上祐史浩個人の総括

1.上祐総括:オウム入信から現在まで

【2】オウムの犯罪と武装化:1988年~1995年

(1)麻原のヴァジラヤーナ思想と犯罪の始まり

●教団創設以前からの麻原の武力肯定の思想

 違法行為や武力行使を正当化する麻原のヴァジラヤーナ思想の始まりは、世間一般に言われている90年に総選挙で敗北した後という見方よりも、実際にはずっと早い。
 まず、1985年の5月に、麻原は、精神世界系の月刊誌トワイライトゾーンの取材に対し、神から 『あなたに、アビラケツノミコトを任じます』という啓示を受け、それが、「神軍を率いる光の命」、「戦いの中心となる者」と判明したと語っている。さらに、自分を導くシヴァ神が、この使命を受けるべきだと語ったとしている。
 しかし、麻原の暴力主義的な思想の下地は、少年期に始まっている。少年時代に、麻原は、長兄に言われ、毛沢東の本を読み、毛沢東を尊敬するようになったという(参考:「麻原彰晃の誕生」)。これは恐らく事実であり、私にも、近代の人物では、毛沢東を最も尊敬していると明かし、「毛沢東は神に繋がる人物だ」と思うと言ったことがある。
 その毛沢東の実践した共産主義には、武力で理想の社会を作るという武力革命の思想があるが、麻原が毛沢東を尊敬した理由には、人格的なものというより、戦闘を経て中国の建国に成功した現代の王であることが強いと私は感じた。ただし、オウムが、繰り返すが、北朝鮮やロシアなど、共産圏や元共産圏の傀儡であったとか、彼らがオウムの破壊活動を支援する意図を持っていたということはない。
 次に、教団を起こす前から、ある精神科医が書いた「滅亡のシナリオ」という本を愛読したという。若い日の麻原は、その本を読んで、その本の主張を信じたようだ。具体的には、ヒトラーがノストラダムスの預言を信じ、ヒトラーやナチスのことが、その中で預言されていると信じ、その預言を成就させるために行動したこと、そして、その中で、戦争を含めた活動を行い、わざと負けたと考えるようになったのである。
 その後、これは後に述べるが、麻原自身が、自分がヨハネ黙示録やノストラダムスの預言の解釈を行い、それらの預言には、ヒトラー・ナチスよりも、麻原・オウムこそが、キリストの集団であると預言されており、最初は弾圧されるが、最終的には、武力によって、ナチスにも勝利し、世界の王となると預言されていると主張する。具体的には、その旨の著作を出版し、その預言の成就のために、教団を武装化し、ハルマゲドンを計画していく。
 なお、私自身が初めて聞いたヴァジラヤーナの話は、1987年である。私が出家する前後である。彼は、私に、「オウムの最後の敵は、フリーメーソンかもしれないね」とか、「自分は核ミサイルを発射するヴィジョンを見た」といったことを語った。
 又この1987年には、私自身は記憶がないが、既に、グルの指示で、死期にある人物を殺すならば、それは功徳になるといった主旨の説法があることが分かっている。
 とはいえ、この時点では、それと矛盾するもう一人の麻原がいた。すなわち、第三次世界大戦・ハルマゲドンを防ぐために、多くの成就者を作り、世界に布教すべきだと説いた麻原であり、私が出家した動機となったものだ。
 しかし、当時の私には、世界大戦を防ぐにしても、フリーメーソンなどと(武力で)戦うという話しにしても、どちらも、あたかもアニメのヒーローのように、修行をして解脱し、超能力を得て、仮に戦う場合であっても、それは正義のために(例えば、日本国家のために)悪の勢力と戦っていく、というイメージでしかなかった。
 すなわち、悲惨なテロ事件により犯罪集団と呼ばれるなどとは夢にも思わず、だからこそ、何ら疑問なく、出家したのだった。これは他の出家者も全く同じだったと思う。

●1998年:ヴァジラヤーナ説法の本格化

 そして、1988年の半ば頃から、麻原は、高弟に対して、ヴァジラヤーナの教義を説き始めた。その前に、麻原は、チベットの高僧であるカルリンポチェ師に出会い、インドのソナダで、チベット仏教のヴァジラヤーナの教えを聞いた。その中には、殺人を肯定する五仏の法則とグルへの強い帰依の話しが含まれていた。
 そして、そのカギュ派の始祖達に、グルの違法行為さえも実行する弟子の帰依の逸話があり、宗派の最高の教えがマハームドラーの教えとされていることは、前に述べたとおりである。
 麻原が、ヴァジラヤーナという仏教用語で、殺人などを肯定する思想を説き始めたのは、この時頃からであるから、チベットの高僧の教えを聞いて、それを自分の思想の正当化に利用したことが分かる。

「ここにヴァジラヤーナの優位性があるんだよ。(中略)優位とは何かというと、短い期間で同じ結果が得られると。(中略)タントラは、ヴァジラヤーナは、完璧な帰依が必要であると。」(例えば1988年8月5日)

「金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場に置いて、そのグルに帰依をすると。そして、自己を空っぽにする努力をすると。その空っぽになった器に、グルの経験、あるいはグルのエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまり、グルのクローン化をすると。」(10月2日)

 さらに、麻原は、自分を絶対的なグルと位置づけるとともに、タントラヴァジラヤーナでは、グルは一人に限られるとして、唯一のグルとしても位置づけていった。そして、それに合わせて、いったんは師事したカルリンポチェ師や、高く評価したダライ・ラマ法王などについて、自分よりも下の存在として位置づけていった。
 そして、この88年の10月末にはに、麻原の説法の中には、それまで強調していた通常の布教による世界の平和の実現(=世界戦争の回避)ではなく、悪い人類を滅ぼし、善い人類を残すという思想が出てきた(88年10月の説法)

●オウム真理教の犯罪の始まり

 私は一九九五年まで一切知らなかったが、この年の9月22日には、集中修行に参加していた在家信者の真島照之氏が死亡する事件があった。裁判の判決によると、麻原は、教団による救済活動が滞ることを恐れ,警察に連絡せずに、ドラム缶に遺体を入れて焼却した。
 そして、高弟だった早川紀代秀によれば、麻原は、その際に、「これは"ヴァジラヤーナへ入れ"というシヴァ神からの示唆だな、とつぶやいた」というので、この事件も、麻原が、ヴァジラヤーナを強調し始めるきっかけの一つになったのだろう。

●予言書の発刊

 その後、88年の年末に発刊された麻原の著書『滅亡の日』で、終末予言に基づくヴァジラヤーナ的な思想が明確になってきた。これは、キリスト教のヨハネ黙示録を麻原が独自に解釈したものである。
 その概要は、現代社会は様々な悪業を積んでおり、その結果、世紀末にハルマゲドンが起こるが、麻原こそが、その際に現れると予言されているキリスト・救世主で、麻原に帰依する善業多き人々は、最初は悪業多き人々に弾圧されるが、最終的には、悪に勝利して、真理の世界を作るというものだ。
 著作の中で、麻原は、ヨハネ黙示録の「彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治める...」という一節を解釈して、「これが武力で支配することだ...」、「力で良い世界をつくる。これこそ、タントラ・ヴァジラヤーナの世界だ。」と述べて、麻原自身が、武力で世界を統治することを暗示している。

●ヴァジラヤーナ:麻原の予言を成就する秘密の違法活動の総称

  そして、ヴァジラヤーナの教えと予言に基づき、オウムは、「ヴァジラヤーナ」と呼ぶ秘密の違法活動を行っていくことになる。ヴァジラヤーナとは、日本語では金剛乗と訳され、仏教の教えの一部だが、教団では、その教えに基づく秘密の違法活動を意味する。
 より具体的には、麻原が考える予言の成就による救済のために、犯罪や戦争に相当する行為を行なう活動の総称である。その最終目標は、麻原が説いた予言に従って、世紀末にハルマゲドンが起こる中で、悪業多き魂達に弾圧されていた者が、キリストとして登場し、その聖徒達(弟子達)と共に、悪業多き魂達との戦いに勝利して、それを滅ぼし、キリストと聖徒達という善業多き魂による真理の世界(キリスト千年王国)を作ることであり、そのために、教団が独自の軍事力を形成し、その予言を自らの力で実現(自作自演)することである。
 よって、これは、犯罪・テロというよりは、国家権力を奪取する武力革命を含むが、政権を取るためだけの戦闘ではなく、人類の大半が滅びるハルマゲドンを起こし、悪い人類(悪業多き魂)を一掃し、キリストに従う良い人類(善業多き魂)のみで、真理の世界を作るとする点で、麻原の表現を借りれば、言わば、人類の種を入れ替えるものだった。その意味で、奇しくもサリン事件の95年に放映が開始されたアニメの「エヴァンゲリオン」と似て、言わば「人類改造計画」とも言うべき誇大妄想的な構想である。
 まさにアニメのように妄想的な話のために、麻原が本気かどうかを疑う者も当然いたが、しかし、麻原自身は、常にそのように語り、私が知る限り、本気ではないと言ったことは一切無い。そして、現実としては、95年に教団が破綻するまでに、サリンやVX等の毒ガスの製造を実現し、その散布により、数千人を殺傷する地下鉄サリン事件を含めた複数の殺人事件を起こすに至った。

●89年初頭の大師会合の将来構想

 そして、この88年の年末から89年の年初頃に、高弟たちの会合(大師会合)、ヴァジラヤーナ活動が今後の教団の計画として、初めて話し合わた。その中で、教団の軍事力の形成のため、科学部門に、300人くらいの科学者を集めようという話や、村井秀夫が、「私の役割は(衆生を)ポワだと思います」と言い、自分がヴァジラヤーナ活動を率先する意思を現した。
 ここで、ポワという言葉は、チベット密教では、死後に(自己の意識を)高い世界への移し変える(高い世界に転生する)瞑想を意味するが、それから転じて、オウム真理教は、他者を殺害し、その魂を高い世界に生まれ変わらせることを意味し、ヴァジラヤーナ活動に従事する者達には、殺害行為の隠語になっていった。
 ただ、この会議での印象は、教団が、サリン事件のように、一方的にいきなり無数の人を殺傷する軍事的な行動に出るというイメージは全くなく、あくまで正義のための戦いだった。弟子達の中には、麻原の預言の通り、弾圧=攻撃されるから、戦う=反撃・防衛する(しなければならない)というイメージを持つ者が多かったと思う。当時は、サリンなど、兵器を製造すること自体は、犯罪ではない状況もあった。

●1989年2月:オウム最初の殺人事件

 1989年には、その2月10日に、田口事件(殺人事件)が起きるが、私自身は、これを95年になるまで知らなかった。
 裁判の判決によると、田口氏は、真島氏の遺体焼却に関与していたが、脱会を希望するようになり、「脱会させないなら、麻原を殺す」と言い出し、麻原は、田口氏が脱会し、真島の事件を表沙汰にすれば、教団の維持や宗教法人化の障害になると考え、早川、村井、岡崎、新實らの弟子に命じ、脱会を思いとどまらないならば、殺害するように指示し、その結果、首を絞められて死亡した。
 なお、ちょうど、この2月頃、私が、麻原から聞いたこととして、「警視庁が教団を警戒している」という情報があったという。早川が収集した情報というが、真偽は分からない。ただし、情報源は、95年の警察庁長官狙撃事件で、一時は自白して逮捕された警視庁の小杉元巡査かもしれない。この当時からオウム真理教の信者であった。
 この情報を得た麻原は、やっぱりそうかと、自分の預言の通り、弾圧が開始されたと解釈した様子だった。私も、今まで縁の無かった警視庁という言葉を初めて聞いて驚き、弾圧ではないかと感じた。
 しかし、今の時点で落ち着いて考えてみれば、当時の教団は、注意深く読めば、危険な内容を含む預言の本を出しており、警戒されてもおかしくない。また、当局は、徐々に増大する出家者と家族のトラブルを懸念し始めていたのかもしれない。
 しかし、当時の私は、教団のヴァジラヤーナ計画は外部に知られるはずはなく、預言の本は単なる宗教本であり、出家者に関するトラブルは当時は大きな問題になっておらず、真島氏・田口氏の事件も知らなかった。こうして、自分の教団を客観視していなかった私は、国家権力による教団の弾圧という麻原の見方に、徐々に影響を受けていったと思う。
 その後、教団は、3月には、東京都に宗教法人の認証申請をしたが、東京都が、出家した信者の家族の苦情・トラブルを理由に、認証を渋る事態が発生した。それに対して、麻原は、青山吉伸を含めた信者の弁護士三名を含めた大勢の信者と共に、東京都に抗議に行って、認証しなければ法的措置を取ると主張し、認証を延期する法的な根拠が見つからず苦慮した東京都は、8月29日に、宗教法人の認証を出した。

(2)選挙出馬と坂本弁護士事件

●サマディ実験と広報活動の開始

 なお、この前後、麻原は、自らの解脱の証明として、「水中サマディ」を行うと宣言した。水中サマディとは、水中に潜って、サマディという深い瞑想状態に入り、一種の仮死状態のままで水中に何時間も居続け、その後に蘇生するという奇跡である。
 インドのヨーガ行者で出来る人がいると聞いたり、本で読んだことがあるが、実際に見たことはない。あのパイロットババ師が、日本のテレビ局や麻原に招かれて、実演するとしたが、実際にはやらなかった(できなかった?)奇跡である。
 これは、私の運命も変えることになった。麻原は、自分の水中サマディを番組にするテレビ局を捜すように私に命じたのだ。また、番組のゲストになる著名人の勧誘も指示された。信者にはよく知られていないが、麻原は、教団を起こす前までは野球ファンで、その頃、世界一をテーマにしたギネスブックの番組に出ていた長嶋茂雄氏をゲストに呼べたらなどいった話も出た。
 そのため、私は、生まれて初めて、マスメディアや有名人を相手にした活動を始めることになった。後に事件に関する教団の弁明に当たる際にも用いた外報部長という肩書きを名乗ったのは、その前後からである。
 理工系の大学を出た直後に出家したので、テレビ局に番組ネタを売り込んだ経験など無いし、識者とのコネクションもないのだが、自分なりに考え、前向きに努力した。営業の経験の多い岡崎(当時佐伯?、現在宮前?)の助言を受けつつ、叱られたり断られたりして試行錯誤しつつ、どうにか一社が特別番組を企画してくれることに。

●総選挙への出馬

 ところが、麻原は、サマディの準備の修行に入ったからしばらくして、夏頃になって、サマディを中止し、衆議院選挙に出ると言い出した。そして、出馬の是非を話し合う高弟達を集めた会議が開かれた。
 皆が麻原の考えに沿って賛成したのに対して、記憶が定かで無いが、反対したのは私に加えて、もう一人だけだった。私が反対した理由は簡単で、自分には勝てるとは思えなかったからである。しかし、圧倒的多数で出馬が決定した。
 しかし、会議が終わった後は、会議の中では賛成した早川が「早すぎる。今回は勝てん。これから地盤を固めて4年後ならば」と私の側で漏らす。それを聞いて新実も否定しない。「だったら、会議で言って下さい」と言ったような気もするが、これが、麻原への帰依=無心・無思考に麻原に従うことが、重視される教団だからしかたがないとも思った。
 これより前から、教団内で、私は常々、自分の考え方が強く、マイウエーであり、私の修行を進めるためには、自分の考え方を捨てて、麻原により帰依することが必要だと言われた。このことは、高弟達は良く知っていた。特に(私よりも)帰依に優れているのは、一番弟子とされた石井久子で、当時既に、私よりも二段階上の正大師の地位を得ており、麻原への無心の帰依が出来ているとされていた。
 ただ、教団で実践された無心の帰依とは、実際には、無思考の服従の面が多かったと思う。何も考えずに、深い智恵に基づく麻原の指示を実行すれば、自分のエゴが無くなり、グル=麻原と精神的に合一して、解脱・悟りを得るという教えは、教団では、難しい高度な修行とされた。
 しかし、良く考えれば、これは、自分でいろいろと考えて悩む必要はなく、いったん受け入れてしまえば、本人の感覚としては、とらわれがなくなり、気楽である面がある。特に、依存心が強く、思考力が乏しい人には、自分に合っている(自分も実行できる)と感じる修行だったとも思える。
 実際に、現代社会は、学校教育でも、教師の教えた通りに答えるという訓練が中心で、論理的な思考力や創造力は軽視されがちだ。だから、多くの弟子達には合っていたし、ある意味で、好まれたようにさえ感じる。

●週刊誌「サンデー毎日」の教団批判記事の連載 

 そして、89年の10月には、週刊誌の「サンデー毎日」により、「オウム真理教の狂気」と題する教団を批判する記事が毎週のように報道された。内容は、未成年を含めた若い出家信者の親・家族が「子供を取られた」と苦しんでいる問題や、教祖の血を飲むイニシエーション、教祖のDNAを使ったイニシエーションなど、社会常識・規範に反する修行法、京大や東大の名前・権威を不当に使った誇大宣伝、都庁に抗議した時の強引さの批判などだった。
 教団は、それに抗議・反論したが、批判キャンペーンは何週間も続いたので、教団は、その対抗策として、「サンデー毎日の狂気」という書籍を発刊して、その記事に詳細に反論して批判し返した。
 こうした中で、オウムの出家信者の親達の相談・依頼を受け、オウム真理教被害対策弁護団を結成し、教団批判のために、サンデー毎日に情報提供していた坂本堤弁護士が、その年の11月4日に、教団に殺害される事件に発展する。

