闘に使われる可能性もあるでしょう。だけど動力がないグライダーなら戦闘に使えないから構わないでしょう」というロジックで交渉を行って解禁を勝ち取ったんです。これは、ドイツのエンジニアが航空機に賭けた情熱の結果だと思います。

編集Y:ああ、前回お聞きしたお話と繋がりますね。グライダーを開発することが許されれば、次世代のエンジニアを育てることができる。次世代が育てば希望を託することができる。

グライダーは航空人材を育てる「空のゆりかご」

四戸:さらには日本の場合、朝鮮戦争での特需があって、エンジニアが自動車産業や電気産業など各方面に散っていったわけですが、ドイツはそんな特需はありませんから航空エンジニアがあまり離散しなかったということも影響していると思います。グライダーが許されたことで、将来に希望を持って不毛の時期を耐えることができたんです。

松浦:あ、それは第一次世界大戦の時と同じですね。第一次世界大戦でもドイツは負けて、ヴェルサイユ講和条約で軍用航空機の配備が禁止されるんですが、海外向けの航空機の製造と販売は禁止されなかったんです。だから戦後、航空エンジニア達はみんな会社を興して戦争中に培った技術で海外向けの飛行機の生産を始めるんです。

四戸:米国とかスペインとかイタリアに飛行機を売ったり、あるいは出かけていって現地で飛行機を作ったりするんですよね。そこらへん、ドイツ人は結構したたかですよね。

松浦:それともう1つ、ドイツの場合、第一次世界大戦後も戦略的に航空教育をもの凄く重視して、各地の学校でグライダークラブをどんどん立ち上げたりもしてます。

四戸:そうなんです。それが結局、今のエアバスの一番深いところにある礎なんですよ。

グライダーを通した教育が、エアバスまでつながった

Y:グライダーが、ですか? そこまで?

四戸:グライダーというか、グライダーを通した教育が、ですね。ドイツの場合、小学生、中学生のころから「空飛びたい、飛行機作りたい」って子供たちをどんどん煽っちゃうんですよ。ですから、高校生で飛行機を操縦できるなんて珍しくもないですし。

Y:え? 「操縦できる子がいる」ってだけじゃなくて「珍しくもない」んですか?

四戸:珍しくないです。

松浦:地上を走る乗り物とは違う物理に従って飛んでいる、ってことを理解すれば、飛行機の操縦って基本的には簡単ですよ。だって、回りには何にもないんだもん、ぶつかるものがないんだから。

Y:いやいやいやいや(笑)。

松浦:私、運動神経はかなり鈍いほうだけれど、それでも「飛行機の感覚」ってのを体に叩き込んだら、パラグライダーで飛べましたしね。

四戸:子どもの適応力って、すごいんですよ。そしてその適応力を最大限に発揮させるには、やはり年齢的な“旬の時期”があるんです。ほら、戦国時代はどうして14~15歳で元服させたかってことですよ。

Y:え?

四戸:はっきり言えば、その年で人殺しをさせて、それでもPTSDにならない奴を組織の成員、あるいはリーダーに選ぶための選抜、だと思うんです。合戦に裏切りなんでもありの時代は、そういう選抜をしないと自分が属する組織が崩れちゃうから。

Y:14、15歳で適性があるかどうかを見定めることが重要だと。たとえはともかくとして。

「才能の早期発見」が産業育成にも重要

四戸:ええ。そこまで極端な話じゃなく、自分の人生を振り返ってみても、自転車で好き放題やる、バイクで好き放題やるといったら、やっぱりこのころ、ミドルティーンだったじゃないですか。何か学ぶとしたらその時期に力が入っていく。そしてその時期に身に付いたものは、一生を決めて行くんです。それは男の子に限った話じゃなくて、女の子だって藤圭子の歌じゃないですけど「15、16、17」と。

松浦:あれは人生暗いって歌だから、また話が違う!(笑)。

四戸:あるいは、「赤とんぼ」の歌詞は「15でねえやは嫁に行き」でしょ。

松浦:あれも「お里との連絡は切れて」という悲しい話で……

Y:松浦さん、ストップストップ!

