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年末年始特集

お別れなのだ 赤塚不二夫さん死去

2008年8月3日

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写真ウイスキーの水割りを飲みながら、がん手術後初の記者会見をする赤塚不二夫さん=1999年4月、大阪市内

 ナンセンスギャグ満載のマンガで、高度成長期の日本に笑いを与え続けた赤塚不二夫さんが2日、亡くなった。旧満州から引き揚げてきた経験、伝説のアパート「トキワ荘」で暮らした日々……。酒と笑いに包まれた生涯は、静かに幕を閉じた。

◆赤塚ギャグ、戦後と共鳴<評伝>

 ギャグマンガの歴史を変えた、というより、ギャグマンガの歴史そのものを作ったマンガ家、それが赤塚不二夫だった。

 しかし、トキワ荘時代は、内気で繊細な線の細さのほうが目立ったという。当時の編集者は、気のいい青年にむしろ少女マンガや、少年の日常をユーモアを交えて描いた生活マンガを描かせようとした。ギャグ作家としての才能を大きく花開かせたのは、マンガ週刊誌の創刊だった。

 「週刊のメチャクチャなハイペースが、ぼくのギャグのペースとあったのよ」と、赤塚が述懐するのを聞いた。赤塚ギャグは、スピード感と新鮮さで、時代と見事にシンクロした。高度経済成長期真っただ中の62年から連載した「おそ松くん」は「現代っ子」である六つ子と、イヤミ、チビ太、ハタ坊といった個性的なキャラクターが繰り広げる、モダンな味付けのドタバタコメディーだった。赤塚はそのテンポを不遇の時代に見続けた米国映画から会得したという。六つ子たちは平均化され増殖するサラリーマン候補生のようでもあった。

 67年に始まった「天才バカボン」は横紙破りのナンセンスなギャグが炸裂(さくれつ)する、「笑いの全共闘運動」だった。同じ年には「少年サンデー」で「もーれつア太郎」を並行して連載。前代未聞の超多忙マンガ家となったが、ギャグはジャズのアドリブを思わせるような冴(さ)えを見せ、新しい文化に貪欲(どんよく)な団塊の世代の喝采を浴びた。「シェー」「レレレのレ」など、独特の言語感覚から繰り出されるセリフは、一瞬芸として消えず、時代の流行語になっていった。

 生活が一変しても、トキワ荘時代の、人当たりのよさ、才能への敬意は変わらなかった。共同作業でアイデアを出したり、作画を分業制にしたり、制作の革新も図った。プロデューサーとしても手腕を発揮し、古谷三敏、北見けんいち、高井研一郎ら、多くの人気マンガ家が赤塚の元から巣立っていった。売れっ子になる前のタモリにいち早く目をつけたのも赤塚だった。

 もっているものをすべて出しつくすサービス精神は終生変わらなかった。晩年は、アルコールにおぼれ、しばしば「酒抜き」のために入院した。細やかな気遣いで時代に合わせ、人に合わせ続けたことへの代償でもあった。

●酒と友を愛した人生

 赤塚さんは戦後、中国の旧満州から一家で引き揚げた。1946年から約3年間、母の実家がある現在の奈良県大和郡山市で暮らした。空き地に積まれた土管が遊び場。そこでのいたずらの日々がマンガ「おそ松くん」の下地になり、「僕のギャグは関西なんだ」と語っていた。

 赤塚さんの「初恋の人」で小6時代の同級生、松田和子さん(73)によると、倒れる前に奈良で開かれた同窓会には赤塚さんも出席。「すごく元気そうでした。同級生の中で一番出世した人。私の名前も覚えていてくれてうれしかった」

 マンガ家を志した赤塚さんは56年、手塚治虫さんら多くのマンガ家が住んだ東京都豊島区の「トキワ荘」に入居し、5年間住んだ。マンガ家の水野英子さんは「トキワ荘で一番ハンサムで、しかも非常に気が利いた」。1畳ほどのスペースでちゃぶ台に向かい合わせで作業をしているときも、1枚しかない座布団をいつも譲ってくれ、ヘビースモーカーの石ノ森章太郎さんの灰皿をこまめに取り換えたり、お茶を入れたりしていたという。

 「天才バカボン」などの作品が大ヒットし、有名になった後は多彩な交流やお酒好きでも知られた。98年11月に食道がんで入院したが、退院直後の99年4月には水割りを片手に会見。「がん告知でガーンとなるとダメ。やっぱり気力だ」と語った。

 30代のころから飲み仲間という劇作家の唐十郎さん(68)は、「焼酎をしこたま飲んで酔っぱらっては、新宿3丁目の路上でパターンと仰向けになって寝ていたことを思い出す」と話す。飲んでいる時は、さかんに「モチーフはなんだ、プランはなんだ」と作品について尋ねてきた。

 赤塚さんが酔った勢いで、唐さんの公演用のテントについて「汚れたなあ、買ってやろうか」と言い出したこともあった。翌日には突然、500人ほどが入れる紅(あか)テントを買ってくれ、それから約30年間、大事に使っている。最後に会ったのは病院だったが、唐さんを見て「こっそり飲もうか」と笑いかけたことが忘れられないという。

●病床に6年「眠るように」

 赤塚さんの事務所「フジオ・プロダクション」(東京都新宿区)のスタッフによると、赤塚さんは妹と長女のりえ子さん(43)にみとられ、入院先で亡くなった。02年4月に脳内出血を起こしてからほとんど意識がなく、体の自由がきかない状態だったが、2日になって血圧が下がり、容体が急変。「眠るような安らかな最期」だったという。マンガ家の藤子不二雄(A)さんや北見けんいちさんも駆けつけたが、間に合わなかった。

 赤塚さんの前妻の登茂子さん(68)も7月30日に亡くなったばかりで、りえ子さんはまず、登茂子さんの葬儀を終えたい意向という。2人目の妻の真知子さんも06年に亡くなっている。

(2008年8月3日 朝日新聞朝刊)


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