●坂本弁護士事件について

 この事件は、裁判等の資料によれば、

(1)故坂本弁護士は、89年5月頃から、子供を教団から脱会させたい、とする親の相談を受けるようになり、「オウム真理教被害対策弁護団」を結成し、子供の脱会を望む親たちの組織化を図り、出家信者とその親との面会の交渉を担当するだけでなく、教団の問題点を批判し、宗教法人の認証取消の働きかけなども行なっていた。

(2)そこで、麻原は、弟子である村井、新實、早川、岡崎、中川を集め、「もう今の世の中は汚れきっておる。もうヴァジラヤーナを取り入れていくしかない」などとして、教団による救済の障害となるものに対しては殺人をはじめ非合法的な手段により対処していくと言い,「今ポアをしなければいけない問題となる人物」として坂本弁護士を名指しし、殺害を指示し、上記5名に端本を加えた6名は、同年11月4日未明、横浜市の同弁護士宅に侵入し、同弁護士と、その妻と子供の計3名を、頸部を締める等して窒息させて殺害し、3名の遺体は新潟県、富山県、長野県にそれぞれ分散して埋めた。

 とされている。

 この事件に関しては、裁判の判決から明らかなように、私は、事件発生前には、坂本弁護士を殺害する謀議に参加したことも、そういった考えを聞いたこともない。

●犯行のしばらく前に坂本弁護士に会ったときのこと

 ただし、犯行の少し前に、教団の信者で弁護士の青山と早川と私の3人で、坂本弁護士に会ったことがある。私と早川は会うのが初めてだったが、青山は、以前から、出家した若い信者とその親の面会などの件や、サンデー毎日の記事内容の件で、坂本弁護士と連絡をとり、交渉に当たっていた(だから初めてでは無かったかも知れない)。
 そして、その青山が、その時の面会のアポを取ったと思うが、それは、教団側の主張を説明し、理解を求め、何とか話し合いで、問題を解決できないかと思ったからであって、決して殺害準備のための調査ではない。
 その際に記憶していることは、①彼がサンデー毎日にも情報提供したと思われる京大・東大の名を利用したという教団批判に対する説明・反論をしたが、理解を得られなかったこと、②坂本弁護士が週刊プレーボーイが掲載した麻原の空中浮揚と称する写真は偽物であると語っていたこと、③青法協という弁護士のグループに共に所属していることで坂本弁護士に親近感を持っていた青山が失望していたことなどである。
 そして、私個人にとって、最も印象深かったことは、話し合いが物別れに終わって、別れ際に、私が、「27才の私のような成人した者でも、親が求めれば、家に帰らなければならないのですか」と問うと、坂本弁護士が、即座に「帰ってもらいます」と返答したことだった。
 当時の私は、出家に関する教団と坂本弁護士サイドの対立点は、実質的には、未成年の出家者であり、憲法上の権利から、出家が個人の信教の自由と認められる成人は、最終的には、問題にならないと考えていた。しかし、坂本弁護士に相談をしている親の中には、子供が成人し、既に二〇代半ばの者も含まれていた。そこで、他の点の交渉が、物別れに終わる中で、坂本弁護士が法律家である以上は、その点だけは妥協を引き出せるのではと思って、その点を問いただした。
 しかし結果は、その真逆となった。今思うに、この原因としては、別れ際という落ち着きのないタイミングに加え、私の聞き方が悪くて、売り言葉に買い言葉になったのではないか、ということ。また、もう一つの可能性として、坂本弁護士が、未成年の出家に限らず、オウム真理教という宗教全体に違法性があると考えており、それを私が理解できなかったことがあると思う。
 なお、オウム真理教という宗教全体に違法性があるとは、坂本弁護士は言わなかったが、それ以前に私達が会ったサンデー毎日の編集担当者は、そう主張していた。だから、教団批判で、サンデー毎日と協力関係にあった坂本弁護士も同じように考えていたのでは無いかと思うのである。

●自分の教団を客観視できていなかったこと

 しかし、当時の私は、若さ故の未熟のため、率直に言えば、オウムという宗教全体に違法性があるという主張は、その意味自体がよくわからなかった。教団批判の記事にある、未成年の出家が親の権利を侵害するとか、布教の中に誇大宣伝があるとか、修行の中に社会的常識からして奇異なものがあるという主張はよく分かったが、宗教全体に違法性があるというのは、何を意味するのか。
 今思えば、坂本弁護士や週刊誌の編集者が、単に教団の問題点を批判するというよりも、教団を潰す必要があると感じていたと考えるのが合理的だろう。実際に判決の中にも、坂本弁護士が宗教法人の認証取消の働きかけをしていたとある(認証の取り消しは、サリン事件発生後になされたが、逆に言えば、信教の自由を重視する戦後日本では、大事件が起こらない限り滅多にないことだろう)。私は脳天気にも、相手がそう考えているとは理解していなかった。
 しかし、今思えば、坂本弁護士やサンデー毎日の方が、教団に属している私よりも、後に本格的に教団武装化を行い、サリン事件まで起こす教団の本質を見抜いていたのである。ただ、当時の私には、自分のやっていることが、良いことだという思い込みがあった(なければやっていない)。
 しかし、自己の教団を客観視すれば、その年の初めに、麻原の預言の本が既に出ていた。外部の人がよく読めば危険思想を感じ取るであろう。すなわち、坂本弁護士やサンデー毎日が指摘した問題は、実は、教団の本当の問題から見れば、逆に小さな問題だった。そして、教団内部では、ハルマゲドンの実現のための教団武装化計画が話し合われていた。
 しかし、当の本人である私は、ハルマゲドンは、正義のための戦いだし、さらには遠い未来のことである(と思いたかった)し、今現在は何の戦闘も暴力も行っておらず(田口・真島事件は知らなかった)、麻原が是非を問うたサンデー毎日等への暴力行為には私は反対した(他の弟子はしなかったが)と考えていた。
 こうして、自分が所属している教団を自分の主観で見ていて、客観視できていなかったことと、その結果として(暴力行為には反対だったこともあって)、自分個人は知らなかった教団の裏側があったのである。
 その結果として、私は少なからぬ反感を抱いて、本部に戻った。そして、青山・早川と共に、この交渉の結果を麻原に報告した。なお、共に青法協に所属していることで、坂本弁護士に親近感を持っていた青山も、実際に会って交渉した結果に、私と同じように、失望していた。この結果、折り合えない相手として、三人とも、坂本弁護士について、否定的な印象を麻原に伝えたと思う。
 しかし、これも今になって良く考えると、青法協とは、共産系の弁護士の協会であり、共産主義は、宗教はアヘンとして否定する思想なのだから、青山が、同じ青法協に属しているからと言って、坂本弁護士に、宗教への好意を求めるのは、非合理的だったのではないかとい思う。彼も自分を客観視できていなかったのかも知れない。

●オウム真理教と共産主義

 なお、青山は、オウム真理教に入信する以前は、実は、共産党に属し、入党勧誘も含め、熱心に活動していた人物であった。教団に入った後に、「共産主義から真理へ」という著作も発刊しているくらいだ。その共産党から宗教に転じた青山の方が、共産系の人としては、変わり者であり、宗教と戦う坂本弁護士の方が、普通のパターンだろう。
 ただし、オウム真理教の問題には、不思議と共産主義が出てくる。前にも話したが、麻原・青山・早川らの共産主義シンパがいた。彼らは共産主義学生運動の世代で、麻原は毛沢東は神に連なる人物で最も尊敬する近代の人物として、神聖共産主義が理想の国家体制であるとした。そして、共産圏だったロシアや坂本弁護士との縁。
 また、95年に麻原と信者の多くが逮捕された時には、権力との戦いには共感を抱く傾向がある共産系の弁護士の方々も、一般大衆を殺害したサリン事件に加え、仲間である坂本弁護士が殺害されたために、教団に強い反感を抱いており、弁護士探しが難航したことがあった。しかし、それでも、教団信者の弁護を受諾した弁護士の中には、最終的には、共産系の方が多かった。
 そもそも、仏教の出家教団は、物欲を滅する意味から、私有財産制度は希薄で、仏の万人への平等の愛の精神を重視し、自ずと共産主義的なコミューンとなる。かのダライ・ラマ法王も、仏教的な精神を持った共産主義を支持しているのは興味深い。
 さらに、オウム真理教と共産主義は、宗教と宗教の否定で正反対だが、両者とも暴力主義と縁がある点では似ている。また、その言動が穏健では無く、権力などに対する強い否定・批判の点でも同様で、私に広報活動のやり方を教えた麻原は、共産主義者の権力との戦いを参考にしたのだと私は推測している。
 さらには、共産主義が宗教を否定していると言っても、ソ連のスターリン崇拝や、北朝鮮の金日成・金正日崇拝などは、端から見ている、宗教と酷似しているし、特に現人神教祖の独裁体制のカルト教団的ですらある。どちらも独裁的・非民主的・抑圧的・暴力的・差別的で、さらには反米など、自分以上の権力への反発が強い。

●坂本弁護士事件の前に、暴力行為に反対したこと

 話を坂本弁護士に件に戻すと、麻原に否定的な報告をしたものの、私は、あくまで暴力行為には反対で、坂本弁護士殺害の謀議にも加わっていない。そして、自分や青山などが担当である広報手段と名誉毀損訴訟などの法的手段で対応すれば良いと思っていた。
 ただし、坂本弁護士に会う前か後かは記憶が定かではないが、坂本弁護士ではなく、サンデー毎日・毎日新聞社に対して、暴力手段を用いることの是非について、麻原から、他の高弟と共に、意見を聞かれたことがある。しかし、どういった暴力手段かの記憶が曖昧で、ポア=殺害ではなくて、新聞社にトラックで突っ込むといった、左翼系の犯罪で過去にあった類の話しが記憶に残っている。
 その際は、私は「非常に危険だ」として強く反対した。また、同席していた石井久子氏も同様だった。その場には、村井、新実、早川、岡崎もいた。その後、坂本弁護士殺害に関与する5名のうち、中川を除いた4名だったと思う。彼らは、賛成もしなかったが、明確な反対意見は言わなかったようにと思う。
 そして、この後に、裁判の判決からすれば、麻原は、私や石井を外し、他の4名に、中川と端本によって、坂本弁護士事件を行なった。ここで、私が外された理由を推察すると、今述べたように、暴力行為に反対したことと、マスコミ対応の担当だったからだと思う。
 
●坂本弁護士事件の発生後も麻原に帰依した経緯

 さて、事件が発生し、その報道が流れると、私は、事件発生前後に、村井・新実らを教団内で見かけなくなったことから、教団の犯行ではとの疑惑を深めて、不満を持った。私は、広報活動で、教団批判の影響を和らげるべきだと思っていたからだ。
 すぐに、この事件は大きく報道され、大騒ぎになった。最初は、赤報隊などの他団体の犯行の可能性も指摘されたが、そのうちオウム真理教が一番疑われることになった。その最大の理由は、犯行現場に、オウム真理教の法具であるプルシャと呼ばれるセラミック製のバッジが残されていたからである。
 こうした中で、私は、麻原と電話で話し、私の抱いた疑惑について問いただした。すると麻原は、教団の関与を明言はしなかったが、(仮にそうだとしても)それは正しいことだという立場を取って、そう考えるように私を説得して、最後に、「もうわかっているようだからな」と言って、教団の関与を暗に示唆したのである。
 これを聞いた私は、その後も、不満・わだかまりは残っていたと思う。しかし、前に述べたように、それまでの経緯から、麻原を深く盲信し、帰依する精神状態にあり、さらには、自分が守ってきた教団への愛著もあっため、結果として、麻原に帰依して、広報活動を継続した。
 具体的には、仮に教団が関与していたとしても、それは麻原のポアであると考え、関与していても、していなくても構わないと思い切るようにしたのである。なお、この際の心理状態や、麻原によるポアとは何かについては、後ほど、麻原のヴァジラヤーナ活動に加担していった原因を反省する部分で、詳しく述べるので、そちらを参照されたい。
 そして、青山も、同じことで悩んでいることが分かったので、彼にも自分と同じように考えるように話すと、青山も不思議と納得したように見えた。

●事件の詳細は95年まで分からなかった

 しかし、私は、事件が誰によってどう行われたかは、95年に全貌が発覚するまで、全く教えられることはなかった。私は、89年当時に報道されたように、教団がやったにしても、暴力団関係者などに依頼したのではと推測していた。まさか、素人の6人が実行したとは思わなかった。
 なお、早川の供述の中では、私が、プルシャが現場に落ちていたことに対して、大変なミスだと批判したとされているそうだが、もし私がそう言ったとしたら、早川のミスという意味ではなく、プロの犯行であればという意味だ。
 だから、私は、教団側がプルシャを落としたとは最後まで信じることはなく、テレビで主張したように、プルシャは犯行とは関係なく、被害者の会を通じて、教団の資料として坂本弁護士の方に渡されたものが、弁護士自身が自宅に持って行ったと考えた。
 判決が言うように、事件の目的は、教団批判を封じることだったのだろうが、プルシャが落ちていたこともあり、実際には、教団批判は、事件発生前よりも、遙かに大きなものとなった。全くの逆効果になったのだ。
 しかし、麻原は、「おかしいな。普通は失踪した人間が出たからといって、こんな騒ぎにはならないのにな」と言って、不服そうだったことをよく記憶している。彼の見方は、あくまで、自分達は特別に弾圧されているという立場だったように思う。

●岡崎の脱会と麻原への脅し

 最後に、坂本弁護士事件に関係して、他に私が知っていることは、事件発生から数ヶ月して、岡崎が脱会した後に起こったトラブルである。
 岡崎は、脱会と共に、教団の何億ものお金を持ち逃げしようとした。それは、早川らの行動で阻止されたが、その後に、麻原と岡崎は電話で話し、岡崎は麻原に多額の金銭を要求し、麻原は、それを承諾した。断片的な話しが聞こえただけなので不正確かもしれないが、八〇〇万円ほどだった。
 私は、それが岡崎に対する口止め料を意味することは、だいたい察しがついた。承諾する前に、麻原は、自分もいる場で、早川に、「(岡崎は)私と差し違えるつもりでしょうかね」と言った。早川も、「(岡崎が)警察に手紙を送る可能性はないでしょうか」と話していたと思う。後から報道から知ったが、実際に、岡崎は、遺体を破棄した場所に関して、警察に匿名の手紙を出していた。
 しかし、当時の私は、まさか素人の岡崎が実行犯とは思わなかったので、岡崎が、実行犯と関係があって、そのため、麻原・教団の弱みを知る立場にあったのでは、と推測していた。
 これを含め、私の事件に対する認識が抽象的なのは、誰も、私に対して、坂本弁護士事件への関与を明確に告白したり、その詳細を説明することはなかったからである。逆に言えば、実行犯にとって、相手が高弟と言えども、事件のことは、決して他人に漏らすことができないものだったのだろう。

(3)選挙の惨敗と陰謀論

●教団の陰謀論の開始

 この年から、教団の中では、ヨハネ黙示録の終末予言を解釈した書籍『滅亡の日』で、聖徒が弾圧が受けると予言されているように、教団が国家権力・マスコミ等から、いわれなき弾圧を受けている、という主張が始まった。
 そして、麻原は、『サンデー毎日』のバッシングは、自分が選挙に出ることを決めたからであり、その背景には、それを嫌がる創価学会の勢力があり(毎日新聞と創価学会には繋がりがあって)、その裏には、JCIA(内閣情報室)やアメリカがいる、とまで主張し始めた。
 私は、半信半疑だったが、『サンデー毎日』が、たかが数千人の信者の小教団を7週連続で批判する一大キャンペーンをやったのは、やはり奇異に思えた。今の時点で、当時の教団を客観的に見れば、日本には、馴染みが薄い、①ヨーガ・密教系の宗教的実践への無理解・誤解、②多くの出家者による家族とのトラブル、③多額の布施を取る修行に関する一部信者のトラブル、④宗教法人の認証申請時に信者が大挙して都庁に詰めかけた過激な行為、⑤書籍『滅亡の日』の過激な記載など、さまざまな点で、危険な教団に映る現実があったのだろう。
 それはともかく、この点に関して、非常に印象に残っている出来事として、私が、週刊誌の批判が、過激な出家制度が原因ではないかと麻原に言った時の麻原の反応がある。その際、麻原は、滅多にないほど非常に不満げに、「それはあちら側のシナリオだ」と言ったことを覚えている。
 ここで「あちら側」というのは、教団を弾圧する国家権力側・ユダヤ・フリーメーソンのシナリオという意味である。そして、私は、麻原のその口調が、滅多にないほど感情的で、ふて腐れたようにも感じたので、私は違和感を覚えた。
 また、「シナリオ」とは、麻原の独自の考えで、教団を弾圧する側が、ある種の「計画」を持って、教団を弾圧し、社会を動かしているという見方である。同時に、麻原は、自分のハルマゲドン預言を自分で実現するために、教団の軍事力を形成し、ハルマゲドンを起こそうと考え、「預言とは計画なんだ」と語っていた。その意味で、彼の陰謀論の社会の見方は、自分の考え方の投影だったと思う。
 そして、この陰謀論に関しては、私は、帰依の実践として、麻原と同じように考えるべきであるという思いと、自分の合理的な理性による判断が食い違い、その後も、ことある毎に、悩むことになった。
 特に、ヴァジラヤーナ活動に入る大きな根拠として、「教団が社会に弾圧されているから、社会と戦わなければならない」という状況認識があったので、これが真実なのか、被害妄想かは、非常に重要な問題と感じられた。特に、この後の1990年の選挙の敗北もが、国家権力による投票操作の結果とされたのは、私には大きい問題であった。    