四戸:ともあれ物事に対する意欲とか、あるいは運動神経の旬の時期というのはやっぱり15歳から17歳ぐらいまでだと思うんですよ。

Y:……確かに、自分がその辺の年頃で得たものというのはまだ持っていますもんね。「年を取ると、結局そこに帰っちゃうのかな」と思うくらいで。

自動車産業とここが違った

四戸:話を戻しますが、日本の航空産業がなぜ今の状態になったのか、ドイツとどこが違ったのかというと、次世代教育における旬の時期を逃したことがひとつの大きな要因だと思っています。15歳から17歳ぐらいで、夢中になって集中して飛行機に触れ、自分で設計し、飛んでみるって体験を得る機会が、日本はほとんどないんです。

 ドイツは早い時期にグライダーを解禁に持ち込んだことで、15歳から17歳の子たちが実物に触れて「飛行機ってこういうものだ」という感覚を体に叩き込む場を継続的に提供することができたんです。

松浦:日本も戦前は軍事教練の一環として、中学校に積極的にグライダーを配布していましたね。だから昭和一桁生まれの世代だと「グライダー? 中学校で乗ったよ」という人がけっこういました。

四戸:そのグライダーは「文部省式一型」と言います。軍事教練用と言われることがありますが、違いますよ。文部省がドイツを参考に「体育教育」として全国の旧制中学に漏れなく配布したものなんです。

四戸:子供のころに、自分で触り、飛ぶ。あるいは設計も行う。そういう経験があると、大人になってからでも、自分の意志でリスクをとることができるようになるんですよ。新しいことをするにあたって、「怖くてもここは進まなくちゃダメだ」ということが本能的に分かるようになる。ところが後からの知識だけしかないと、やはり人間どうしても怖くなりますでしょう。

 しかも、冷戦の時期は米国から航空機の新知識がどんどん入ってくる状態だったわけで、加えて下請けで、お金もどんどん入ってきて会社経営も安泰です。こうなるとその状態から抜け出せなくなって、状況が変化した後も、ずるずると今までと同じ態度で来てしまったんでしょう。

Y:例えば、自動車産業と比較したらどうなりますか?

松浦:自動車の場合は、1960年代にマイカーブームがあって、そのタイミングで15歳から17歳だった人達が本物に触れているんだよね。その中から、「自動車こそ我が人生」と思い定めた人々がまた自動車産業に入って、産業全体を盛り上げていったんですね。航空機はそれがなかった。それで、戦前からの人材が引退すると、1970年代以降、ぶつっと切れてしまったんだ。

非常に特殊な少年だったのは間違いないです

Y:こんな日本の航空機産業の環境下で「自分で設計すること」にこだわり抜いて、しかもサバイバルしてきた四戸さんが、いかに特殊例かが実感できますね。なにか特異な育ち方をされたのでしょうか。中学、高校の時、「自分で体験すべきだ」と教えてくれる方がいたとか?

四戸:自分の育った1970年代の青森ですと、まだ一升瓶を枕にして寝ているようなアウトローな学校の先生というのが結構いたんです。

Y:ああ、私の高校にも酔っぱらって出勤してくる先生がいました。

四戸:そうですか。松本零士さんの描く「男おいどん」みたいな感じの教師というのがまだ日本にも結構いたんですね。そういう方たちは、目の前の単位を取ろうが、取るまいが、そんなにうるさくなかったんです。良い意味で放置してくれた。

Y:そのアウトローな先生から、図面の引き方とか計算のやり方とか、体系的に学ぶ機会があったとか。

「リアルキッザニア」で鍛えられました

四戸:いえ、もう全部独学です。父は工業高校の教師でした。そんな関係で、小学生のころから製図板とか製図機とか、身近にありました。計算尺を、卒業した学生が置いていっちゃうものですから、父が持って帰ってくるんですよ。それが私に回ってきたり。

