話の肖像画

精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<11> 「変化」を実感した拓郎の登場

「はしだのりひことシューベルツ」に見送られ、横浜港からヨーロッパへ旅立つ(右が本人)=昭和43年10月(きたやまおさむさん提供)
「はしだのりひことシューベルツ」に見送られ、横浜港からヨーロッパへ旅立つ(右が本人)=昭和43年10月(きたやまおさむさん提供)

《ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の大阪フェスティバルホールでの解散コンサート(昭和43年10月17日)を終えた、きたやまさんは26日、横浜港からヨーロッパへ。フォークルは活動に終止符を打つ》

(音楽界は)「変化」のときを迎えつつありました。(フォークルの)『帰って来たヨッパライ』のような〝手作り〟の良さを持ったものから、計画的に物事を進めないといけないショービジネスへの転換。フォークソング→ニューミュージック、複数の個性が集団の中で切磋琢磨(せっさたくま)し合う「グループ」→シンガー・ソングライターの「個人」の時代への変化などです。

だから、みんな「どうするのか?」と問われたわけです。何万人も集まるようなビッグなコンサートをやるのか? あるいは辞めて普通の人に戻るのか? はたまた旅に出るか? それが「1970年代(初め)」だったのだと思います。

いろんなアーティストが去ったり、旅に出た中で残った1人が吉田拓郎(※昭和21年生まれ、45年デビュー、代表曲に『落陽』『流星』など)でした。彼のアルバム『元気です。』(47年7月リリース、『旅の宿』『夏休み』などを収録し、拓郎のアルバムでは最高のセールスを記録)を聴いたとき、「あぁ時代は変わったんだな」と感じましたね。

彼とは同い年ですが、(音楽界の中では)「次の世代」というイメージが強い。拓郎の初期の作品などを加藤和彦がプロデュースした関係で2人は仲が良かったと思う。僕が加藤の家を訪ねたときに(遊びに来ていた)拓郎とも会っていましたよ。

僕自身はこれ以上、フォークルを続けるつもりはなかった。フォークルは「シンデレラボーイ」ではあったのかもしれませんが、天下を取るつもりなんて初めからなかったしね。僕自身は「分不相応だな」という思いが強かったのです。

《時代も騒然としていた》

アメリカでは大統領候補が暗殺されたり、ミュージシャンでもジャニス・ジョプリン(※1970年、27歳で死去)のように若くして亡くなったりする人もいた。日本ではまだ学生運動が吹き荒れていました。

昭和45年秋、僕が大学でやったステージを(活動家らに)乗っ取られたこともあります。出演者にシモンズ(※女性2人のフォークデュオ、代表曲に『恋人もいないのに』)がいて、彼女たちを守り、楽器を壊されないように、最後に僕が歌って締める条件で懸命に交渉したことを覚えています。僕は「怖さ」を感じていたのかもしれません。(フォークルで)怒濤(どとう)のようなハードスケジュールを続けていく中で「みんないつか殺されてしまうんじゃないか?」って…。

《きたやまさんは医大生(京都府立医大)に戻る一方で、週1回程度、テレビ番組の司会やラジオの深夜放送のパーソナリティーを続けることに》

人間の健康や心のバランスを保つには、やはり「遊び」や「はけ口」が必要だからです。『パックインミュージック』(※TBSラジオの深夜放送、きたやまさんは44~47年にパーソナリティーを担当)をやったときは、放送終了後に、当時飛んでいた、東京・羽田空港発の深夜便に乗って、早朝に大阪空港(伊丹)へ着く。そこからタクシーで京都の大学へ駆けつけ、出欠を取った後はひたすら寝ることもあった(苦笑)。

医学部も緩やかな時代だったのですよ。解剖学や生理学の実習が始まるころでしたが、先輩や仲間たちには僕の医学と音楽の両立を受け入れて応援してくれる人が多かったですね。(聞き手 喜多由浩)

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