●1990年 選挙の惨敗と落選の陰謀論

 1990年は、大きな転換期だった。まず、1月に「真理党」を設立し、衆議院選挙に出馬したものの、結果は惨敗だった。
 これをきっかけに、教団はヴァジラヤーナ活動を本格化させる。麻原は、選挙は、ヴァジラヤーナではなく、(合法的な活動である)マハーヤーナで、教団の救済を進めることができるかのテストであり、それが失敗したということは、ヴァジラヤーナが救済の唯一の道であると弟子達に主張したのである。
 なお、麻原は、選挙の前から、上九一色村の土地を購入し、村井と話し合い、選挙と共にヴァジラヤーナ活動の準備をした。よって、選挙に負けたら、直ぐにヴァジラヤーナを始めるつもりだったのだ。選挙に勝っていたら、ヴァジラヤーナがなかったかは分からないが、惨敗したため、それしかないと考えたのは確かだと思う。
 そして、麻原は、選挙の惨敗は、選管の投票票操作の陰謀だと主張をした。これは、麻原の預言が説く弾圧と合致し、マハーヤーナでは、国家権力が妨害するために、救済は成功しないという論理を構成した。
 しかし、選挙前には、選挙に全力を尽くしても、投票操作の陰謀があるのでは、ということは誰も言わなかった。最終解脱者の麻原ならば、それを予見できるはずだが、麻原は側近信者と共に、彼なりに全力で選挙戦に取り組んでいたように見えた。

●長女の一言から始まった陰謀論

 そこで、麻原と教団が陰謀だと考えた経緯や根拠を列挙すると以下の通りである。まず、麻原が最初に惨敗の報道を見た時は、その場に共にいた信者によると、直ぐに陰謀だと主張したのではなく、本当にがっくりしていた様子だったと言う。
 ところが、その後、麻原の長女(当時14才?)が「これはおかしい」と言い、陰謀だと主張し始め、それを聞いた麻原が、気を取り直したように、陰謀だと主張し始めたのだという。
 こうして、選挙の陰謀論は、麻原ではなく、なんと麻原の子供の少女の発案だったのだが、私は、この事実を長く知らず、他の信者もそうだった。それが分かったのは、17年後、アレフを私と共に脱会する者達で、オウム時代を総括する会議を行った時に、当時麻原と同じ場にいた信者が証言したからである。
 この話と合致するように、その当時も、麻原は、陰謀だと主張する際に、霊性の高い自分の長女もそう主張していることに言及していた。しかし、麻原は普通は長女の考えなど持ち出さないから、良く考えれば奇妙なことであり、その裏には、長女の発案という事実があったのだ。
 しかし、娘の発案とは言え、麻原の感情と思想に深くマッチしたことは疑いがない。いやそれ以上に、麻原の生い立ちを調べると、幼少からの人格にマッチしていたのだ。というのは、「麻原彰晃の誕生」という本を見ると、麻原は子供の時に生徒会の選挙に出た際に、選挙前に友人にお菓子を配り、それで当選すると信じていたところ、実際には人望なく落選した際に、教師が陰で自分の悪口を言ったからだと主張したのである。
 これを知った時、私は「三つ子の魂百まで」と言う言葉を思い出した。彼と教団は、この衆議院選挙でも、事前に選挙区の住民に安く野菜を販売する活動を行なって、集票しようとしたのだ。しかし、結果は同じように惨敗で、その結果に対して、彼は子供の時と、同じように陰謀を主張したのである。

●選挙後の集会での騒動:陰謀説に反論する

 さて、麻原は、衆議院選挙敗北を総括する会合を参加した出家信者数百名を集めて、富士山の総本部道場で行った。その際に、麻原は選挙管理委員会らの陰謀だと主張した。そして、麻原は、この陰謀のため、今後の教団の救済活動における選択が容易になって良かったという主旨の講話をしたのだ。
 一般信者は、秘密活動のヴァジラヤーナを知らないから、講話は抽象的な表現をとっていたが、選択が容易になったとは、陰謀のため、マハーヤーナは駄目で、ヴァジラヤーナしかないことが、明白になったという意味である。
 これを聞いた私は、納得できなかった。というのは、私は、選挙の投票日に、自分自身で、部下の信者に命じて、テレビ局やるのと同じように、一つの投票場で、百人以上の投票者に対して、投票先の出口調査をしたのだ。そして、その結果は、麻原に投票したという人は、一人もいなかったのである。
 よって、私は、この調査結果を含めて、陰謀だとは思えないという主張をした。それは、
麻原に帰依することが最重要とされる教団で、さらに、大勢の信者の前で、教祖と高弟の意見が真っ向から食い違うのだから、極めて異例のことだった。当時の私は、麻原の弟子の中では、3名しかないマハームドラーの成就者であり、男性の中では、一番弟子となっていた。
 当然、その場の空気は一変した。大勢の信者の中で、私の意見に賛成したのは、幹部でもない一人の男性の出家信者だった。他の信者で、発言した者もいたと思うが、その具体的な記憶は、今はもはやない。記憶が無いのは、自分自身が非常にハイになっていたからかも知れないが、あったとしたら、全て麻原よりのものだったろう。しかし、記憶に値する程に、説得力のあった反論がなかったことは確かだ。
 当時の私には、選挙の敗北を陰謀とするのは、それまでの他の陰謀論と比べても、見過ごせないほどに、重要な問題だった。教団がフリーメーソンに弾圧されているという抽象的な話しや、創価学会が教団の政界進出を嫌っているといった類の話は、ある意味では、世の中に山ほどあるネタである。
 しかし、具体的な衆議院選挙の投票で、その全投票所で、教団関係者も立ち会う開票作業の前に、通常厳重に保存管理される投票終了後の一夜の中で、票が全て入れ替えられているというのは、異質の主張である。
 その場合は、麻原の票を抜き、麻原の票分だけ、他の候補者に投票した偽造の票を入れなければ数が合わない。仮に麻原が当選するほどの票を集めていたら、大変な手間となるし、偽造票は様々な筆跡の手書きのものでなければならない。ないしは、総投票数と同じだけの票=合計五〇万票ほどを同様に様々な筆跡で手書きで偽造し、まるっきり全部入れ替える作業を秘密裏に行なう必要がある。私には現実味が感じられなかった。
 なお、私が異例の反論を行った動機は、これを見過ごせば、ヴァジラヤーナ活動に一気に傾斜することを恐れ、それを防ぎたいという具体的な意図があったかと言われると、必ずしもそうではない。ただし、無意識的には、そうだったかもしれない。自分の記憶としては、自分のいつもの性格通りに、単に、事実・真実へのこだわりからだった。
 前に述べたが、私は89年の夏に出馬を決めるときも、最初は、現実的に当選できないだろうと思って、麻原の出馬の意向に反対した。そのときも、反対者は私を含めごくわずかでした。とはいえ、その後色々な議論を経て、私も賛成するようになっていった。それが私の性格だったと思う。

●陰謀かどうかを教団を上げて再調査

 私の異例の反論に対して、麻原が取った対応も、異例のものだったと思う。彼は、私の主張を受け入れなかったが、強行に否定することなく、実際に票操作があったかを調査するという決定をした。その理由として、麻原は、私が、男性の一番弟子として、教団に重要な人間であり、納得がいかないままでは、今後の活動に支障を来すという主旨のことを言った。
 これは、通常は弟子に対して圧倒的な優位に立つ教祖・グルとしては、異例の対応であり、麻原が言うままに、選挙の陰謀を確信している多数の信者には、当惑が生じたかもしれない。一方の私にとっては、全面否定されず、調査後まで結論持ち越しとなったことと、重要な人物だと言われて、プライドがぎりぎり守られた形になった。
 しかし、この決定の後に、無心の帰依に優れているとされ、一番弟子の地位にあった石井久子などとも話したが、彼女から見れば、彼女と違って無心の帰依ができない私に、無理な服従を強いれば、教団に得策ではないと麻原が考えたと解釈できただろう。
 なお、今思えば、この決定は、その直前に、麻原が、坂本弁護士殺害の共犯者である佐伯(岡崎)の離反と口止め料の要求という手痛い経験をしていたことが、微妙に影響したのかも知れない。佐伯が離反したのは、選挙には勝てないと確信し、麻原への疑念が生じたからだった。佐伯の時と同じように、事件の秘密を知った弟子が、選挙の勝ち負けをきっかけに、疑念を持って離反することを恐れたというのは考え過ぎだろうか。
 ともかく、選挙で有権者と対応していた信者は、彼らが知り合った有権者に、実際に麻原に投票したかの調査を始めた。そして、投票したという人の中で、その旨の一筆を書いてくれる人には、書いてもらった。
 その結果は、投票したという有権者は、選管発表の麻原の得票よりも多かったが、一筆書いた人は、それよりも少なかった。その結果は、私には、選管発表を上回る人が投票したという十分な証拠にはならないと思えた。
 信者は、選挙区で、選挙期間中の前から色々活動しており、その中で一定の人間関係が出来て、信者に投票を頼まれれば、(社会的に批判されているなどから)実際には投票するつもりはなくても、信者の面前では、投票すると言う人も多くいるだろうし、教団の場合では無くても、それが選挙だろうとも思った。そして、事前に麻原に投票すると言った人に、選挙後に、約束通り投票してくれたかを聞けば、約束を破って投票しませんでしたとは言えないだろうと思った。

●多くの他の弟子は陰謀説を支持

 しかし、基本的に、私は多勢に無勢だった。実際に集票にあたった幹部信者の一人は、非常に力を込めて、「実際に自分たちが直に接して、関係を形成してきた人達だから、嘘をついているのかどうかなんか分かりますよ。念書を書く人が少ないのは、教団が選挙無効の裁判などを起こした場合に、関わりあいになるのが嫌なのは当然ですよ」として、投票操作が行なわれたに違いないと主張した。
 その人物は、民営化される前のNTTで課長までを務めた人で、信者の勧誘も非常も上手い優秀な人物であり、私よりもだいぶ年長で社会経験も豊富だった。よって、私も、彼が陰謀説を唱える前は、一定の敬意を抱いていた。
 そして、そういった人に、大学を出てすぐ出家して社会経験もなく、一般人との対応の経験も浅い私が、確信を込めて「嘘をついているかどうかなんか分かる」と言われれば、ちらっとではあるが、自分の方が間違っているのかなという気持ちも出てくる。
 これも集団心理の恐ろしさだし、圧倒的に小数の側の弱さだろう。参考までに言えば、この幹部信者は、今現在、選挙の陰謀論だけでなく、サリン事件を含めたオウム真理教の事件が陰謀であると信じている。
 この選挙から15年ほど後に、私が麻原信仰の脱却を始め、教団が分裂に至った時に、彼は、反上祐派=主流派の先頭に立ち、陰謀論を展開して、麻原への帰依を主張した。選挙の時も、教団分裂の時も、彼は陰謀論であり、教団の主流派であり、私は陰謀論を否定し、少数派だったのである。よって、今は、私の彼に対する評価は、一定の尊敬を含む者から、被害妄想を患ったオウム信者の一人に変わった。

●私が負けたのは私自身であった

 しかし、私は、さらに重要なことに気づかねばならなかった。それは、彼の陰謀論の原因の少なくとも一部は、私自身だということだった。
 というのは、彼よりもずっと高弟であった私は、麻原らと共に、坂本弁護士事件やサリン事件の教団の関与を全面否定した。彼が選挙を陰謀だと思うようになる前に、私は、坂本弁護士事件に関して、テレビなどで、事実に反して教団の関与を否定し、他者の犯行であり、教団は被害者だと主張した。
 これは教団への疑惑は、陰謀だと主張したことにもなる。そして、確信を込めて陰謀だと私に主張した彼は、坂本弁護士やサリン事件の時に、私自身がテレビ番組の中で取った態度そのものだったのだ。彼は私の鏡、自業自得だったのだ。当時は、それが分からなかったから、わずかではあるが、彼の言葉に影響を受けたのだろう。
 また、早川は、麻原と共に、私の出口調査の結果に反論した。彼は、「一般の人は、マスコミでたたかれている麻原に投票したとは言いにくく、麻原に投票した人は、投票したとは言わないのものですよ」と言った。私は、それだけで、出口調査で麻原票が皆無だった根拠とするのは極論に過ぎると思い、納得できなかったが、周りには、「そうそう」と同意する人もいて、集団心理の中で、有形無形のプレシャーを感じ続けた。
 さらに、自分の願望のせいか、開票の前の夜に、私は、麻原が当選したかのような夢を見ていたので、そのことを知った麻原は、さもありなんと言う感じで、私が、「自分のヴィジョンを(予知夢・正夢として)信じればいい」とも言った。
 私は、ヴィジョンとは、自分の心の現われだから、それを現実的に解釈しないと間違いを犯すと思う。私のヴィジョンは、麻原当選することを願っていた自分や、そのように願っていた教団の心理状態を投影したものだろう。

●陰謀説の決め手となったマスコミ関係者の言葉

 こうした状態の中で、調査の終盤に出てきたのが、マスコミから、麻原が当選したと聞いたという情報だった。開票日の前日夜に、本部施設に来た(おらくは民法の)テレビのスタッフが、取材に来た理由として、そう言ったというのだ。さらに、電話をかけてきたテレビ局も、そう言ったというのだ。
 これは、その状況の中で、多くの信者に、非常に決定的な陰謀の証拠と受け止められた。ある女性の最高幹部は、「それで決まりじゃない」と断言した。もう私にはどうしようもない状態だった。
 今から思えば、普通に考えると、マスコミが、「当選した(可能性)があるから、取材に来た」というのは、常套文句のようにも思う。しかし、当時の教団の中は、もはやそういった雰囲気でなく、正に決定的な証拠があったという感じで、反論の余地がないという雰囲気だった。そう感じた私自身も、もはやまともな意識状態ではなかったと思う。
 こうした経緯で、納得は出来なかったが、教団としては、その女性の最高幹部が、文章を書いて、信者向けの月刊の機関誌に、「本当は当選となる八万票ほどを獲得したと推察されるが、投票操作の結果、敗北した」という主旨の主張をした。八万票ほど獲得したというのは、教団なりの計算の結果だが、私から見れば、計算の前提となる数字の正しさに十分な証明がないのだから、あまりに大きい数字だった。
 この話を私から聞いた外部の人は、信者達は、「選挙を知らないね」と笑っていた人もいるが、当時の私達は、皆が20代から30代の若者で、選挙も初めてだった。また、今から思えば、「当選したという情報がある」と言ったマスコミも、そうでも言わないと、疑惑の渦中にあった教団を取材するのは怖かったかもしれない。開票前の深夜に、教団施設近くに陣取る取材の仕方自体が、当選者に対するものというより、疑惑の教団の取材の仕方のようにも思える。
 私も、圧倒的な少数派として、圧倒的な多数に従う方が、楽なことは確かで、逆に反論を続ければ続けるほど、「まだ真実が分からないのか」という怒りや憎しみを買うだろうと感じていたのだろう。今から思えば、陰謀論を信じる信者達に、十分な反論ができたとは言いがたい。
 後から考えると、これが信者が陰謀論を確信し、ヴァジラヤーナに傾斜する流れを大きく加速したとすれば、極めて残念なことだが、それを押しとどめる力は、自分には無かった。大日本帝国の時代も、米国には勝てないと分かっていても、開戦を求める圧倒的な多数の国民の中で、開戦に従った人達がいたと聞くが、それと似たような状況だったのではないかとも思う。
 なお、こうした発表をする上で、青山弁護士の意見で、公職選挙法の選挙無効の訴えは取りやめた。訴えが有効なのは、選挙の結果が変わる程の重大性がある場合であり、それを証明できないからだった。青山弁護士の意見が出る前から、麻原は訴訟には関心がなかったと記憶しているが、これは、もはや(ないしはいよいよ)ヴァジラヤーナの時代だ」と考えていたからだろう。

●麻原が逆にまともに見えた出来事

 私自身は、こうして教団内の議論が終わった後も、幹部信者が展開した8万票獲得という主張は、いくら何でもおかしいと思って悩んだ。一方、そう主張する幹部信者は、仲間内からは、「帰依がある」と称賛されていた。
 その中で悩み続ける私に対して、麻原は、「(8万票ではなくても)せめて2、3万ということなら納得いくんだけれどな」と漏らしたことがあった。
 その時には、帰依を競い合うかのような幹部信者との比較で、麻原がとてもまともに見え、妙にそれに納得してしまった記憶がある。それは、矛を収めるために、自分を納得させることのできる、唯一の落としどころだったのかもしれない。
 また、自分が帰依する麻原が、おかしい人間だとは思いたくないという自分の欲求が満たされた結果かもしれない。客観的に見れば、麻原の言うことも十分におかしいのだが、集団心理の中で暴走していた弟子達に比べてまともだったのが、悪い意味での私の救いになってしまったのだろう
 ともかく、異例中の異例の事態の中で、これ以上、一人で全体に抗うことは、現実は、不可能であった。それは、客観的には、組織の中での自己保全を優先させたということだ。結果として、教団は、落選は陰謀であったという認識の元で、次なる活動、ヴァジラヤーナ活動に入っていくことになった。

