Ryuichi Sakamoto Diary vol.29

教授動静 第29回──坂本龍一、コロナ禍での年始年末

“教授”こと坂本龍一の動向を追うライター・編集者の吉村栄一による「教授動静」。第29回は、東京での自主隔離生活を終えた教授の様子についてお届けする。
教授動静 第29回──坂本龍一、コロナ禍での年始年末

記憶のなかの音を求めて

みなさま、あけましておめでとうございます。
今年こそは新型コロナ・ウイルスのパンデミックが収まりますように。

前号でお伝えした2週間の自主隔離が明けて、教授がまず赴いたのは京都だった。

今年6月にオランダの芸術祭『Holland Festival』で初演されるシアター・ピース『TIME』の音楽のために、京都にあるバシェ兄弟による「音響彫刻」の音のレコーディングを行ったのだ。

音響彫刻はフランスに生まれたベルナールとフランソワのバシェ兄弟によって考案された音の鳴るオブジェ。

1970年に大阪で開催された万国博覧会では、来日したバシェ兄弟によって鉄鋼館のために17器の音響彫刻が製作され、鉄鋼館のディレクターであった日本を代表する作曲家、武満徹がそれらを使った音楽も作った。

万国博覧会終了後、音響彫刻は解体されてしまったのだが、現在、復元と修復の作業が進んでいる。6器が音の出る状態で保管されており、そのうちの5器が昨年の11月から12月半ばにかけて京都市立芸術大学のギャラリーで展示された。

「ぼくは大阪万博で音響彫刻を見て、武満さんの曲も聴いているのだけど、その後はずっと忘れていたんですね。でも、アルバム『async』(2016)の制作中にその存在を思い出したんです」

京都のバシェ展で音の採集中

それ以来、バシェの音響彫刻のことはずっと頭にあり、バシェ研究の世界的な権威であるマルティ・ルイス氏をスペイン・バルセロナ大学に訪ねもした。

「今回の展示は京都市立芸術大学と東京藝術大学が協力して行ったもので、そのチームに知り合いがいたのでお願いしてレコーディングさせてもらいました。こういうときでもないと、そう簡単に触らせてもらったり、音を出したりすることはできないのでいい機会でした」

レコーディングの成果はもちろん『TIME』に反映されるが、いつかマルティ・ルイス氏とオリジナルの音響彫刻の制作を行うというプランもあるそうだ。

「このコロナ禍の状況で、いつそれが実現するのかはわからなくなっていますけれども」

そのコロナ禍のために、去年に引き続いて今年の東北ユースオーケストラの定期演奏会が中止になってしまった。

「まずなによりもいまの状況では練習ができない。オケの団員は東北3県にまたがっているので、合同練習するにはそれぞれ乗り物で集まらないといけないからリスクが大きいんです。そして団員たちの中にはもう卒業後の進路が決まっていて、中には看護師になる人もいる。そういう団員は、感染のリスクに対して人一倍敏感です。当初は無観客でオンライン配信でもいいから公演を行おうという意見もあったのですが、無観客でも団員は集まらなきゃいけないから難しいですね」

苦渋の決断で、団員の健康を守るために2年続けての中止となってしまった。

当然、昨年の公演で世界初演されるはずだった教授の新曲「いま時間が傾いて」も発表がいつになるかはわからない。

「もう2年越しで初演がお預けになっているので、ぼくとしては本当にもどかしい。目の前に大福があるのに食べさせてもらえないような飢えた子供のようになってる(笑)。初演されないままそのうち忘れ去られちゃうんじゃないかという不安もありますよ(笑)」

繰り返しになるが、なんとか今年こそは新型コロナ・ウイルスのパンデミックが収まり、2022年には東北ユースオーケストラの公演が無事に行われ、「いま時間が傾いて」も初演されますように。

ピアノ・コンサートに向けて練習中

2020年最後のコンサート

京都から帰って、いよいよ配信によるピアノ・コンサート『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 12122020』。12月12日の夜のことだ。

冒頭にグラフィックを担当するライゾマティクス真鍋大度との対話を行い、その後に約1時間のピアノ・ソロ・コンサートを行う。

全14作品の演奏曲は、1980年代から2020年までの教授のキャリアを俯瞰した網羅的なもの。さらにピアノ・ソロでの演奏は1983年以来となる「種子と種を蒔く人」など珍しい曲もちらほら。

「選曲はまさにベスト盤的なものだったでしょ。最近はコンサート自体そんなに多くやっていなくて、1年に1〜2回とかぽつぽつやっている程度。日本でのコンサートなるとさらに珍しい。そういう中でのオンライン・コンサートであるし、今回のコンサートはコンテンツとなって後世に残っていくもの。自分として残しておきたい曲ということを念頭に置きつつ、プラスで“種子と種を蒔く人”みたいに長く弾いていなかった曲を今回取り上げてみようかなと思いました。“Before Long”なんかもずいぶんやっていなかった」

昨春に行った配信コンサートでも演奏されたYMO時代の「Perspective」も再演された。

「そのとき意外と評判がよくて、周りからもいいと言われたので今回もやりました。この曲の演奏は簡単そうでじつは難しい。もともとは歌があることが前提の曲なので、インストでやるとどうしても単調になってしまう。「エヴリデイ〜」から始まる一節が何度も何度も繰り返されるのがミソの現代詩のようなコンセプトの曲。しかも意外と長い(笑)。そういう曲を歌なしでピアノだけで演奏するのはなかなか難しいんです」

「Perspective」は2013年のコンサートでは歌付きだったし、今回もいっそ歌うという考えは……?

