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生活基盤ほぼ埼玉、なぜ栃木? 飛び地の下宮地区

2010年12月11日

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渡良瀬遊水地(上)の堤防で飛び地となっている栃木市藤岡町下宮地区の住宅地(下の半円状の土地)=本社ヘリから、遠藤啓生撮影

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3県の境界が畑の中で交わる。Y字形の用水溝の右が栃木市藤岡町下宮、中央が群馬県板倉町、左が埼玉県加須市。手前の県境を示す説明板は下宮地区の住民が立てた

 渡良瀬遊水地を隔てて埼玉県側にある栃木市の飛び地、藤岡町下宮(したみや)地区の住民たちが10月、埼玉県加須市への編入を希望して栃木市議会に請願書を提出した。住民が隣県への併合を望むのはなぜか。そもそも県境って何だろう。下宮地区を歩いて考えた。

■住民が編入希望、課題は総意形成

 栃木市藤岡総合支所(旧藤岡町役場)から県道を南下すると、3キロほどで群馬県板倉町に入る。渡良瀬遊水地の湖面を眺めながら、栃木、群馬、埼玉3県の境界が入り組んだ堤防の道をさらに3キロほど行くと、下宮地区が右手に見えてくる。

 地区の面積は約4.2ヘクタール。東京ドーム1個分にも満たない、半円形の小さな集落だ。渡良瀬遊水地と隔てる北側の堤防の上に県道が走り、南側には田畑の向こうに加須市の民家が見える。歩いてみると、10分ほどで1周できた。遊水地の中央を栃木側に渡る道はあるが、自動車が通れないため、住民たちはほとんど使わない。

 12軒、34人が暮らす。飛び地となってからの約百年間、住民は生活の基盤を埼玉県に置いて生きてきた。先祖代々下宮地区に住む間明田(まみょうだ)和子さん(52)は「栃木側へ行くのは役所に用があるときだけ。子どものころから、友だちは埼玉なのに、どうしてうちだけが栃木なのかと疑問に思っていた」と話す。

 歩いて行ける距離に栃木の学校がないため、子どもたちは加須市(旧北川辺町)の小、中学校に越境で通ってきた。しかし、埼玉の県立高校を受験するには、越境入学のため同級生と別の部屋で入試を受けたり、北川辺地域の運動会に参加しても、地域「外」の住民には応援席が設けられなかったり……。

 「住所が栃木だという理由でいじめられ、飛び地というだけで悲しい思いをした子どもは多い」と住民は口をそろえる。間明田さんは取材に答えて涙を流した。「栃木が嫌いなわけじゃない。普通に暮らしたいだけ」

 埼玉県編入に向けて動き始めたのは2年前の10月。旧藤岡町が栃木市と、旧北川辺町が加須市とそれぞれ合併する機運が高まったため、「これを機に編入できないか」と、間明田さんが住民同士の話し合いを呼び掛けた。

 「住所を変えると仕事にひびく」「栃木側と商売しにくくなる」などの不安の声もあったが、12軒中11軒が編入に向けた運動に賛成した。

 住民らは今年9月、加須市議会に働きかけ、大橋良一市長から「検討に入る」という前向きなコメントを引き出した。間明田さんらから陳情を受けた栃木市の鈴木俊美市長も、住民の総意を得ることを条件に「責任を持って対応したい」と応じた。

■河川改修が起因、議決で変更可能

 江戸時代の下野国は小藩が乱立していたため、1871(明治4)年の廃藩置県では20を超える県が設置された。これが整理され、現在の県境に近いおおまかな形が定まったのは、旧栃木県と旧宇都宮県が合併した1873(明治6)年のことだ。

 南部の県境は、蛇行していた渡良瀬川の流れに沿って引かれた。そのため、治水工事によって川が北側に移動して遊水地ができた今も、下宮周辺の県境は曲がりくねっており、地区は川のカーブに囲まれた半円形を残している。

 下宮地区では現在、水道は加須市から引かれている。電話の基地局や郵便局の配達の都合から、電話番号の市外局番や郵便番号も旧北川辺町と同じだ。ゴミは栃木市が収集しているが、救急車は「到着に時間がかかる」という住民の要望で、数年前から埼玉側から来ることになった。

 県境を動かすには、関係市町村議会の議決と県議会の議決を経て、総務相が告示する必要がある。下宮地区の住民から請願書を受け取った栃木市議会は先月26日、議員全員が参加して編入問題に関する勉強会を開催した。議会事務局は「さまざまな立場の意見を聞き、時間をかけて検討していきたい」としている。(矢吹孝文)

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