(4)1990年:大量破壊兵器による教団武装化を受け入れた経緯

●大量破壊壁を含めた教団武装化が本格化

 選挙後は、ヴァジラヤーナ活動が本格化した。それは、個別の殺人事件やテロ事件ではなく、麻原が説く終末思想的な預言の世界を実現する活動であった。麻原は、彼が説く「預言」とは、単なる予想を意味する「予言」ではなく、神から預かった神の意志・計画であって、それが実現するように努力すべきものだと説いた。
 すなわち、ハルマゲドンが起こるという予見ではなく、ハルマゲドンが起きてキリストが登場するというのが、神の意思=シナリオ=計画であって、信者は、それを信じ、その実現に努力すべきだというものだった。
 そして、選挙が2月に終わった後から、教団の上層部で、ヴァジラヤーナに関する意思統一が始められたと思う。麻原は高弟や、当時「CSI」と呼ばた教団の科学班の出家者達に、ヴァジラヤーナの活動に協力するように促した。
 それまでは、ある意味で、悪に対する正義の戦いの預言に基づく教団の未来構想にとどまっていたものが、初めて本格化したのである。それは、驚くべきことに、ハルマゲドンを実現するための「大量破壊兵器の製造と散布の実験」を意味した。
 その意味で、私個人としては、この時初めて、麻原に、麻原が構想する本当のヴァジラヤーナ活動に、勧誘されたことになる。

●求められた選択:協力するか在家に戻れ

 この際、麻原に勧誘された私は、数日の間、非常に悩んだと記憶している。人生で一番悩んだ時の一つだと思う。というのは、麻原は、私に、「ヴァジラヤーナに協力しない場合は、在家になるように」と言い、「他の高弟たちにも同じ選択をさせている」と言った。
 私は、悩んだが、他の高弟たちと相談することはなかった。男性では一番ステージが高いというプライドに加え、選挙の陰謀論をそのまま受け入れた他の高弟の多くは、私のようには悩まずに、麻原を受け入れると思ったのかもしれない。
 私が悩んだのは、第一に、一般の人には当然だろうが、一教団が、軍事力を獲得し、終末預言を実現し、日本や世界を統治する計画は、現実的ではないと感じたからだ。
 しかし、麻原への帰依を最重視する教団では、そう悩むこと自体が、麻原への疑念であり、自分がグルにおかしく感じることがあれば、グルのマハームドラー(=弟子に与える精神的な試練であり、そこで、麻原に全てを委ねれば、修行が進むと強調されていた。そう考えられれば、自分は正しい弟子として、ある意味で、楽でもある。
 しかし、自分には、度々、麻原に帰依しようという面と、現実的に考えるという両面があった。とはいえ、一般の人には、この計画は、非現実的といより、狂気に近い程だろう。だから、そのように悩んだ私も、麻原を盲信し、その能力を実際よりも遥かに高く見ていたことは間違いない。
 そして、結果として、私は、非常に悩みつつも、出家にとどまって、ヴァジラヤーナに参加することになる。ここは重要だし、その理由は複雑なので、ていねいに説明したい。

●ヴァジラヤーナ活動に参加していった原因

 まず、第一に、麻原を完全ではなくとも相当の解脱者である考えていたことである。麻原は、何かしら神に通じる者であって、麻原の解く来世などの輪廻転生の世界観を確かに存在し、麻原が他人の来世を相当に理解し、それをコントロールできる(よりよい来世を与えることができる力がある)と妄信していたのである。
 そして、それを背景として、麻原を中心として、麻原の弟子達は、キリストの弟子の集団として、今生に限らず、過去世から来世に渡って続く縁であると盲信しており、その意味で、「日本人」としての帰属意識は薄れ、あたかも「オウム人」とも言うべきほどに、日本社会よりも、教団に強い帰属意識があったのである。
 第二に、私には、そもそもが、在家に戻るという選択は、最初から考えられなかったことである。在家に戻るとは、実際には、ポアされる側になることを意味する。実際に、生物兵器などでハルマゲドンを自作自演する麻原の構想は、教団施設にいる出家者は守られても、全国中に点在する在家信者まで守ることは不可能だ。在家者を巻き添えにせずに、非信者だけに行なうことは、物理的に不可能だからだ。
 さらに、ハルマゲドンを自作自演する場合は、それを在家信者に知らせる訳がない。外部に情報が漏れ、自白に等しい。ヴァジラヤーナ計画は、出家者でもごく一部しか知らない秘密計画である。教団は在家信者を普通の意味で大事にはしたが、出家と在家の間には、容赦ない大きな壁もあった。
 実際、その後、ボツリヌス菌を散布する計画が持ち上がった時にも、麻原は最初は在家信者を避難させることは考えていなかった。それは、私が提案し、麻原が受け入れたもので、その結果が、石垣島セミナーであった。
 私が提案すると、麻原が「そうするか」と私に聞き、私が「ええ、そうしましょう」と答えたのであり、麻原から、積極的に「在家を守れ」といった主旨の指示は記憶にない。提案しなかったら、麻原は在家のことをかまわなかっただろうし、提案を受け入れたのも、在家を無視する姿勢では、私を含めた弟子がついて来なくなる恐れがあると麻原が感じた可能性もある。
 サリン事件を起こす際も、在家に配慮した形跡は全くない。実際に、現在のひかりの輪の指導員の一人は、正に地下鉄サリン事件にニアミスした。彼女は、その時に目の充血を経験し、軽微の被害者だった可能性がある(その彼女が、加害者側として、被害者に賠償をしているのは、何とも言い難い)。東京の出家信者にも避難指示は出ていない。麻原には、生命を奪うこと=ポアという教えがあるから、信者の命は絶対に守るという原則さえなかったのだ。
 よって、「ヴァジラヤーナをやらないならば、在家に戻れ」という麻原の言葉は、ヴァジラヤーナをやらなければ、自分はポアされる可能性を意味する。ヴァジラヤーナ(=他の殺害)をやらず、またポアされない(=殺されない)ためには、事実上、麻原の秘密計画を社会に告発し、麻原と戦うしかない。こうして、ヴァジラヤーナを拒否すれば、自分がポアされるか、麻原を死刑にするかであり、どちらかしか生き残らないことを意味している。
 一般の方ならば、当然に麻原と戦うべきだと言うだろう。しかし、麻原を少なからず盲信し、愛著していた私には、精神的に到底不可能なことだった。正確に言えば、そういったことは考えもしなかった。全く不可能なことは、人は考えもしない。それは、自分の無意識が、完全に封じ込めていたのだろう。
 そして、麻原は、私達が選択する前後において、「警察に告発する者がいれば、日本・世界のヒーローになるだろうね。その人の来世の転生は別だろうが」と語っていたことがある。来世の転生は別だというのは、弟子達には十分な脅しになるものだ。

●ヴァジラヤーナ活動が失敗する可能性に悩む

 こうして、在家に戻って、ポアされる立場を最初から考えていない私が、何を悩んだかというと、ヴァジラヤーナ活動の成功が、非現実的だということだ。
 それは、具体的に言えば、失敗すれば、信者も一般人も多くが死亡したあげく、教団は壊滅し、自分が信じていた教団の真理の修行も広まるどころか、逆に全く無くなり、それは大きな罪(悪業)になると考えたのである。
 そして、その前後、私は麻原に会って話した。すると、彼は、「ヴァジラヤーナのデメリットは、失敗したら真理が根絶やしになることだ」と言った。偶然だったのだろうが、ある意味で、私の悩みを見抜いたかのように私には感じられた。しかし、麻原は、その後に、「でも、俺は勝てると思っているんだよ」と語り、多少微笑んだように見えた。
 その時私は、何かほっとしたのである。今思うと、私は、選挙の陰謀論の時と似た精神状態だった。私は、多くの弟子が、麻原が言うのだから成功すると考え、ないしは考えなければならないと思うことが予想される教団の中で、麻原が、「失敗したら真理が根絶やしになる」と言って、ある意味で、私と同じように、失敗する可能性を考えていると感じたので、ほっとしたのだと思う。
 しかし、今思えば、「勝てると思っている」と言い、微笑むあたりを見れば、十分に狂信的である。しかし、選挙の陰謀説の際に、八万票取って当選したと思い込んでいく弟子達との比較で、麻原がまともに見えた時と同じように、成功すると思い込んでいくであろう教団の中で、麻原がまともに見たのだと思う。
 ほっとした理由を更に深く分析すると、失敗する可能性を考えた自分は、おかしくないし、自分が帰依しようとする麻原も、おかしくないと解釈できるという気持ちからだと思う。実際には、麻原は十分に狂気的なのだが、自分が信じる麻原が狂気的だと思いたくない気持ちがあって、その部分の麻原だけを見ようとしたのだと思う。

●自分の中で、実在しない理想の麻原を妄想する弟子の心理構造

 これは、私の大きな過ちだったと思う。今思うことは、私は、客観的・全体的には、麻原がおかしいと判断すべき時に、自分が深く信じていた麻原を否定したくないこと(突き詰めれば自分を否定したくないこと)や、教団の中の集団心理の影響を受けるなどして、麻原のおかしい部分より、多少なりともまともに見える部分だけを見るようにして、自分を(無理に)納得させていたのである。
 その結果として、私は、自分の中に、実際の麻原では無く、私の理想と致命的には矛盾しない麻原の虚像を作っていたと思う。
 これは、程度の差はあっても、他の弟子にもあったと思う。その弟子の中には、今でも、事件は陰謀であると考え、麻原も事件への関与を否定していると思い込んでいる者達がいる。
 彼らは陰謀論を純粋に信じているというより、陰謀論を信じない限りは、麻原への帰依を続けられないために、陰謀論を主張した麻原のみを見ているのだと思う。実際には、麻原は、裁判では、不規則発言ながらも、一連の事件への関与をある程度認める証言をした部分があるにもかかわらずにである。

●参加することを決めた際に考えたこと

 麻原の言葉を聞いた私は、「麻原は、失敗・敗北する可能性、その中には、戦闘行為の中で死亡する可能性も含め、もう覚悟を決めている」とも解釈したと思う。麻原の様子から、彼の決意は、命がけであり、非常に固く、自分達が覆すことはできないと考えたのである。
 このやりとりが終わった後、自室に戻った私は、「もし麻原の計画が失敗して、理想社会ができるどころか、(宗教的な)真理が根絶やしになったならば、その大きな悪業・罪を何生かけても償おう」と繰り返し考えた。これは、非常に切迫した思いだったように記憶している。
 そして、この選択の時に私が心配したことは、94・95年のサリン事件で正に現実になった。ヴァジラヤーナ計画が行き着いたところは、多くの被害者であり、理想社会などではなく、日本社会に、宗教に対する不信は拡大し、自分たちの教団は破綻した。その上、世紀末にはハルマゲドンは起こらず、かつては絶対的とされた教祖自身が、今や精神異常の様相を呈している。
 今思えば、これは全て自業自得である。麻原だけの責任ではなく、信者が麻原の考えを受け入れる過程で、自分達の欲望や未熟や弱さに気づかずに、自分達と自分達の教祖は正しいと思い込み、進んでいった結果だと思う。
 今でも、このヴァジラヤーナに参加する選択をせざるを得なかった時の非常に切迫した思いを思い出す。当時の自分の精神的な力では、ヴァジラヤーナを否定・拒絶し、麻原を同じように説得し、駄目ならば、麻原と戦う選択は、到底出来なかった。
 だから、「あの時こうしていれば」と考えたことはないが、「あの時の自分に、今現在の自分の(経験に基づく)智恵や力があれば」とは思うことが人生の中であるとしたら、その一つは、確実に、この時に他ならない。
 これだけ書いても、一般の方には、私たち信者が、なぜこういった狂気の行動に入っていたかはわからない部分があると思うので、以下に、補足したいと思う。

(5)ヴァジラヤーナ活動に参加してしまった原因の反省

●なぜ弟子はヴァジラヤーナを受け入れたのか

 なぜ、弟子達が、大量破壊兵器を用い、日本社会を広く破壊する可能性がある麻原の預言成就の計画に参加したかというと、それには、複雑な複数の原因・要因・背景がある。
 それは、人によって、時期によって、多少は違うと思うが、絶えず存在した基本的な理解とは、①教団は(大量破壊兵器を含めた)軍事力を形成・行使して、ハルマゲドン的な大災害を起こしたりするが、②その結果として、真理の社会・国家が出来、多くの人が修行をして、生きている間も来世も、今の社会よりもずっと幸福になるし、③その中で死亡する者は、その後の転生が良くなり、いまのままより幸福になる、ということだったと思う。
 ③について、なぜ殺された人の転生が良くなるのかというと、麻原の指示の結果として、生命が失われた場合は、①それまでの間違った生き方を続け、悪業を積み続けることがなくなり、その分だけ来世の転生が良くなること、②麻原=真理との縁が生じ、来世で麻原・真理に巡り会うなどして、修行者となり、幸福になること、③麻原の霊力で、そうではない場合よりも、高い世界に転生させてもらえること(=ポアされる)などいった論理であり、もっぱら教団の教義・信仰に基づいた理由である。

●輪廻転生とカルマの法則を絶対視する仏教原理主義的な思想

 こうした麻原の教義を信じた信者達は、それ以前に、麻原の仏教的な教義の解釈をそのまま正当な教えだと妄信していた。具体的に言えば、インドの輪廻転生思想に基づいて、人は死んでも来世があると信じていた。
 そして、欲望・煩悩を静める真理の修行をせず、様々な欲望の追求が中心の現代社会の一般の生き方をすれば、ほとんどの人が、多くの悪業を積み、来世は地獄などの低い世界で酷く苦しまなければならず、そうした人の生命を奪うことは、長く生きてより多くの悪業を積むことを避けることになり、来世が良くなるという論理が成立したのである。
 こうして、この論理の土台には、輪廻転生とカルマの法則の絶対視がある。しかし、いかに神秘体験をしたとしても、輪廻転生とカルマの法則があるという完全な客観的な証拠ではなく、客観的に言えば、あるかも知れないし、無いかも知れないものである。
 しかしながら、教団では、最初から仏教・ヨーガの思想が好きな者が集まり、その中で、自分達の神秘体験を過大視すると共に、それを皆が信じる集団心理が加わり、付き合う外部者についても、同じ仏教・密教の海外の高僧・修行者に限られるといった特殊な環境のために、輪廻転生とカルマの法則が絶対視されていったのである。
 ただし、この考えは、麻原の教えではなくても、仏教・ヨーガの説く輪廻転生やカルマの法則の教えを信じれば(絶対視すれば)、死んでも来世があるとして、生命の価値が相対化され面はあり、さらには、修行をしないと多くの人は低い世界で苦しむと説く宗派は少なくない。キリスト教でも、キリストを信じなければ、(最後の審判などで)地獄に落ちると信じるが、それともさほど変わらないと思う。
 そして、オウム真理教では、現代人の99.9パーセントは低い世界(地獄・動物・餓鬼の三悪趣)に生まれ変わると主張したが、極端な面はあるが、これが、オウム独自の教義とは言い難い。その意味で、オウム真理教は、仏教原理主義的な宗教だと言うことが出来る。
  そして、この思想に基づいて、この救済で苦しみを負うのは、生命を奪われる側ではなく、生命を奪うという悪業を積む麻原や教団であるという論理さえ出てくる。そうしなければ、長く地獄に苦しむことになる衆生のためには、自分が苦しんでも、あえてその悪業を背負い、いわば衆生の罪(カルマ)を背負うべきだと主張された。
 これは、外部社会から見れば、全く善悪が倒錯した世界観であるが、逆に言えば、善であると位置づけられなければ、信者であろうと、国家であろうと、正当化できないのが、戦争という大量殺戮の行為であるとも思う。