「まったく思わなかったです(笑)。歌にはまったく自信がない。むかしはなんであんなに歌っていたのかよくわからない(笑)」

残念。

MRキャプチャーのチームと

ミクスト・リアリティの収録

ところで、このオンライン・コンサートは、前回お伝えしたとおりMR(ミクスト・リアリティ)というヴァーチャル・リアリティの先を行く技術で構成されており、今後ソフト化されるプロジェクトの前哨戦でもある。コンサートではZakkubalanによる演奏の実写と真鍋大度によるグラフィック、そして特殊な映像効果がミックスされて、1曲ごとに曲にあった世界を作り上げた。その映像に息を呑んだ視聴者も多いはずだ。

もうそのまま映像ソフトとして発売してほしいと思ったのだが、意外や教授の自己評価は厳しい。

「よかったという声は届いています。オンライン・コンサートとしての出来は、受け取る人の見方次第でしょうし、演奏自体はまあまあだったのかなとは思うんですが、ただ映像面ではCGのプロが観ると頭を抱えるようなところも多く、そこはかなりの反省点です。高いお金を取って観せているものなので、申し訳ないと思う点がありました」

キャプチャではこんなマーカーを手につけて演奏した

コンサートの翌日から、MRアプリのためにスタジオで3日にわたって演奏のモーション・キャプチャーを行ったそうだ。

「この12日のコンサートでもそうだったんですけど、360度のグリーンバックに囲まれてピアノを演奏しました。目がチカチカして、頭がおかしくなるんじゃないかという感じの中で弾かなきゃいけなくて、なかなか厳しかった……」

このモーション・キャプチャーのデータから、今後はソフトのための映像の組み立てが行われていく。

MRの素材となった教授

「このデータから映像を作っていくというのはものすごい手間のかかる作業のようです。たとえば演奏中は、レンズが光を反射してしまうので、メガネを外してキャプチャしたんです。だから、メガネはあとから手作業で合成します。あと髪の毛も、ふつうの髪型だとうまくいかないので、べったりと撫で付けた。映像化のさいにふつうの髪型を動きに合わせて合成する。服の皺や肌の色も自然に見えるようにいちいち修正していくから気が遠くなるような作業ですね」

そのためソフトの完成とお披露目の時期もまったく未定で、少なくとも今年中に仕上がることはないとのことだ。気長に待とう。

盟友・大貫妙子のコンサートへのゲスト出演

この収録の後、いくつかの取材やオンライン対談イベントをこなし、そして長年の盟友、大貫妙子のコンサートへの客演があった。

大貫妙子との共演は4年ぶり。ひさしぶりだ。場所は東京・世田谷区にある昭和女子大学人見記念講堂。10年前に教授と大貫妙子が共演アルバム『UTAU』を発表し、それに伴うツアーの東京での初公演地となったのがこの会場だった。

大貫妙子さん、オーケストラとのリハーサル風景

コンサート中盤にゲストで登場した教授がピアノに向かって弾いたのは「TANGO」。もともとは教授の95年のアルバム『Smoochy』に収録されたふたりの共作曲で、『UTAU』でも再演された。

長年のつきあいだけに呼吸はぴったりで演奏していて楽しかったとのことだが、それよりもこのコロナ禍での公演ということで、あらためて気づいたこともあったという。

「大貫さんにとって歌うのは本当にひさびさで、歌って喉の筋肉の仕事だから、コロナ禍の生活が数カ月続く中、身体が変化しちゃうんですよね。人間の身体っておもしろくて、未来のある時点で“歌う”という予定があれば、身体が自然と準備して調整をする。でもこのコロナの状況の中で、予定が立たない状態がずっと続いた。こんなことは身体として経験がないので調整するのは大変だったみたいですね」

また、オーケストラとの共演ということでリハーサル会場には多くの演奏者が集まり、そのひさしぶりの状況にはちょっと不安になりもしたそうだ。

「かなり密だなと思いながら、ぼくはフェイス・シールドしながらピアノを弾きました(笑)」

教授はアンコールでも登場し、そこでは「色彩都市」を演奏した。この曲は1982年の大貫妙子のアルバム『クリシェ』収録曲で、当時教授が編曲を手掛けた大貫妙子の代表曲のひとつ。

今回は東京藝術大学の後輩でもある音楽家、網守将平が編曲を担当。

「オリジナルにくらべるとずいぶん派手になっていて、ちょっとやりすぎかな、と。ま、でも若いからしようがないか(笑)」

大友良英さんとNHK FMのための演奏中

この後、教授は年始のラジオ番組のための収録や取材などの仕事をこなし、ようやく落ち着いたのが12月29日。年末年始恒例の温泉での骨休めとなった(が、そこでもこの取材のようにオンラインでの取材もちょこちょこある)。

しばしの休息だが、2021年の世界はまだまだ不透明なままだ。

年末の休暇中にもフィールド録音は忘れない

いくつも予定されている計画も、パンデミックの状況次第ではまだまだどうなるかわからない。コロナだけでなく気候変動とそれに伴う災害もさらに激しくなる可能性も大きい。

「気候変動の影響もあって災害はこれからも頻発するんじゃないかな。それもどんどん激しくなってきていて、ようやく政治家も企業も重い腰を上げざる得なくなってくるでしょう。本気にならざるを得ない。もう遅いという気持ちもあるけど、やらないよりはいい。パンデミックの状況もどうなるかわからないので、準備はしつつ臨機応変に対応するしかないと思っています」

年明け早々の1月7日、首都圏では再びの緊急事態宣言が発出された。

多難な年明けの2021年。読者のみなさまにおかれましても、どうぞご自愛ください。


取材と文・吉村栄一 写真・KAB America Inc.