 しかも母の実家はバイク屋で、そこに三沢基地の米軍さんが持ち込んだハーレーが修理に入ってきたりするんです。祖父の手伝いという名目で、もう10歳ぐらいの時からやりたい放題でした。時効だから言っちゃいますが、その歳で自動車運転したり、バイク乗ったり、隠れてガス溶接やったり、エンジンばらしちゃったり――そういう環境は確かに今の自分になるにあたって大きな要因でした。非常に特殊な少年だったのは間違いないです。

Y:やりたいことをやりたい放題やって、しかも邪魔する大人がいなかった。

四戸:私の場合、親は普段私がどこにいるか知りませんでした。自転車で親戚の家を泊まり歩いていたんです。まだ本家、分家みたいな関係がしっかりありましたから、本家の跡継ぎだった私を拒絶せずに泊めてくれるんですよ。そうすると分家筋には、床屋さんがある、畳屋さんがある、板金屋さんがある。馬の蹄鉄を作っているところがある、鍛冶屋さんがある、郵便局長がいる――もうありとあらゆる職業があっ職業見学そのものです。

Y:リアルキッザニアみたいな感じで、社会体験ができたと(笑)。

四戸:ああ、そうですね。リアルキッザニアです。都会的な意味で自由だったわけじゃないですよ。田舎の権力構造の中で生きていましたから、「お前は医者か教師になれ、その上で大人になったら選挙に出馬しろ」という圧力が私にはずっとかかっていました。そういうことは、子供ながらにもう分かっていましたから、中学までは好き勝手やりながら、将来についてはおとなしく言うことを聞くふりをしていました。

Y:なるほど。

四戸:それで高校生になった瞬間に……

Y:反逆が始まったわけですか。

四戸:親族会議を開いたときに、「必ず何かしら田舎に恩返しする形にはするから、僕をここから出してくれ」と言って東京に出て来たんです。その田舎も、もう今はないですけどね。

 私は小学校のころからずっと航空機の設計がやりたくて、先ほど話したドイツの教育に近いような環境にいたんです。その結果として、大学に入った時点ではもうセミプロ状態になっていたんですね。実は中学校のときに描いた図面を大学のときに提出してそのまま単位を取ったこともあります。

キッザニア:主に小学生までの子どもが大人の職業を実際に体験できるテーマパーク。約80種類の職業が用意されていて、かなり本格的な職業体験が可能。1999年にメキシコで開園したのを皮切りに、世界中に広がった。日本では、キッザニア東京(東京・豊洲)とキッザニア甲子園(兵庫県西宮市)が営業している。

Y:極めて早熟に実務的な知識を技量を身につけて、大学出てすぐに起業して……それでも、すぐに飛行機を作ることができるようになったわけではなかったのですよね。

四戸:大学を出てすぐにオリンポスを起業して、最初の仕事になるはずだったグライダー開発計画は、恩師の木村秀政先生が亡くなられたことで、頓挫してしまいました。そこで、その後しばらくの間、航空機とは無関係のソフトウエア開発で会社を回していました。

松浦:しばし畑違いの場所を放浪していた、と?

四戸:なんでもやりましたね。たとえば東京ディズニーランドの入退場システムを作ったのは私たちです。東京電力の建設する高圧電線の鉄塔。あの鉄塔を自動設計するプログラムも作りました。そんなにバージョンアップする必要のないプログラムですから、多分東京電力は、私が作ったプログラムを今も使っているのではないでしょうか。

松浦:そうか。飛行機と同じなんですね。鉄塔はトラス構造だから、航空機の桁構造と同じ方法で強度計算ができる。

Y:……(呆然)。

専門教育を受けたら即専門家……というわけではない

四戸:そうです。そのほか原発のタービン隔壁の設計もしましたし、人工衛星の太陽電池パネルの展開部を設計するなんて仕事もしました。そうやって広く仕事を引き受けてこなしていく中で、日本の技術の歪みというか、未熟な部分に気が付くようになりました。

 なにかというと、専門病なんです。私に仕事を頼んでくる皆さんは「四戸さんは鉄塔構造の専門家なんですね」とか「建築土木を専門としているのですね」、はたまた「宇宙技術を勉強したのですね」とか言うわけです。ところが、それら全部自分からすれば、航空機を作るためにした勉強の応用なんです。みんな「専門の勉強をすることで専門の仕事ができる」と、思い込んでいるんです。専門課程卒業という学歴と、実務能力が必ず1対1であるものだという幻想に浸ってしまっているんですよ。