●ヴァジラヤーナの教えの本来の趣旨の理解・正しい解釈がなかったこと

 麻原が持ち出した密教のヴァジラヤーナ(金剛乗)の教えとは、正しく解釈すれば、本来は、犯罪を肯定する教えではなく、逆に、非常に平和主義的な教えだと思う。しかし、このことを当時の私達は理解していなかった。
 まず、ヴァジラヤーナは仏教の中の密教の教えに属し、チベット密教の一部では、仏教の中の最高峰の教えとされる。ヴァジラヤーナの教えは膨大であり、その名前の由来は、ヴァジラという言葉が、金剛とか、非常に堅いといった意味を持ち、その教えによる悟りの境地が、非常にクリアーで堅固であるために、その教えの名前となったという。
 そして、この教えの中に、前に述べたように、「五仏の教え」というものがある。仏教が一般的に説く戒律、には、殺さない、盗まない、不倫しない、嘘をつかないといったものがある。しかし、ヴァジラヤーナの五仏の教えは、ある条件の下では、その戒律に従わなくてよいとする教えである。具体的には、例えば、多くの人を虐殺しようとしている人がいて、それを止めるために他に手段が無ければ、その人を殺してもよい(殺した方がよい)というものだ。
 今時点での私の解釈では、この教えが生まれた背景は、仏教が無条件に、殺人を禁じれば、仏教を信じる者は、侵略行為に対する防衛戦争も、他に止める手段が無い場合の警察官による凶悪犯の射殺も、また、市民の正当防衛の権利もないという問題が生じ、仏教は、現実社会と大きく矛盾する非現実的な教えとなるということがあると思う。
 逆に言えば、現代社会におけるヴァジラヤーナの教えの意味の正しい解釈とは、仏教教義に基づいて、日本のような法治国家が、防衛戦争や死刑執行を行ったり、その法規が認める範疇の正当防衛を行う場合に、それに宗教的にも正当性を裏付けることだと思う。
 それらは、殺人ではあっても、合法的な犯罪とはされない行為だから、そのように、ヴァジラヤーナの教えの趣旨を解釈すれば、それは犯罪を正当化するものとはならない。
 そして、その意味で、ヴァジラヤーナの教えを利用して、殺人を行った麻原は、その自業自得して、同じヴァジラヤーナの教えの論理によって、自分に対する死刑執行が正当化されることになるだろう。
 ただし、教えが、殺して良い場合の条件として説く、①その者を殺さなければ、本当に未来に殺人などの大きな悪をなすのか、②殺す以外には、本当に他の手段は無いのか、という基準は極めて厳しいものだ。
 麻原などが、最終解脱者と自称し、勝手に一般人を悪業を多き存在と判断し、サリンを撒いて殺すこと(=私的な独善的な裁き)は、到底正当化されないが、死刑囚に対しても、死刑以外の手段では、死刑囚が未来に大きな悪をなすのか(すなわち、終身刑では不足なのか)が問われる。
 この意味で、「五仏の教え」は正しく解釈する限り、死刑制度を持つ現代日本社会さえも越えるほどに、極めて反殺人的な思想であって、殺人に厳しく制限を課す思想と解釈されるべきだと思う。

●何がオウムのヴァジラヤーナの間違いだったのか

 では、オウムのヴァジラヤーナの教えの過ちの中核は何だったか?それは、①本当に未来に大きな悪をなすのか、②殺す以外には手段は無いのか、という判断について、全てを麻原一人に委ねたことだった。
 だから、最大の問題は、麻原を最終解脱者、絶対神のシヴァ大神の化身として(ほとんど)絶対視し、他者のカルマと未来を正確に理解する神に通じる力(神通力)を持つと盲信したことだった。
 そして、最終解脱を前提として、グルには、計り知れない考えがあるから、グルの行なうことに疑問があっても、それに引っかからずに、無思考にグルに従うことが、修行と救済を進めることであるという教義を盲信したことだった。
 そして、一旦これを受け入れると、麻原に殺される人の幸福のためには、自分が殺すのは嫌だと思うのは、無智な自分のエゴであり、その無智・エゴを乗り越え、殺害して救済するべきであるという考え方が生まれる。更に言えば、麻原の指示があれば、殺さないことが、悪業だという考えさえ生じかねず、殺害に向かって、信者を呪縛することになる。
 しかし、今の時点で総括するならば、無心の帰依と言っても、こういった帰依は決して無心ではない。自分の修行を進めるために、グルに帰依する中で、第三者の生命を奪うのであるから、気づかないうちに、自分の修行のためには、第三者の生命・自由の価値を無視・軽視しているに他ならないからだ。自己中私的な考え方に気づいていないに他ならない。
 よって、私は、これを麻原の呪縛と考えるのではなく、最初に麻原を盲信した自分の心理による自縄自縛であると考えるべきだと思う。教祖は、自分を信じるように信者に説いたが、信者は強制されたのではなく、自分の意志で信じたのだから、信じたことが正しい判断だったのかについての責任は、最後まで自分で負わなければならないと思う。

●信者が麻原がポアができると妄信したこと

 そして、これに関連して、麻原が自分は「ポア」ができると主張したことを信者が妄信したことも重要な原因となった。ポアとは、それは、殺した人間の魂に働きかけて、本来は下の世界に墜ちるのに、麻原の霊力によって、高い世界に転生させることができるという主張である。
 これも弟子が、殺人を犯す上での抵抗感を奪った。しかし、これについても、客観的・科学的には、何の証拠も無い。弟子がそのように妄信したに過ぎない。
 これに関して、ある時、少なからぬ弟子が麻原がポアできると信じた出来事があった。信徒の親族が何かの理由で危篤状態に陥ったのだ。その際、富士山の本部にいた麻原は、ポアをすると宣言した。そして、麻原が今ポアをしたとし、信徒と共に病院に駆けつけていた弟子達に連絡を取ると、ちょうどその前後、医師が現れて、臨終を告げたのである。
 麻原の電話と医師の報告が時間的にかなり近かったため、その周辺にいた弟子達は、「本当にポアだ」と思ったという。その興奮は本部でも起こっていた。こういった話しが、他には多少あったと思う。例えば、危篤状態の信者が、麻原の働きかけの結果、奇跡的に(と信者が思う状況で)意識を取り戻し、その後死亡したなど。
 しかし、客観的に見れば、これは麻原と信者の思い込みの可能性が高い。麻原がポアしたと思ったことと医師の臨終の確認の時刻が本当に同じ頃だったかを検証する必要があるが、その前に、仮に同じ頃だったとしても、単なる偶然の一致の可能性があるし、譲って考えても、麻原が臨終を直感的に知っただけかもしれないからだ。
 しかし、麻原を信じたい、そういった神秘的な世界を信じたいと思っている弟子は、自分達が信じる方向とは逆の方向のことは考えない傾向があるのだ。その積み重ねが、大きな問題に発展していった。
 こうして、弟子達は、ヴァジラヤーナ活動を正当化する上で、①輪廻転生とカルマの法則の実在を絶対視し、②麻原が他者のカルマ・来世を正確に理解できる(最終解脱者だ)と盲信し、③麻原が死者をポアすることが出来ると盲信したのである。
 なお、チベット密教で説かれる「ポア」とは、主に、死期に至った修行者が、瞑想の力で、自分自身を高い世界に転生させることである。ポアの瞑想と呼ばれる。
 また、チベット密教には、ポアとして、他者を殺害して良い者とは、殺害したとしても、意のままに生き返らせることが出来ることができ、他の人たちに殺害した者が高い世界に転生したことを見せることが出来る者に限られるという教えもあるという。生き返らせることが出来る能力などを持つ者はいないから、この教えは、ポアとして殺害することを事実上堅く禁じる教えであろう。

●予言の教えが、ヴァジラヤーナを支えた

 また、ヴァジラヤーナを背景として支えたものが、麻原の予言の教義だった。それは何故かというと、先ず第一に、麻原は、神の予言とは、神や神の化身による未来の予測ではなく、神の意志・計画であって、神に帰依する人間に、その実現を命じているという意味を持つと説いた。そして、信者が、麻原を神の化身と認める限り、その神の予言に基づくヴァジラヤーナ計画とは、神の意思であるという至高の正当性を持つことになった。
 しかし、それだけではない。その予言の中には、信者が弾圧されるという要素が非常に強く出ている。すなわち、麻原のヴァジラヤーナ計画は、客観的な視点からは、一方的なテロ行為となるが、麻原の予言を盲信する信者から見るならば、それは、攻撃されて滅ぼされようとしている者の反撃計画とも解釈された面があるのだ。これは、客観的に見れば、自分達が予言された神の集団であるという誇大妄想と同時に、自分達が予言通りに弾圧されるという被害妄想を生じさせている状態である。
 実際に、サリン事件の前までには、麻原は、「戦いか破滅か」というタイトルの信者用のビデオ番組を作らせて、教団はアメリカなどに毒ガス攻撃で密かに弾圧されており、戦わなければ滅ぼされると主張している。さらに、95年前後になると、弟子達に、「戦いは既に始まっている」として、あたかも教団が既に密かに国家権力と交戦状態にあると言う現実認識を示している。
 また、麻原は、教団では無く、フリーメーソンが、ハルマゲドンを起こそうとしていると説法したこともある。この説法があるがために、信者は、教団が起こさなくても、フリーメーソンがハルマゲドンを起こすのであり、教団とその真理がフリーメーソンのハルマゲドンで滅びないようにするためには、教団がハルマゲドンを起こすしか無いのでは無いかと解釈した人間もいる。
 こうした結果、多くの信者が、弾圧されている、だから戦わなければならないという被害妄想に陥って、ヴァジラヤーナの活動を正当化したと思う。その中には、林郁夫のように、出家前は、優秀な医師であり、地下鉄サリン事件に関与したが、その後、自首と反省を認められ、死刑を免除された人間もいる。彼の総括本を見れば、彼が、逮捕されて、麻原への帰依を失って、自首する前には、国家権力の毒ガス攻撃を信じて、反社会的な教団活動に没入していたことがわかる。

●麻原の原理主義的な宗教教義の解釈を妄信した原因

 こうして、オウムの宗教教義の解釈においては、ヨーガ・仏教のインド思想の輪廻転生の絶対視と、キリスト教の終末思想・最後の審判という、類似する効果を持った二つの原理主義的な教義解釈を合体させたのが特徴であって、それによる相乗効果があったと思う。
 普通の時代でさえ、修行しなければ、来世で苦しむのに、それに輪をかけて、現代は、預言された終末の時代で、修行して行き残り、高い世界に行く者と、修行せずにハルマゲドンで滅び地獄に行く者とに、真っ二つに分かれるという論理になるからでる。
 そして、仏教・ヨーガの輪廻転生思想や、キリスト教の終末思想など、オウム以外にもある宗教的な思想を真剣に信じるタイプの人には、信仰・修行をしない現代人のほとんどは、地獄の落ちるから、何とか救済しなければならないというオウムの教義は、それほど奇異なものとはならない可能性がある。
 こうなった原因としては、オウム信者は、仏教・ヨーガ・密教・キリスト教や、その指導者に関する広く深いバランスの取れた知識がなく、麻原以外の指導者から学んだことがない(入信すると、そうしないように言われる)という問題があったと思う。
 オウム・アレフを脱会する過程で、広く研究してみれば、信じた教義には、単純に間違った解釈や片寄った極端な解釈が随所に見られた。その事例としては、例えば、前にも述べたように、釈迦牟尼が輪廻転生を強調・絶対視していなかったと思われることや、ヴァジラヤーナの教義の正しい解釈などとして述べたとおりである。また、密教の教義では、その修行を始めるに必要な準備や資質があるが、それを無視して、はじめてしまった(始めるように勧められた)面があったと思う。
 今思えば、私は、オウム真理教以外の宗教を知らず、麻原以外に霊的指導者(グル)とされる人を知らなかった。多少ヨーガの指導者に会ったり、本を読んだりしたことはあるが。その人たちは、ある意味で、現世的、世俗的な人で、麻原が掲げるような超越的な世界、すなわち、解脱とか、人類の全体の救済といったことは説いていなかった。
 そして、麻原は、いわゆる霊能者タイプで、確かにいわゆる一定の霊能力・超能力的なものがあり、私は、麻原の修行で、従来経験したことがない霊的な体験をしたし、時には、驚くほどに、麻原は他人の精神状態やエネルギー状態を(自分に写し取ったかのように)言い当てることがあった。
 しかし、麻原の霊能力が完璧かというと、全くそうではなかった。選挙の落選が見抜けなかった(と本人が信者に語った)ように全く完璧ではなかった。特に近い弟子は、麻原が、時には相当な取り違いをし、霊能力を発揮できない時もしばしば経験している。ましてや全知全能だと思っていた者はいないだろう。
 ただし、麻原から遠い弟子達は、麻原の霊的な力に関する教団の書籍の宣伝ばかりを読んでいたので、麻原が絶対だというイメージを抱いていたかもしれない。また、麻原の失敗も、麻原の弟子に対する精神的な試練(マハームドラー)として肯定的に解釈してしまって、自分で勝手に神格化してしまうこともあったと思う。
 こうして近い弟子と遠い弟子で差があるにせよ、弟子達から見て、麻原に、一定の霊的な力があったことは確かで、そういったタイプの人をよく知らなかった当時の私達には、麻原は普通の人間ではなく、どこかで神々に通じた特別な存在であるという印象を形成していた。
 私に関して言えば、この問題は、オウム・アレフから脱却する中で、様々な人と会ったり、聖地・自然を巡る中で、麻原以外にも、同様の霊能力がある人たちと出会ったり、麻原の元での修行以上の神聖な霊的な体験をして、解消していった。しかし、そうするまでは、私の中で、延々と続いていった問題だった。
 加えて、80年代の当時の日本では、中沢新一氏などがチベット密教の修行法を本で紹介してはいたが、チベット密教でいう「グル」を求めたいと思う人には、そういったタイプの教祖は、日本では、麻原以外には余りいなかった。中沢新一氏も、95年の事件発覚後の雑誌記事で、グルを求めた人たちが行くところとして、オウムしかなかったという面を嘆いている(中沢新一責任編集『オウム真理教の深層』青土社)。
 私の場合も、麻原以外にグルはいなかったし、麻原以外が説く、仏教・密教の教えはよくは知らなかった。出家した後、麻原とともに海外の高僧・グルと会った。しかし、彼らは皆、外国人であり、言葉は通じず、壁があり、麻原の代わりにはならなかった。
 さらに、前に述べたように、海外の高僧の称賛の言葉を鵜呑みしたことも問題だった。その根底には、自分のグルの麻原を肯定したい気持ちがあったと思う。そのために、高僧が時折なした忠告・警告の類は、軽視したのだと思う。その意味で、高僧の神秘力へのウブな尊敬・好意というのも、根本的な理由ではなく、その奥には、自己を肯定した気持ちがあったのだろう。
 私たちが脱会したアレフでは、今でも、チベットの麻原・オウムの否定は表向きであり、本当は麻原・オウムを支持していると信じて込んでいる人たちもいる。それは、根本的には、自分の信じてきたものを信じ続けたいからだろう。
 一方、私の場合は、教団の破綻後に、高僧がそれを予期できなかったこと、破綻後に麻原の評価を一転させたことを見て、麻原に加え、高僧への見方も大きく変わった。人は誰しも不完全で、高僧(の神秘力)にも過剰に依存できないと考えるようになった。

●ハルマゲドン予言を含めた陰謀論:闇の権力による弾圧とハルマゲドン

 そして、麻原のハルマゲドン予言は、前に述べたように、闇の巨大権力を前提としたものであり、これが、ヴァジラヤーナを正当化した一面がある。
 すなわち、「教団が武装化しなければ、教団が滅ぼされるままになる」とか、「教団が武装化し、予言を自作自演しなくても、ハルマゲドンは起こる」とか、「いずれにせよ、ハルマゲドンが起こるのだから、何もせずに受け身でいるべきではなく、自分たちがヴァジラヤーナ活動を行なって(闇の権力に対して)主導権を取って、自分たちの教団・真理を残すようにすべきだ」という考えも出てくる。
 例えば、一番弟子の石井久子も、私が教団がサリン事件を行ったと伝えた時に、「予言を信じるしかないですね」と私に語っていた。
 早川も、95年に逮捕された後に、99年に麻原が予言したとおりに、ハルマゲドンが起こらなかったことが決め手となって、麻原への帰依を捨てたと言うから、逆に言えば、それまでは、教団とは無関係に、ハルマゲドンが起こると信じていたのだ。
 また、サリン事件の実行犯の一人である林泰男は、麻原から、ヴァジラヤーナの活動を行う理由として、ハルマゲドンの際に教団を守らなければならないと聞いたという。
 私自身も、半信半疑だったものの、ノストラダムスの大予言の社会的なブームに影響を受けるなどし、出家の動機も、前に述べたとおり、第三次世界大戦の防止だったから、終末予言には深く影響を受けていた。
 ただし、95年に麻原が逮捕された後に、教団の自作自演計画が崩壊したことと、その時点での世界情勢(冷戦の終結など)から、もうハルマゲドンは起きないだろうという考えに傾いた。そして、弁護士を通して、麻原に、どうなのかを質問したことがある(それに対する答えはなかった)。
 ところが、私も逮捕された後に、麻原は、獄中メッセージの形で、再び予言を説き始め、それを見た私は、改めて予言を信じなければならないと考えた。そして、97年や99年を迎えて、予言が成就しないことを知ると、その後は、後に述べる理由から、それ以上は予言を信じることがなくなったと言う過程をたどっていった。
 こうして、一般には、麻原・オウムが、ハルマゲドン予言の自作自演のために教団武装化し、サリン事件に至ったいう見方ばかりが報道されているが、客観的に見れば、妄想的ではあっても、教団の中には、教団だけではなく、闇の権力が、ハルマゲドンを自作自演すると考えていた面が少なからずあったと思う。

