「本物の音楽を学ばせたい」情熱は人一倍
フジコさんをピアノの世界に導いた母・投網子さんは、大阪の工場主の娘で、大正時代に東京音楽学校(現在の東京藝術大学)のピアノ科に学び、卒業後にベルリンに留学。7歳年下のジョスタ・ゲオルギ・ヘミング氏と恋に落ち、結婚した。フジコさんが5歳、弟のウルフさんが2歳のときに一家は日本に帰国したが、父は、日本が軍国主義へと傾倒していったために、フジコさんがまだ小学校に上がる前に母国スウェーデンに強制送還された。フジコさんの母は、ピアノ教師をしながら、女手一つで子供たちを育てた。
撮影/小山幸佑
「母は、私を音楽家にしたいとは思っていたけれど、ピアニストにしたくはなかったようです。私は、絵を描くのも好きでしたが、母は、『画家になるなんてもってのほか!』と思っていたみたい。よく、『あんたはピアノの先生になればいい』なんて言ってましたが、その割には教え方が厳しかった。ピアノを間違えると、『頭が腐ってる!』なんて怒るし、ピアノのお稽古をサボったりしようものなら、『弾きなさい! 弾きなさい!』と鬼の形相で私をピアノまで連れて行ったものです。今思い出すだけでも、おー怖い(苦笑)!
でも、根が純粋な人だから、私に本物の音楽を学ばせたいという情熱は人一倍で、戦前から世界的に認められていたピアニストのクロイツァーに、『娘のピアノを一度でいいから聴いてください』と頼み込んだのも、苦しい生活の中で東京藝大に入学させてくれたのも、ドイツ留学に賛成して、月100ドルの仕送りをしてくれたのも母でした」