トラス構造:桁を三角形につないで面を作り、さらにその面をつないでいくことで全体を作って行く構造。軽量高強度という特徴を持つ。高圧電線の鉄塔や、スポーツ自転車のフレームは典型的トラス構造である。トラス構造の桁にどのような力がかかるかを計算するのは、構造物設計の基本である。

Y:今、ウチの子供が小学生と高校生なんですけど、学校での話を聞くと、職業というものを早めに考えさせようという圧力が、自分の頃では考えられないぐらい強くなっているんですよ。

四戸:そうみたいですね。

Y:小学校6年生の娘によると、「私は今、これになりたい、なぜならこうこうの理由だ。そのためにこの学校に行ってこういう勉強をする」というのをみんなの前で発表させるんです。高校でも似たことをやらせる。たとえばフードコーディネーターという職業がまずあって、それになりたいとします。そうすると大学にそれ関連の学科があるんですよ。職業と大学の学科がイコールでつながっている。「既存の仕事からどれかを選べ、なりたければこの資格を取ってここに行け」みたいなことばかり、この国は妙にきちんと整えているんだな、と感じてびっくりしたんです。

作られた幻想のキャリアパス

四戸:うん、物事に「ルート」を作りたがるんですよね。なにしろ、そうするように躾けられた人がもうすでに教師の世代ですから。もう一巡以上しちゃっているんです。たぶん二巡近いと思いますね。

Y:早めに適性を調べる、というドイツのマイスター制度と、言葉にすると似ているんですが、どうも、カタログの中から選ばせて、お仕着せの進路に乗せたがる、というのか……。

松浦:本物に触れるのはいいし、熱中するものには15歳ぐらいでどっぷりと漬かったがいい。しかし、型にはめて「こうなりたいなら、この進路で」ときちきちに詰めていくのは、なにか間違っている気がしますね。本物に触れるのと、資格を取るのとは、同じ進路を決めることのようでいて、全然意味が違うじゃないですか。資格は手段であって、生の現実じゃない。

四戸:生々しさ、に触れるのが難しくなっていますよね。過去を美化して語ってはいけないところですが、自分が子どもの頃は、生活の中にある色々な事物が“生”でしたっけね。近隣の農家には自分たちで豚を絞めるところもありましたので。近所の川を豚の頭がごろごろ流れていくんです(笑)。

Y:うはっ。

四戸:で、子どもは何をするかというと、豚の頭に湧いているウジを捕まえて、釣り針につけて釣りをする。もうすぐに慣れて、メンタルが強くなるんですよ。そういえば土葬がまだ結構ありました。しかも私らが子どもの頃は、道路整備真っ盛りでバイパスを整備したり国道を拡幅したりとかするでしょう。そこでお墓の移転をすると、土葬をした人骨が出てくるんです。すると子どもは、おーっとか言いながら、拾っちゃう(笑)。火葬した骨は簡単に折れるんですけど、土葬した骨は生ですから硬くて折れないんです。

松浦:そうそう、人骨と言えば……

Y:ストップストップ。あああ、すみません。変に話を振ったものだから、話題が航空産業からどんどんずれちゃって。

四戸:ごめんなさいね。

松浦:面白いからいいですよ。でもYさんの懸念に応えて、四戸さんがおっしゃることを敷衍すると、現在MRJを作るのに関わっている技術者を含め、日本の航空産業に関わっている人々で、ティーンのころに自分が設計したグライダーで空を飛んだ経験がある人は、おそらくほとんどいないんじゃないか、と。

Y:まさしく、カタログで選んだ仕事、就職先だったのかもしれない。しかし、それが産業の競争力にまで影響を与えるものでしょうか?

四戸:ええ。日本の航空産業は、米国の技術情報に中毒した。その次にかかったのが、ここまでで触れた「専門病」だったのです。

(次回に続く)

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