●麻原自身も予言の弾圧を信じていたと思われること

 そして、私が知る限りでは、麻原自身が、予言とその中の弾圧を深く信じていたと思う。例えば、彼が主張した闇の権力による毒ガス攻撃の被害も、本当にそう感じていたのではないかと思う。客観的に見れば被害妄想である。
 だから、麻原の主観的な認識の中では、本当に国家権力・フリーメーソンが自分と教団をじわじわと毒ガスで病死に追い込もうとする中で、反撃のサリン事件を起こした認識だったのではないかと思う。彼は、教団の終焉に向けて、加速度的に生来の被害妄想的な人格を深めていたったのだ。
 そして、その麻原の影響を弟子達の大半が受けていったと思う。もちろん、信者によって、毒ガス攻撃をどのくらい信じていたかは違う。ただ、中には、例えば毒ガス攻撃について言えば、ロシアにいて、日本の教団が主張する「毒ガス攻撃」の体験がない私のような者や、日本でも林泰男のように、被害妄想だと思い、自衛措置など取らなかったと証言している人もいる。
 それはともかく、ヴァジラヤーナ活動を行なっている人の中には、自分達の過激な行動を正当化するために、気づかないうちに、攻撃されていると思い込んでいった面があるかもしれない。林郁夫の総括本の内容などを読むとそういった印象も受けるのだが。
 こうした結果、ヴァジラヤーナを行なう信者の間では、「教団が何もしなければ、世紀末は全く平和で良い世界なのに、教団が、その独自の救済思想のために、わざわざ多くの生命を奪う大災厄を引き起こす」と考えている人は、多くはなかったと思う。
 さらに、ヴァジラヤーナ活動を知らない信者の中には、坂本弁護士事件などが実際には教団の関与とは知らないために、教団による情報操作の結果、本当に社会は悪魔のように教団を弾圧すると思いこんでいた人もいるだろう。
 そして、そういった過激な反国家権力的な主張をすぐに受け入れる人が少なくなかった背景としては、そもそもが陰謀論がフィットする人、好きな人が、麻原の予言の本などを読み、当時の教団には多く入会してきたことが原因と思われる。

●麻原のカリスマの裏の精神病理

 先ほど述べたが、今の私は、麻原自身が、一定の霊的な能力と共に、被害妄想や誇大妄想の人格障害を抱えていて、本当に陰謀論を信じ、突っ込んでしまい、その結果として、今の精神病的な精神状態に至ったという見方を強めている。
 すなわち、マスメディアが報道した麻原のイメージは、悪魔のような心を持った人間で、インチキ教義と薬物で、悪魔のように信者を騙し、悪魔のように一般人を殺害した、という感じだと思う。
 しかし、実際のことろは、麻原は、カリスマ性はあったが、同時に(おそらく幼少の時から)誇大妄想と被害妄想の精神病理的な傾向があって、ヨーガの修行で霊性を高めたと主張していたが、それが逆に誇大妄想・被害妄想を悪化・加速させた面があって、自分としては、このままでは本当に滅ぼされる(殺される)と思って、社会と戦ったと認識しているのではないかと思う。
 これは、麻原の側にいた私が、どうしても感じてしまうことで、それだけ麻原は、悪い意味で真剣・深刻な精神状態で常に生きていた人間だったと感じる。軽薄な人物であれば、あのようなことは出来ないと思う。
 この見解は、麻原のハルマゲドン教義を分析した立花隆氏の結論でもあった(週刊文春に掲載)。氏は、「麻原は、信者を意図的に騙すためにハルマゲドン予言を吹聴したのではなく、自らの予言解釈を本当に真剣に信じた狂気があった」としている。

●多く信者は入信以前から、ハルマゲドン予言を信じていた事実

 こうした事情を考えれば、信者が、安易にハルマゲドン予言を信じたことが、問題の始まりだった。ただし、その原因を考えていくと、誤解を恐れずに言うならば、大半の信者がハルマゲドン予言を信じたのは、実は入会以前のことだった事実に突き当たらざるを得ない。すなわち、それは麻原の影響による者では必ずしもないのである。
 私自身も、入会する前から、社会現象となった五島勉氏の『ノストラダムスの大予言』という本を読み、同じテーマのテレビ番組を見ていた。そして、ハルマゲドンや世界戦争をモチーフにしたアニメも社会現象となった。
 私は、宇宙戦艦ヤマトが好きだったが、麻原も同様で、そのパロディを教団活動に取り入れた。ヤマトの中で放射能爆弾で滅亡の危機に瀕する地球のように、毒ガス攻撃で滅亡の危機に瀕する教団を救う空気の浄化装置は、コスモクリーナーと呼ばれ、「進めオウムよ、ヤマトのように」という歌も作られた。
 また、ヤマトの後も、機動戦士ガンダム、エヴァゲリオンなどが社会現象となり、いずれも世界大戦、主人公が超能力か特殊能力を発揮する内容だった。そして、サリン事件の1995年に開始されたエヴァンゲリオンに至っては、(大半の人類が滅びる)人類補完計画や、その計画に関与する秘密結社の存在など、麻原の予言教義や、ヴァジラヤーナ活動の思想と、様々な意味で非常に酷似していた。
 1990年代に入ると、奇しくも米ソ冷戦は解消されたのに、その後も、1999年の話やコンピュータの2000年問題など、20世紀末にかけて、終末思想は勢いを増していったように思う。
 こうして、20世紀末という時代は、大破局の到来に関する書籍・テレビ番組・アニメが当時の社会には充満しており、我々が、その影響を深く受けていたことは事実だと思う。そのため、私のような信者には、麻原が、世界大戦・ハルマゲドンを防ぐと主張していたことが大きな魅力であり、それが全てを捨てて出家の動機となった。
 また、私よりも少し後に入会して、麻原の予言の本を読んだ信者には、ハルマゲドンは回避できないが、オウムに入れば、それから救われる可能性があるというのが、また別の魅力となった可能性があると思う。
 こうして、信者たちが、世紀末にハルマゲドンがあるのではないかと考えるようになったのは、麻原の影響だけではなく、むしろ様々なメディアの情報を含む当時の社会環境によることろが、事実として大きいと思う。

●なぜ、当時の社会で、終末預言がブームになったのか

 なぜ、当時の社会で、終末預言がブームになったのか。その一つの原因は、多くのマスメディアが、商業的・経済的利益から、受けるネタであるハルマゲドンを煽ったというこのがあるだろう。しかし、視聴者・消費者側に、関心・共鳴がなければ、煽ってもブームにはならない。
 私が思うには、先ず第一に、聖書に人類の悪業・堕落の結果として、ハルマゲドンが預言されていることからして、若者を中心として、現代社会のあり方が、何か本質的に大きな問題、道徳的な罪を抱えたものに映ったのではないかと思う。それによって、ハルマゲドンに現実味を感じたのではないか。
 第二に、ハルマゲドンを舞台として、突然にヒーローになるアニメの若い主人公のように、平凡で空しい現実の自分に突破口を与えるものとして、ないしは自分を急上昇させてくれるものとして、ハルマゲドンの期待感があったのではないかと思う。
 これに関連して、オウム信者の多くが、「救済したい」と考えていたのに、なぜこんなことになったのかという疑問を解く鍵があると思う。すなわち、「人を救いたい、救済したい」という心の奥底に、「自分が救済をしたい、救済の中心となる自分になりたい」という欲望が、隠れていたのではないか。
 そして、私たちの世代が好んだアニメでは、ハルマゲドンの世界を背景として、「若者が、突如ヒーローになって悪との戦いに勝つ」といったイメージのものが沢山あった。救済という名の下に、妄想的なプライド・権力の願望が背景にあったのだろう。 
 こうした、当時の私たちに潜んでいた「悪と戦う正義の救済者のイメージ」が、麻原・オウムの世界、特に預言の教義とシンクロした。麻原の教義は、彼一人の独善的な世界ではなくて、当時の若者の潜在意識を投影したと解釈できると思う。
 しかし、今思うに、これは妄想的であることは間違いない。発達心理学上では、これは、現実社会の中で、自分の存在意義を満たすのではなく、いわゆる「青い鳥」を求め、妄想の理想世界に入ってしまう問題(青い鳥症候群)とされている。オウムは、正にそれだったのかもしれない。

●麻原の予言能力に関して

 また、麻原を信奉する教団では、「麻原の予言能力は非常に高い」と認識されていたのも問題だった。今から思うと、冷静に見れば、麻原には、一定の霊能力があっても、特に予言については、能力があったとは言えない。
 麻原の予言は、ハルマゲドンより前に起こるとして予言されたものも、①日米摩擦とか円高とか、合理的な未来予測でもいわれていた範疇のものか、②当たっていないのに、当たったとこじつけたものが多い。
 ②の事例としては、ハルマゲドンへのステップとして予言された「93年から日本が再軍備をする」という予言は、客観的には全く当たっていないが、それを93年に制定されたPKO法のことだと解釈するなどした。①のような予言は、私も真似してみたので分かるが、ある程度の情報分析と直感力があれば、できないことではない。2000年代のアレフの教団の機関誌には、私の予言の的中が宣伝されていた。
 しかし、それでも信者が麻原の予言能力を評価したのは、麻原への帰依を重視し、麻原の称賛一辺倒の教団の集団心理がある。それに加え、ハルマゲドン予言を信じた背景には、そもそもが、そういった世界観が好んだ深層心理があると思う。
 この意味で、ハルマゲドン予言の問題は、麻原だけに責任はなく、私たち信者全体の意識、ひいてはそれを作り出したもの全体に原因があった現象だったと思う。

●信者が自分勝手に、麻原を理想化して妄信を続けたこと

 弟子の中には、ヴァジラヤーナ活動が、「本気ではなく、麻原に帰依できるかを試される、一種の弟子の精神的な訓練である」という考え方が一部にはあったと思う。というのは、教団では、「弟子の悟りの修行のために、麻原が、意図的に、大きな困難を越えて弟子が麻原に帰依するための試練を与える」という教えがあり、これを「マハームドラー」と呼んだ。
 なお、この言葉の本家であるチベット密教カギュー派では、「マハームドラー」とは、本来はそういう意味の言葉ではなく、瞑想を含む、高度な修行体系のことだ。しかし、1000年近く昔の話しではあるが、カギュー派の発祥に関わる伝説の聖者の物語において、「弟子が大きな困難を越えてグルに帰依することを試される」という物語があり、そのために教団では、グルの与える試練自体を「マハームドラー」と呼ぶようになった。
 話を元に戻すと、ヴァジラヤーナ活動が、麻原の本気ではなく、マハームドラーではないかという弟子の解釈は、宗教教義において一定の根拠のある話しである。例えば、旧約聖書の中には、「アブラハムが神に指示されて、自分の子供のイサクを殺そうとするが、実際に殺す寸前に、アブラハムが神を信じていることを確認した神は、アブラハムを止め、イサクは殺されなかった」という話がある。
 また、カギュー派の物語において、ティローパというグルが、ナローパという弟子に、「真の弟子なら、この高い塔から飛び降りるだろう」と言う場面があり、ナローパは、実際に飛び降りて瀕死の重傷を負うが、その直後にティローパの神通力によって、あっという間に癒される、という話がある。
 こうして、宗教には、信者がその帰依を試されるときに、場合によっては、自分や他人の命にまでそれが及ぶ話があって、当時の教団信者、特に高弟の心境も、これに通じるものがあったと思う。
 そして、こう考えると、「麻原の非合法的な活動への指示に従うことは嫌だけれど、それは自分のエゴであって、神に通じている麻原への神聖な帰依の実践として、与えられる試練から逃げず、全ては麻原と神に委ねなければならない」という心境になってしまう。いったんそういった世界観に没入すると、悪いことをすることが、神聖なことだと錯覚してしまうのだ。
 そして、客観的に見れば勝算のない選挙に出たことや、選挙の敗北を陰謀だとしたことも、合理的には納得いかなくても、「麻原のマハームドラーである」と解釈する弟子がいた。「麻原は、選挙で勝てないことや、選挙の敗北は陰謀ではないとわかっていたが、麻原に帰依する試練を与えたのだ」という見方である。
 しかし、実際には、これは、弟子の方が、麻原に帰依するために(帰依したいがために)、何の根拠もなく、麻原の行動を勝手に解釈したものだった。弟子達には、麻原に帰依したいという思いがあるが、麻原の非合法活動の指示や被害妄想的な主張は受け入れがたい場合がある。そこで、非合法的でもなく、被害妄想でもない「理想の麻原」を信者が勝手に作ってしまうものだったのである。
 弟子達の中には、ヴァジラヤーナ活動に手を染めつつも、実際には、大被害は起こらないで欲しいと思う心理があったと思う。特に、麻原は、考えがよく変わるし、実際に、93年までは被害は発生しなかったことや、村井秀夫ら科学班のスタッフが空想的な性格で、失敗を繰り返すばかりであったことなどから、実害が出ないマハームドラーではないのかという見方が生じたことがあったと思う。
 そして、こういった信者の妄想的な期待は、特に94年以降、サリンなどによって、多くの被害者が実際に出始める中で、空しく外れていった。

●根本原因は、自己特別視の欲求と依存心

 こうして、私達が、ヴァジラヤーナ活動に参加していた原因をまとめてみたが、こうした誤った教義を受け入れた根本原因としては、自分が、優れた存在、特別な存在でありたいという欲求があると思う。
 その欲求は、解脱者・救済者になりたいとか、麻原が認める弟子になりたいとか、自分が巡りあったグル・教団が正しいと信じたいという自己愛として現れる。特に、閉鎖的な教団の世界の中では、その絶対権力者である麻原に認められることを最優先する意識が強く働いたと思う。
 なお、こうした心の働きは、それが現実的な目標に向かい、良き指導者を得た場合は、健全な向上心になって、社会の役に立つことがあると思う。しかし、私達信者の場合は、誇大妄想的な目標に向けられ、それと同時に、それを実現する手段としては、麻原に対する極度な依存以外にはないという落とし穴にはまってしまったのだと思う。

(6)1990年:第一期の大量破壊兵器の製造:ボツリヌス菌・塩素ガス

●ボツリヌス菌の製造実験

 選挙後の90年の3月頃から、教団をあげてヴァジラヤーナの活動を本格化させることになった。実際には、選挙前の89年12月頃には、上九一色村に、その活動の土地を購入しているので、麻原はは選挙前からヴァジラヤーナ活動を念頭に置いていたと思う。
 3月頃から始まったのは、ボツリヌス菌の製造と散布の実験である。ボツリヌス菌は、生物兵器の中で、最強ともいわれる猛毒で、これを教団内で製造し、散布する実験をしたのである。計画は、麻原を筆頭に、技術者は村井、遠藤誠一、中川など。しかし、製造現場の作業員は、女性の高弟も含まれていた。
 私自身は、計画の概要は麻原から聞いていたが、製造や散布の実験自体には直接はタッチせず、菌の製造の詳細は分からない。知っていたことは、上九一色村の施設に培養タンクがあったこと、ネズミで動物実験していたこと、そして、有毒な菌は製造できなかったことである。
 なぜ有毒なものができなかったかは、当時は全くわからなかった。しかし、一つだけ推察できることは、ボツリヌス菌ではなく、1993年に行なった炭疽菌の製造に関して、分かったことがある。それがボツリヌス菌にも当てはまるのではないかと思うのである。
 まず、この当時の遠藤を中心とした製造チームは、炭疽菌の場合と同じように、軍事用の有毒なボツリヌス菌は手に入らず、それを無毒化したワクチン株を入手して、何らかの方法で、それを有毒化しようとしたと推測される(確かなことは、遠藤に確認してみないとはわからないが)。しかし、それが有毒化できなかったのである。
 なお、教団が、炭疽菌の製造において、家畜用に無毒化されたワクチン株を使ったことは、後に米国の研究家によって確認されて、報道された。その時までは、ワクチン株という言葉・名前さえ知らなかった。その結果、米国の研究家は、その製造実験をある種のシミュレーションと推察したという。
 なお、この際に、遠藤らの下で作業した人達が、危険性について、どのくらい理解していたかは分からない。しかし、何か危険物を作っており、防護措置をとって作業に従事していたという話しくらいは聞いていたと思う。

●自分が担当した散布のシミュレーション

 一方、私が担当したのは、散布のシミュレーションだった。もし製造できた場合に、どう散布するかの検討である。とはいっても、地図を広げ、候補地をあげ、地図上にプロットして、そのごく一部に信者が下見に行くだけだった。しかし、これは、後で述べる石垣島セミナーや波野村の騒動のことで立ち消えになった。
 他に、私が指示されたことは、風船爆弾の製作を監督することだった。実際に作業するのは、何の知識もない私ではなく、ある幹部信者だったが、この風船爆弾とは、第二次世界大戦で、日本が米国に対して使ったもので、風船につるされた爆弾が、気流に乗って遠くに運ばれ、地表に落ちて爆発するものだ。この爆弾の替わりにボツリヌス菌を乗せて運ぼうという考えだ。
 なお、これを発想したのは、少なくとも私自身ではないが、麻原本人だったかは、記憶が定かでない。しかし、第二次世界大戦でも、風船爆弾は、ほとんど効果を上げなかった失敗作であり、当初から幼稚な発想だったので、麻原がどのくらい本気だったかは、よく分からない。
 しかも、実際に行なったことは、近所の原っぱで、特殊なビニールで作った大きな風船にガスを入れて数百メートル上昇させたことと、もう一つは、数千メーターの上空の超低温でも作動する特殊な電池とタイマーの実験だった。実験した風船は、木にひっかかったり、ロープが切れてはるか彼方に飛んでいったりした。こうした実験を何回か行ったところで、風船爆弾の計画自体が、非現実的・非効率的なため、立ち消えとなった。
 こういった指示もあるので、弟子が麻原の本気を疑い、マハームドラーではと思うことがあったが、今思うと、やはり本人は本気だったのではないかと思う部分が強い。

