白瀬矗中尉の借金苦 上別府 保慶

西日本新聞

 日本人は熱しやすいが、また冷めやすくもある。

 1912(明治45)年、白瀬矗(しらせのぶ)中尉が率いた南極探検隊は、数々の困難を乗り越えた末に日本へ戻った。しかし歓呼の嵐がやんだ後、残されたのは借金の山だった。

 当時の金額で4万円。白瀬中尉の伝記「まぼろしの大陸へ」(岩崎書店)を書いた池田まき子さんによると「今のお金で言えば約二億円にのぼる大金」だった。返済には誰も手を貸さず、白瀬中尉は終戦翌年の46年に85歳で亡くなるまで、貧しさにあえいだ。

 理由は、当時の政府が極地探検に意味を認めなかったことによる。同時期に南極点を目指した英国のスコット隊は、国の援助を受けて約750トンの船で臨んだが、義援金頼みの白瀬隊は約200トンの小さな帆船に乗り込んだ。

 資金難ゆえに、白瀬隊は寄港先のシドニーで地元紙から「捕鯨に来たゴリラ」などと人種偏見に満ちた記事を書かれ、隊員の間には内紛も起きた。それでも白瀬中尉は2度目の挑戦で南極に上陸。猛吹雪の中を進むなどして9日間で約276キロを踏破し、見つけた氷原を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名、日本の領有を宣言した。

 帰ってみると、義援金は後援会が遊興に浪費して底を突き、隊員の給料も払えぬありさま。この時、白瀬中尉は51歳。南極で撮った記録フィルムを携え、北は樺太、南は台湾まで各地を講演して回った。借金を返し終えたのは74歳。住まいは売り払ったために政治家の別荘の番人をするなど借家を転々とした。

 やがて日本は、戦争に負けた。次女のタケコさんの証言によると、世間に忘れられ、愛知県豊田市の魚屋の2階に住んでいた白瀬中尉は、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官に手紙を出して「南極の領土権はどうなるのでしょうか」と尋ねた。

 届いた返事には「領土権は講和条約の結ばれる際にしかるべく考慮される」とあり、末尾には「プア(気の毒な)ミスターシラセ」という、いささか失礼な言葉があった。白瀬中尉はこの後、久々に配給があった白米を食べ、腸閉塞(へいそく)を起こして世を去った。

 大和雪原の領有権は、日本がサンフランシスコ講和条約で放棄し、無効となった。また今日では、大和雪原は陸地ではなく海上の棚氷にあることが分かり、領有できないことが判明している。

 しかし2012年、日本の国立極地研究所南極地名委員会は、白瀬中尉の南極探検100周年を記念し、大和雪原の地名を正式に付与すると決め、各国機関にも連絡した。

 (編集委員)

=2019/05/09付 西日本新聞朝刊=

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