県内ニュース酒田出身の詩人、吉野弘さん死去 「祝婚歌」などの叙情詩、平易で温かく
2014年01月21日 11:07
母校での銘板除幕式で花束を受ける吉野弘さん(左)=2004年5月、酒田商業高(酒田光陵高提供)
1926(大正15)年生まれ。酒田市の琢成第二尋常小(現琢成小)、酒田商業学校(現酒田光陵高)卒業。帝国石油に入社し、山形鉱業所(酒田市)に勤務した。徴兵検査を受け、山形歩兵第32連隊に入営予定だったが終戦。会社勤務の傍ら、川崎洋さんと茨木のり子さんが創刊した詩誌「櫂(かい)」に参加。谷川俊太郎さん、大岡信さんらと交流した。東京都内に転居後、30代半ばに退社してからはコピーライターに転じた。 労働体験に根差し、平易な言葉で人々に呼び掛けるような詩は、他者への柔らかいまなざしに満ち、日常にある不条理をすくい取った。詩集「感傷旅行」で読売文学賞、「自然渋滞」で詩歌文学館賞。「夕焼け」「I was born」などの詩は国語教科書に掲載され、「祝婚歌」は結婚式のスピーチなどで読まれた。 母校の琢成小をはじめ、泉小(酒田市)や上山明新館高などの校歌を手掛けた。92年のべにばな国体のため「べにばな国体賛歌」「べにばな国体炬火(きょか)賛歌」を作詞。「奈々子に」は第5次県教育振興計画(2005~15年度)の基本理念「命の教育」を象徴する詩となった。1983(昭和58)年に酒田市制50周年記念合唱組曲「風光歌」を発表、96年度の酒田市特別功労賞を受けた。
母校の琢成小に残る吉野弘さん自筆の書=酒田市・琢成小
吉野弘さんは母校の琢成小をはじめ、校歌の作詞を数多く手掛けた。古里酒田市では突然の訃報を惜しみ、悼む声が広がった。 琢成小には、校歌の草稿とともに送られた手紙、自筆の書が残る。手紙は1975(昭和50)年12月25日付。「一つの大きな行為の達成に多くの協力があることの暗示」「困難に対する反復チャレンジを、海のうねりに見たてたもの」と歌詞に込めたメッセージがつづられ、「この歌詞を考えている間はいつも、幼い生徒の顔が脳裡(のうり)にありました」と添えている。梅木仁校長は「今週木曜の全校集会で校歌を歌い、感謝の気持ちを表したい」と話す。 酒田商業高(現酒田光陵高)は創立100周年記念事業の一環として2004年5月、卒業生の吉野さんを迎えて自筆の詩「I was born」の銘板(縦76センチ、横240センチの銅製)を除幕。統合後の今も光陵高職員用玄関に掲げている。吉野さんは除幕式の際、急きょ特別講演を引き受けてくれた。当時酒田商高に勤務していた光陵高の斎藤司教諭(52)は「命の大切さを説き、自分が納得できる生き方を、と語り掛けていた。奥が深く、優しい人だった」と振り返る。光陵高はこの日、図書館に特設コーナーを開設した。 酒田市緑ケ丘2丁目、自営業阿蘇孝子さん(58)は地元コミュニティーFMで毎週土曜、吉野さんの詩を朗読する番組を担当。10代のころ「やさしい心に責められながら/娘はどこまでゆけるだろう」と、満員電車で座る娘の心を思った「夕焼け」と出合い、ファンになった。20年ほど前、詩が好きな仲間との朗読会に吉野さんをゲストに迎えた。車で送迎後、いつまでも手を振る姿をバックミラー越しに見たといい「とても貴重な思い出で、今となっては宝物」と涙ぐんだ。 本間正巳酒田市長も「夕焼け」に感銘を受けたとし「残していただいた数多くの詩を、これからも市民と共に大切にしたい」と話した。
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