●石垣島のセミナーは待避行動だった

 この時期に、私の最も大きな仕事は、石垣島セミナーと呼ばれた大規模なセミナーだった。このセミナーの趣旨は、教団が、ボツリヌス菌の製造と散布を前提にして、それに信徒や出家者を巻き込まないように、沖縄県の石垣島に退避させることだった。
 一方、ほとんどの信者には、このセミナーは、麻原の預言として、オースチン彗星が地球に接近して、ハルマゲドンが起こる可能性がある、ということを理由として行なわれた。
これは、麻原が指示したボツリヌス菌の散布の期日が、ちょうどオースチン彗星の接近と同じ時期なので、オースチン彗星を使って計画をカモフラージュしようとなったのだ。
 なお、私の記憶では、このセミナーによる退避計画は、私が提案して、麻原の合意を得たものだった。私の気持ちとしては、ボツリヌス菌の製造は関与していないので分からないが、そういった計画がある以上、万が一にも信者に危害がおよばないようにという気持ちだった。
 このような趣旨で、石垣島セミナーは行われたが、実際には、その時までに、とうていボツリヌス菌は製造されることはなく、セミナーは、退避行動としては、全くの空振りとなった。しかし、在家会員は、ハルマゲドンの可能性があると言われて、セミナーに参加するように強く勧誘されたために、大勢の者が参加した。
 そして、セミナーの中では、実際のハルマゲドンは起こらなかったのに、ハルマゲドンの話しをベースに、直ちに出家するように強い勧誘がなされ、実際に、多くの者が、かなり無理な形で、出家をしたのである。

●あまりにも性急だった麻原の製造の指示

 なお、3月から始め、4月中旬までのわずか二ヶ月弱で、ボツリヌス菌を製造するということは、通常の軍事兵器の開発ではあり得ないことだろう。特に、無毒のワクチン株を使ったことや、大学院で生物学を専攻した者はいても、生物兵器の真の専門家は皆無であることを考えれば、そもそも成功するのは、不可能だったと思う。
 ところが、麻原の指示で、こうした非現実的な目標が設定され、弟子達も、グルへの帰依と考えて、それを疑問視せずに、その時やれる作業を進めたのである。仮に、弟子の中に、真の専門家がいれば、計画自体がなかったろうが、麻原も弟子も含め、皆が素人であり、初めての試みであるが故の計画だったのではとも思う。
 その後も、常識から見れば、あまりに性急な期日設定の計画が麻原によって度々指示された。そのたびに失敗する。しかし、実際の兵器の製造としては非現実的に思われるために、麻原の指示が宗教的な訓練(マハームドラー)ではないかという弟子の解釈や、それに基づく気の緩み・感覚の麻痺が形成されたいったように思う。
 石垣島セミナー後も、ボツリヌス菌の製造実験は続いた。引き続き、私は製造自体には関与しておらず、具体的に何が行われたのかの詳細は分からない。その一方で、教団では、ハルマゲドンに備えたシェルターとして、特殊なビニールで気密性を持たせた施設を作っていたが、これは自らの生物兵器の開発成功とその使用を前提としたものだったと思う。

●熊本県波野村の土地を取得した理由:兵器の研究・開発のため

 5月になると、教団は熊本県波野村に土地を取得した。私自身は、この土地取得の件は直接知らなかったが、麻原から、その目的の一つは、ヴァジラヤーナ活動の施設を作ることだと麻原から聞いた。そのために、土地取得を極めて性急に行い、必要とされる国土法の届け出を出さず、後に国土法違反で摘発される結果を招いた。
 野村では、教団の土地取得が大きな反発を呼んだ。信者の住民票は受理されず、国土法や森林法違反で告発され、地元住民との衝突・トラブルが続発した。そのため、ヴァジラヤーナの施設建設の話しは立ち消えとなって、その代わりに、石垣島セミナー後に出家した多くの信者が生活する場所となった。

●散布実験中の思わぬ検挙:いったん活動を停止へ

 さて、6月中旬になると、本部のヴァジラヤーナ活動に関連して、一つの重大な事件が起こった。村井や新実が、製造した(おそらく無毒の)ボツリヌス菌の入った液体を川に放流し、効果を実験していたところ、警察(おそらくは山梨県警)に発見され、検挙されたのである。
 警察は、ボツリヌス菌だとは知らないので、汚物を勝手に放流しているという軽犯罪容疑で検挙したのだと思われるが、警察が放流していた液体を押収した後は、信者は解放され、教団に戻った。
 その後、摘発を恐れて、ボツリヌス菌の製造実験は全面中止となり、全ての施設が解体された。ただし、押収されたボツリヌス菌は毒性はなく、ある意味で雑菌であることと、当時の県警は、まさか生物兵器を製造しているとは夢に思ってなかっただろうから、実際に摘発されることはなかった。

●塩素系の毒ガスの製造実験

 こうしてボツリヌス菌の製造実験は終わったが、数ヶ月前を明けて、初秋の頃からだったと思うが、ホスゲンや塩素ガスなどの毒ガスの製造計画が始まり、その全体の進行管理の一部を私は担当した。これは生物兵器では無く、化学兵器であり、後のVXガスやサリンと同じ毒ガスである。
 製造の具体的な部分は、村井や渡部らの科学班が担当したが、場所は、上九一色ではなく、富士山総本部の第一サティアンと呼ばれるビルの一階の倉庫や、その前の敷地が中心だった。技術面がよく分からず、記憶が曖昧だが、準備段階的な実験が行なわれたものの、具体的な結果が出たことはなかったと思う。


(7)国土法違反事件と実験の中止

●国土法違反事件で、製造実験は当面中止へ

 そして、10月にかけて、製造装置を作成しようとしたが、その時期にちょうど波野村の土地取得に関する国土法違反事件で、教団施設に対する全国一斉の強制捜査が行われ、その結果、全ての製造装置を解体し、実験は一切中止となった。
 この国土法違反事件で、教団は、全てのヴァジラヤーナ関係の施設・設備の解体に追い込まれ、石井久子など多くの高弟・幹部が逮捕され、人・物・金の全ての面で、大きな打撃を受けることになり、その結果として、しばらく間、ヴァジラヤーナ活動は休止状態となった。ヴァジラヤーナ活動の再開は1992年の末ごろとなる。
 その後は、青山弁護士も逮捕され、私が変わって法律部門を担当し、弁護士を探したり、石井ら逮捕された幹部を保釈するための資料作りに奔走した。石井らは年末までに保釈されたが、教団は大きな打撃を受け、麻原の指示で、私は、その裁判闘争に従事することになった。
 しかし、教団の国土法違反は明白で、教団の行った裁判闘争は、教団を有利にするための偽証や偽造といった違法行為を含んでいた。私は裁判で証言はしなかったが、証言した信者の偽証に関する共謀などで、95年に共に逮捕されることになる。

●国土法違反事件の裁判闘争の開始:1991年

 1991年は、国土法違反事件の初公判が行われた。国土法違反事件とは、国土法において、土地を売買する時は、事前にその届け出を出す義務があるところ、それを怠ったという事件である。
 本来は、交通違反のように軽微な事件で、罰則も非常に軽いのだが、本件は、教団が熊本県波野村に進出したことに対する地元の強い反発に関係しており、早期から大々的に報道されるなどして、大問題となり、最終的には、全国一斉の強制捜査や幹部信者の逮捕といった大事件の様相を呈した。
 教団は本来は届け出を出せば済んだのだが、ヴァジラヤーナ活動を早急に進めたいとする麻原の指示があり、真実は土地の売買なのに、届け出が不要な土地の贈与と偽って、取得した。取得に関わったのは、早川や青山らだった。
 正確には、土地に関係する債務を教団が引き受けるという負担付贈与なので、全く無償で贈与を受けたと主張したわけではないが、真実は負担付贈与ではなく、売買であり、裏金が渡されていた。この裏の事実が、90年の8月末頃までに、警察の捜査を受けた地主が自白して発覚したのである。
 軽微な違反が大事件となったのは、教団と波野村の激しい対立が背景だが、波野村は信者の住民票を不受理にするなど、信者の人権を侵害する事例が少なくなく、麻原の指示で、青山が私と共に対応した。青山は、毎週のように熊本に行き、人権侵害の事例を告訴し、記者会見を行い、私も外報部長として、同席した。
 実は、この時期、青山は、麻原から、「マハームドラー」の成就のために、「たった一人になっても真理を守りなさい」という課題を与えられていた。そして、麻原は、教団進出に反発する波野村・熊本県に対して、当初から非常に闘争的な対応をし、青山や私から見ると、問題を激化させているようにも映った。
 ただし、波野村が、住民票の不受理などを含め、非常に激しかったことも事実で、一般信者には、麻原が主張するように、村や県が教団を弾圧している、宗教弾圧と映る状況があったと思う。
 実際に、住民票の不受理に対して、教団は訴訟を行い、波野村が高額の解決金を支払うことで和解した。そして、一般の有識者や人権運動家には、教団側を擁護する人たちも少なくなかった。その中には、後に教団が大変なご迷惑をかけることになる宗教学者の島田裕巳氏らもいた。しかし、彼らは、教団の裏側に、ヴァジラヤーナ活動があり、その一環として波野村の土地を取得したなどは、当然知ることはなかった。
 私は、裏金の存在が発覚する8月末までは、この件には一切関与しておらず、関与し始めたのは、主に摘発された後から裁判が始まった時である。私は、麻原の指示のもとで、教団側が無罪を勝ち取れるように、逮捕・起訴された信者と話し合うと共に、その中で偽証や偽造の違法行為を犯すに至った。
 偽証等をしてまで無罪判決を得ようとしたのは、麻原の指示であると共に、教団は、波野村・熊本県との摩擦を宗教弾圧と主張しており、国土法事件で教団側の罪を認めれば、教団の主張の正当性が揺らぐためだった。
 裁判は1991年に始まり、サリン事件が発生した95年まで続いていたが、その際に、別件の強制捜査で押収された資料から、この偽証・偽造が発覚したため、裁判で偽証した信者と私は逮捕され、起訴された。
 国土法事件の強制捜査・逮捕のために、教団は、ヴァジラヤーナ活動の休止を余儀なくされ、裁判に対応しつつ、しばらく、通常の布教活動であるマハーヤーナの活動を行うことになった。例えば、「死と転生」という音楽・舞踏イベントや、説法祭などを行い、1991年半ば頃からは、多くの書籍を出版したり、幸福科学の批判や、『朝まで生テレビ』に出演するなどの広報活動を行い、インドの巡礼ツアーを行なった。
 また、私は、麻原の突然の指示があって、10月頃から、地中で5日間を飲食無く過ごす「アンダーグラウンド・サマディ」の準備修行に入った。11月にそれを無事に終えると、その後は、麻原に指示され、「シャクティーパット」と呼ばれる宗教的な儀式を信徒に行い始めた。これは、1992年の末まで約1年間も続き、その期間は、ヴァジラヤーナ活動には関与しなかった。

(8)1993年:第二期の大量破壊兵器の製造実験:炭疽菌製造

●1992年の出来事:ロシア活動の始まりとシャクティパット

 私がシャクティパットに専念している間、1992年の1月に、教団が松本市に賃借した土地について、建物の建設禁止を命じる仮処分が、長野地裁松本支部で決定し、これが後の松本サリン事件の遠因となるという出来事があった。
 そして1992年は教団のロシア活動が開始される。創価学会の池田氏のモスクワ大学での講演を手配したと言う日本人に勧められ、同様に麻原の大学講演が計画されたのが発端だが、その結果として、ロシア政界の有力な人脈と繋がり、エリツィン大統領との面会の話しにまで拡大した。
 結果として、3月に、教団は在家信者を含めたロシアツアーを行い、大統領との面会こそ実現しなかったものの、副大統領や最高会議議長(国会議長)などの政府要人との面会が実現し、クレムリンホールで「死と転生」の講演も行った。また、同じ人脈を使って、国営テレビ放送やラジオ番組の時間枠を買い取って、教団の宗教番組が放映されることとなり、6月には、ロシア支部を開設するに至った。
 なお、この年は、ロシアを含め、ラオス・スリランカ・ザイールなどの発展途上国に行った。その主な目的は、日本では、それまでに色々と批判されているために、海外の政府要人や有力な宗教家に会って、麻原と教団に箔を付けることだった。当然、面会の機会を得る条件として、多額の献金を約束した。
 そして、1993年には、私は、シャクティーパットを終えて、教団では、石井久子、松本知子(現在松本明香里)に次いで、3番目の「大乗のヨーガの成就者」として認められた。

●再び抵抗感を持って、大量破壊兵器の製造実験へ

 こうした中で、その1月に、ヴァジラヤーナ活動を本格的に再開する話し合いが、麻原と弟子達の間で行なわれた。
 ところが、この時に、麻原は、個人的にではあるが、私がヴァジラヤーナ活動に、ためらいを持っている、嫌がっているという主旨のことを言い、私を批判をした。私自身は、麻原の指示していることに対して、何か明確に反対した訳では無いので、そのように批判されるまでの理由はないとも感じた。
 しかし、麻原の話しに対して、麻原の回りに集まって、身を乗り出して、食い入るように聞き入っていた他の弟子達に比べると、確かに、私は、それほど熱心にはなれずに、微妙に話し合いの輪の中心から外れていたので、これを感じ取った麻原が、私を批判したのだろうと思う(ないしは今は記憶していない何かあったかもしれないが)。
 また、この前には、私の「大乗のヨーガ」の成就を祝う式典が行なわれたが、その際の麻原の講話の中には、私に一部批判的な内容があり、講話の主旨も、私にヴァジラヤーナの活動(「大乗の逆の道」と表現された)の積極的な実践を促すものだった。
 さて、なぜ自分が他の弟子と温度差があったかは、よく記憶していないが、その当時でさえ、良く自覚していないのかもしれない。抽象的な記憶としては、熱心に見える他の弟子を見ながら、自分の自尊心が満たされないのを感じていたことである。
 そもそも、教団の中では、ヴァジラヤーナは、最も高度な修行であり、限られた者だけが実践が許される秘密活動であるから、その担当者として麻原に選ばれて、その秘密会議に参加できると言うことは、信者にとっては、大変な名誉と解釈される。このことは、サリン事件の実行犯に選ばれた林郁夫も、著作の中で書いている通りだ。
 そして、それまでにヴァジラヤーナ活動の経験が無い者にとっては、フィクションの世界の出来事のように、刺激的なその活動内容が、他の修行より遥かに強い関心を惹き付けるのも、ある意味で当然だった。
 一方、私自身は、前に述べたように、当初から、ヴァジラヤーナ活動には、その現実性に疑問を持っていた。言い替えれば、現実性を考えずに、ともかく全力を尽くせば良いものだとは思えなかった。もう少し詳しく言えば、単に突っ込めば良いなら=熱心にやれば良いなら、自分が活かされないと感じていたと思う。
 ただし、前にも述べたとおり、教団では、グルが指示することは、おかしいとか、抵抗感を感じるものでも、それを自分のエゴのためだと考え、無思考にグルに従うことが、修行を飛躍的に進めるという教義がある。だから、突っ込もうとする弟子の方が多いのは必然であり、それが弟子が、自尊心を満たすパターンでもある。ところが、自分は、その普通のパターンから外れている一面があったのだと思う。
 しかし、それ以前の段階で、ヴァジラヤーナ活動を受けれた以上は、麻原に、その実行をためらっていると批判され、その通りだとすれば、それもまた自己矛盾であって嫌なわけで、微妙に複雑な心理を抱えながら、私は93年のヴァジラヤーナ活動に参加していくことになった。

●ロシアに関するヴァジラヤーナ活動

 さて、この時期に再開されたヴァジラヤーナ活動の内容は、一面的ではなく、様々な武器・兵器の開発計画が含まれていた。その一つは、自分は直接担当せず、話を聞いていた程度がだが、小銃の製造であった。裁判資料によれば、この93年の2月には、教団関係者が、ロシアに行って、自動小銃を持ち帰ったとある。これは、まだ私がロシアに赴任する前のことで、当時の自分は知らず、後で知った。
 また、私のロシア赴任後では、ロシア国軍の許可を得て、短銃やライフルなどの射撃訓練ツァーを行った。なお、教団やオウム報道では、射撃訓練と呼ぶが、ロシア国軍側の認識は、日本の一般人を受け入れた射撃体験ツァーであり、いわゆる遊びの範疇だったと思う。

