戦没オリンピアンをよみがえらせたい 人柄に魅せられ

戦後75年特集

小西孝司
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 【島根】五輪に出場後、29歳で戦死した島根県出身の選手がいた。その足跡を丁寧にたどった出雲市の元中学校校長の男性は、選手の人柄や生き方に魅了された。来年の東京五輪開催を控え、改めて戦争の悲惨さをかみしめている。

 戦争で亡くなったオリンピアン(五輪選手)の名簿作りに、日本オリンピック委員会(JOC)が乗り出すことになりました――。

 戦後50年を3年後に控えた1992年冬。東京からそんな内容の手紙が、陸上競技団体役員の岩崎巌(いわお)さん(73)=出雲市白枝町=のもとに届いた。送り主は、元日本陸上競技連盟事務局次長だった旧知の石田芳正さん。石田さんは岩崎さんに、ある戦没オリンピアンに関する資料集めを依頼していた。

 オリンピアンは落合正義(まさよし)さん。1910年に現在の安来市広瀬町で生まれたハンマー投げ(鉄槌〈てっつい〉投げ)選手だ。身長169センチ、体重92キロ。五輪予選会で当時の日本新記録(48メートル14)で優勝した。「暁の超特急」と呼ばれた陸上短距離選手、吉岡隆徳(たかよし)さん(現・出雲市出身)らとともに32年のロサンゼルス五輪に出たが、ひざの痛みを抱え、12位に終わった。

 岩崎さん自身もハンマー投げ選手だった。全山陰陸上競技大会で10連覇を果たすなど活躍。長年、中学校や陸上競技団体で後進を育てたが、「島根にそんな選手がいたとは。びっくりした」。

 手がかりを求めて安来市を訪ねた。小学校の同級生や親族に話を聞き、落合さんの墓に参った。その後、実兄の勇夫さんが福岡市に住んでいることを把握。1千点以上の大量の写真や日記、手紙など貴重な資料の提供を受けた。森鷗外の娘婿の洋画家、小堀四郎氏が描いた落合さんの肖像画のブロマイドもあった。

 戦友から、落合さんの戦死の状況も聞き取った。明治大を卒業後、名古屋の運動公園管理者として働いていた落合さんは、日中戦争勃発翌年の38年9月、歩兵第63連隊(松江連隊)に入隊。39年12月の早朝、中国・河北省での戦闘で銃弾が左胸に当たり、亡くなった。戦友は、29歳で亡くなった落合さんを「『自分は人の指揮をするのは嫌いだ』と言っておられた」と振り返った。

 調査で浮かび上がった落合さんは、心優しいエピソードにあふれていた。五輪選考会の前に亡くなった母親を慕う気持ちを日記にしたため、月命日に供え物と花を欠かさなかった。ロス五輪に向かう航路で、足を痛めた陸上選手のために毎日マッサージをした。名古屋で指導した選手がベルリン五輪のみやげとして持ち帰った人形が寒そうだとして、冬服を着せてあげたことも。松江連隊にいる時、道で酔っ払いにほおを殴られたが、「喧嘩(けんか)や人に対して怒りを表した後の不愉快さ」を思って我慢したという。

 「落合さんを、この世にもう一度よみがえらせてあげたい」。岩崎さんは調査にのめり込んだ。「優しく広い心、家族への深い愛情を持ち、代償を求めず、暴力を嫌う。いわば『落合精神』とでもいうものに出会いました」。当時、出雲教育事務所でいじめや非行の問題に対処していた岩崎さん。「今の教育にも必要なものとして、落合精神は『不易』なものです」。手紙到着の翌々年、『故落合正義選手 その人間性に魅せられて』を自費出版し、関係者や図書館に贈った。

 岩崎さんは50歳を過ぎてから病気で視力の大部分を失った。「俺の人生は終わったと思ったが、人に伝えるものがある」。ハーモニカを学び、学校や団体の依頼で演奏会を開き、曲の合間にいろいろな話題を語りかける。「落合さんのことを今後も紹介していきます」

 広島市立大の曽根幹子名誉教授の調査によると、戦没オリンピアンは38人にのぼるという。(小西孝司)

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