●炭疽菌の製造とその失敗の理由

 そして、この年の前半で、最大のヴァジラヤーナ活動は、炭疽菌の製造・噴霧実験であった。そして、私は、主に菌の製造の部分のまとめ役・進行管理を担当した。私の管理の下で、遠藤誠一が、技術者として、炭疽菌の培養による製造を担当した。一方で、村井が噴霧器の製造と噴霧の実行を担当した。麻原は、主に村井と共に、噴霧器の製造に関心を持っていた。
 なお、噴霧器とは、培養された菌を含んだ液体について、それを超高圧ポンプで微細な霧状に噴霧するというものである。一時期は、市販の超高圧ポンプの購入・使用も検討され、私が購入の検討を担当したが、それは取りやめとなって、村井らの自主製作に委ねることにした。
 炭疽菌の培養は、教団の亀戸施設で行われた。しかしながら、ボツリヌス菌の際と同様に、結果として、有毒なものはできなかった。その理由は何か。
 まず、遠藤は、有毒な炭疽菌が手に入らないために、家畜用の無毒化されたワクチン株というものを入手して、それを彼の遺伝子工学の技術によって再び有毒化しようとした。遠藤によれば、無毒化されたワクチン株と、本来の有毒な菌は形が違うので、遺伝子工学の技術によって、無毒のワクチン株を有毒な菌と同じ形にすることで(戻すことで)、同じように有毒になるということだった。
 しかし、数年前に、このオウムの炭疽菌の製造に関して、米国政府に関係するテロ防止の調査研究チームが調査を行なった際に、その調査に私も協力した経緯があるが、その中で、米国の生物兵器の専門家は、遠藤は生物兵器の真の専門家ではなく、彼のやり方では有毒化は出来ないと語っていた。
 確かに、遠藤は生物学や遺伝子工学を専攻し、大学院博士過程に在籍したが、それだけであって、生物兵器の専門家ではなかった。よって、彼が言う同じ形にすれば有毒化するというのは間違っていたのかもしれないし、実際には、同じ形にさえならなかったのかもしれない。
 なお、その当時は、村井と主に超高圧ポンプの製造に当たった広瀬健一などが、噴霧器の超高圧が、菌を破壊したと推察したが、そうではないと思う。その根拠としては、先ほど述べたように、①米国の専門家の研究結果でも、そもそも有毒な菌が製造できなかったという結論であること、②この後に超高圧ポンプでは無く、高速回転する円盤による噴霧を試みたが、やはり結果は出なかったからである。

●製造噴霧実験の経緯

 しかしながら、私を含め、当時の製造作業の現場にいた者達は、(麻原が遠藤に主張した通り、ワクチン株から)有毒なものができる可能性を考慮し、万が一のために、体内に入った菌を殺すための抗生物質を服用し、防護マスクや防護服を身につけて、大変緊張しながら作業していた。
 そして、この亀戸での炭疽菌の製造と噴霧の実験は、二回にわたって行なわれた。ところが、その中で相当の異臭が施設近辺で発生したので、後に、亀戸異臭騒動と呼ばれることになった。ただし、異臭が発生したのは、炭疽菌のせいではなく、同時に発生した雑菌が放つ異臭が原因である。

●車載型の炭疽菌の噴霧実験

 また、この時期には、麻原が皇室をターゲットにし始めた時でもあった。麻原は、(科学的には有毒な炭疽菌は出来ないにも関わらず)その当時話題となっていた皇太子結婚の儀パレードに対して、炭疽菌を噴霧せよと指示したたので、私達は、噴霧のための拠点を捜した(結果としては構想だけに終わる)。
 また、皇居を含めた都内中心部に、10トントラックから(実際には無毒の)炭疽菌を噴霧する実験も行なった。その際には、超高圧ポンプでは無く、高速回転する円盤を使った噴霧装置を自動車に掲載して噴霧した。しかし、いずれにせよ何の被害も出なかった。
 そして、こうした失敗の連続という結果のために、当初は緊張感が高かった弟子達も、慣れも合わさって、徐々に緊張感が薄れていった(=有毒ではないだろうと思うようになった)と思う。

(9)サリンの製造へ

●サリン製造を決めた会議

 この年の8月頃には、裁判資料によれば、化学を大学院で専攻していた土谷正美が、フラスコ内で少量のサリンの生成に成功したとされている。私は、この経緯は知らず、麻原と土谷から、その結果だけを聞いた。
 そして、教団では、成果のない炭疽菌などの生物兵器ではなく、サリンの製造をするべきだという話し合いがもたれた。私も参加したその話し合いの中では、サリン製造のプラントは、その頃に建設工事が完了した「第7サティアン」と呼ばれる建物に作ることや、70トンのサリンを製造する構想が出た。
 なお、後にサリン製造の場として知られることになる「第七サティアン」とは、それまでは、実は、私が主に管理していた建物で、そこでは、超大型の発電機の製造を試みており、私も素人ながら、それに参加していた。
 発電機は、炭疽菌にもサリンにも関係がないが、動力の供給源として、将来の様々な兵器の開発に必要だからという理由だったと思う。記憶が定かではないが、レーザー砲を開発するためにも必要だという話しもあったと思う。
 サリンが、私の管理する第七サティアンで製造されるということになったので、私は、その際にサリンの大量製造の担当者となった幹部信者から、プラントの構想や製造工程に関する構想について、かなり詳しく聞いて話し合った。

●ロシア行きを命じられたことと、その理由の推察

 しかし、その直後に、私は、麻原から、ロシアのモスクワにおける布教活動をするように指示されたので、ロシアに赴任することになった。そのため、私は、その後にサリン製造が具体化・本格化した後のことは良く知らず、また、サリン事件やVXといた殺人事件にも、全く関与することがなかった。さもなければ、私も、他の男性の高弟と同じように、死刑にあたる重罪を犯していた可能性があると思う。
 そのため、巷でも、なぜ麻原が私をロシアに行かせたのかに関心を持つ人が多いが、それは、私にも残念ながら分からず、麻原本人のみが知ることだ。まず、私が、ロシアに行くように言われた時に、麻原から聞いた理由は、単純にロシアでの布教は大きな可能性があり、それに比べれば、日本でのヴァジラヤーナ活動は遊びのようなものだという主旨の話を聞いた。
 しかし、私に限らず、高弟達は、ヴァジラヤーナ活動が教団の最も重要な活動だと考えていたので、納得のいく話しではなかった。麻原の説明も上手く、左遷とは思わなかったが、教団の中心的な活動から外れるという印象は確かにあった。そのため、私は、若干の抵抗を示したが、結果として、それは最初だけで、麻原の説明を聞くうちに、ロシアの活動に価値も感じたので、比較的に直ぐに行く気持ちを固めたように思う。
 そこで推察される理由は二つほどあって、一つは、預言に基づく温存説である。麻原の回りの高弟が、私がロシアに赴任した際に、麻原から聞いたことであり、また、私自身も、赴任した後しばらくして聞いたことであるが、麻原の神通力に基づいたノストラダムスの預言の解釈によれば、私は、翌年の1994年に日本にいると身に災いが及ぶので、日本にいない方がいいということだった。
 後で調べると、確かに、麻原が、あるノストラダムスの預言詩について、私に伝えたような解釈をした痕跡があった。94番という番号がついたある預言詩だが、麻原の解釈に基づく翻訳文には、高弟が倒されるといった主旨の表現があった。
 当時の麻原から見れば、94年以降が、ヴァジラヤーナ活動が本格化し、危険な年になることは分かっていた可能性がある。そもそも、武器・兵器が手に入れば、それを使用するかは、麻原が決めるのだから。そして、これが正しければ、私を何らかの理由で、危険から守り、温存する意図があったということになるが、何のためかを含めて、これ以上のことは、やはり本人以外は分からないだろう。
 第二は、巷で良く強調される左遷説であり、それは、麻原に異論を呈したり、ヴァジラヤーナ活動に消極的な面がある私が、ますますヴァジラヤーナ活動に突っ込んでいきたいと考えていた麻原にとっては、面倒な存在になっており、そのために、ロシアに移動させたというものである。
 ロシアには、私を含めたマハームドラーの成就者以上の地位にある最高幹部の高弟が4名、他にも高弟が派遣されたのだが、その後に、麻原が説法で、自分の指示が現場に直接届くようになり、風通しが良くなったという主旨のことを語っている。これは左遷説を裏付ける話しだ。
 どちらかはともかくとして、このロシア赴任は、運命を分けた出来事だったことは間違いがない。

(10)1994年、ロシア滞在中の出来事

●94年の日本におけるヴァジラヤーナ活動

 裁判等の資料によると、1994年は、①麻原一行がオーストラリアに旅行してウランの発掘調査、②10月には清流精舎で麻原が、教団が毒ガス攻撃を受けていると説法、③11月中旬にサリンの試作に成功、④秋頃はマイクロ波兵器、レーザー兵器開発を検討、④11月・12月には創価学会の池田大作氏に対してサリン暗殺未遂事件、⑤第3サティアンに硝酸プラントを作る作業があったなどとされている。しかし、これらはいずれも、自分が、ロシアにいた時のことなので、実体験はない。
 ただし、ロシアに行く前に、私自身が、科学技術省を出入りし、様々な武器の研究開発に関する構想を知った。その中には、炭疽菌等の生物兵器や、サリンなどの化学兵器だけでなく、自動小銃とその火薬の製造、巡航ミサイル用のジェットエンジン、大容量の発電機(レーザー兵器の原動力のため)、核兵器の製造構想に基づくウラン原料の入手の検討、超兵器として、新たな推進機関の飛行物体(いわゆる円盤)、レーザー兵器、プラズマ兵器などがあった。
 しかし、炭疽菌やサリン以外は、私がロシアに行く前には、構想だけだったり、空想に近いものであった。

●ロシアでのヴァジラヤーナ活動

 さて、1994年は全般的にロシアに滞在した。この期間のヴァジラヤーナ活動に関して私が知っていることは、私自身も参加したロシア国軍の射撃訓練ツアーである。複数回行われ、あわせて数十名の男性信者が参加した。
 ただし、ロシア国軍から見ると、これは、ヴァジラヤーナ活動でも、秘密違法活動でもなくて、上層部の正式な許可の元で、日本の一般人を受け入れたイベントで、その内容も、射撃訓練というよりは、一般人による射撃の体験イベントだった。
 他には、ヴァジラヤーナ活動でヘリコプターを使用するために、早川がロシアに来て、ロシア製のヘリコプターの購入を図っていることや、ヘリコプターの操縦訓練をする信者達が、ロシアに派遣されていることを知った。
 なお、裁判資料によれば、麻原のの指示で、村井らが、ロシアの軍の施設や大学、研究所等を訪れ、銃やロケット等の説明を受け、自動小銃を1丁入手したり、渡部が、ロシアで弾丸の製造法等を調査し、窒化炉の設計を始めたとされているが、これらは自分自身は関知していない。

●覚醒剤のイニシエーション

 最後に、1994年は、二度ほど、日本に一週間ないし数日帰国した。その時に、後に薬物イニシエーションと言われるものを受けた。
 私は、それを提供する側ではなく、受ける側であったことと、覚醒剤の類はそれまで経験がなかったために、その中に何が入っているのかをすぐに理解はできなかったが、何か特殊な成分が含まれているのだろうとは思った。
 しかし、それよりも、その際の神秘体験が、非常にインパクトがあって、他の弟子たちと同様に、私の麻原への妄信を深めるものとなった。

●毒ガス攻撃の主張

 93年から95年までにかけて、麻原と信者達に、多大な影響を与えたものが、「米軍等による教団に対する毒ガス等の攻撃」という疑惑だった。一般の方は、毒ガス攻撃などは、教団側の嘘に他ならないと切って捨てられると思う。
 しかし、私のように、他の信者にも麻原・オウムからの脱却を勧めてきた者からすると、実際の事情は、想像以上に複雑で、選挙落選の陰謀論と並び、教団信者が社会を敵対視する大きな原因の一つであり、脱会の大きな障害でもあった。
 まず、当時は、聞くところによると、富士宮・上九一色の多くの信者が、体調不良、健康被害を経験していた。私は、ロシアにいたので、その日本での実体験はないのだが、日本にいた多くの信者が、私に真剣にそう語る以上、その体験をしたこと自体は、事実だと言わざるを得ない。
 信者の中には、裁判で証言した林泰雄のように、麻原の毒ガスの話を被害妄想と断じ、自分自身は、他の人が窓を塞ぐなどの防護策を取る中で、そのようなことはしなかったが、何の悪影響も感じなかったという人もいるが、全体としては、相当数の人が体調不良を訴えており、さもなければ、麻原が毒ガス攻撃やQ熱リケッチャ菌が撒かれていると主張しても、あれほどの信者は共鳴しなかったと思う。
 一方、一般の方が疑いやすいこととして、教団幹部が、秘密裏に教団信者に毒物を撒いたのではという疑惑も、多くの幹部信者が、さまざまな事件を自供する中で、それを示す証言がない。麻原自身が、毒ガス被害の難を逃れるためとして、あちこちに外出=避難しており、さらに、自分の妻子も、教団施設外に一時的に避難させた。教団幹部が毒物を撒いたならば、麻原とその周辺にも撒いたことになり、それはどうかなと思う。

●真相は教団内の感染症か

 この問題について、私は、その時期に麻原の側にいた幹部信者と話した。彼は、麻原が毒ガス攻撃の主張をする時は、それを大げさに言っているように見えたので、プロパガンダとして使ったのではないかという意見だった。林泰男らの証言も合わせると、やはり、麻原が主張するような毒ガス攻撃があったとは思われない。
 特に、米軍の飛行機が教団の上空を飛び、毒ガスを撒いたという主張が大々的になされたが、それは明らかに成り立たないと思う。その根拠は、飛行機から時折何かが噴霧されているように見えたことだけで、実際に、教団のはるか上空を飛ぶ飛行機が毒ガスを撒けば、教団施設だけでなく、相当な広範囲に毒ガスが散布されるはずだ。
 しかし、その毒ガス散布を証明しようとして、教団周辺の住民を調査した信者によれば、住民には信者のような体調不良の事実を全く発見できず、体調不良が発見されたのは、教団施設のすぐそばの住民だけだった。
 また、サリン事件発覚前に、教団は、教団の近くの非信者の施設から教団に向かって毒ガスが散布されているという主張をし、告訴までした。しかし、それは、警察の捜査で、散布するような施設はないことが確認され、その告訴会見自体が名誉毀損として、逆に青山弁護士が逮捕される原因となった。
 すると、残る課題は、毒ガス攻撃は被害妄想だとしても、多くの信者の体調不良の原因は何かである。単なる被害妄想では、高熱まで出して寝込むことはないから、当時の教団施設やその周辺の衛生環境が何らかの原因で悪かったと推測される。
 その原因として、当時を体験した看護婦を含めた元信者らが指摘したのが、毒ガス攻撃対策として、コスモクリーナーと呼ばれる特殊な空気清浄機を設置したり、窓を閉め切ったような環境を形成したことである。それが逆に、各種の感染症などを増大させ、体調不良が多発したという見解がある。実際、そういった防護措置を取った後に、逆に体調が悪化したという元信者の証言もある。しかし、特殊な環境を形成したのは、それに先行する健康被害があった後ではないかという反論もあるだろうから、これで全てが説明できるかは、厳密には検証されていない。

●麻原は本気で毒ガス攻撃を主張していたのか

 最後に残る問題は、麻原は嘘をついていたのか、本当にそう思っていた=被害妄想だったかということだ。私は、昔は、プロパガンダなのかとも思っていたが、今現在は、その後の逮捕・勾留後の麻原の精神的な異常を考慮すると、麻原はやはり毒ガス攻撃を受けたとと信じていた=被害妄想だったと考えている。
 前にも書いたが、麻原が選挙の落選や毒ガス攻撃といった陰謀論を唱え、彼が予言された弾圧されるキリストだと主張するのは、信者を扇動する嘘ではなく、本当にそう信じ込んでいたと考える方が、様々な点で整合性がとれると感じるのである。
 麻原の世界の中では、自分を導く神によれば、麻原は悪しき社会に弾圧され、社会と戦い、最終的には勝利するキリストであり、そう語る自分の神を麻原は信じていたと思う。この神は、客観的には、麻原の内的な体験であり、それに麻原が帰依しているということであり、自分がキリストであるという誇大妄想と、自分が弾圧されているという被害妄想であるということになる。
 そして、心理学を研究してみると、非常に高いカリスマ性がある一方で、精神的には異常な人格であるタイプの人が存在し、その人は多くの虚言を吐くので、空想虚言症と言われる。ヒトラーなどもそうではないかと思う。そして、一部の宗教のリーダーもそうであるという説があると最近になって聞いた。今後は、この分野の研究が、宗教の問題を解決するには必要だと思う。

●麻原の被害妄想の原因:他人に自分の投影を見る

 麻原自身も被害妄想だったとしたら、その原因は何か。一つの解釈として、中沢新一氏が述べていることが、それは麻原自身が、社会に毒ガスを撒くという敵意を持っていたために、その意識が投影された幻想・妄想だったのではないかという説である。
 要するに、人は、自分が他人にすることを通して、他人を判断する者だから、他者への敵意が強い人は、他者も自分に敵意があると思いがちであり、嘘をつく人は、他人も自分を騙すのではないかと思いがちであるということだ。
 麻原は、教団では無く、フリーメーソンが、ハルマゲドンを起こそうとしていると説法したこともあると述べたが、これも、自分がハルマゲドンを起こそうとしているから、他者も、そうするのではないかと思うパターンの一つではないか。
 しかし、麻原の場合は、それだけではなく、自分を預言された救世主と信じる中で、その救世主は弾圧されると預言されているが故に、意識的にか、無意識的にかは分からないが、弾圧される存在であることを望んでいたのではないかとも思う。
 実際に、戦いとは、こちらが攻撃すれば、相手は当然反撃してくるから、それを弾圧と解釈することができるし、(裏事情を知らない)信者には、そう主張できる。このようにして、弾圧を誘導することが出来るなどと考えていた可能性もあると思う。
 かといって、私は、麻原が、自ら秘密裏に、教団に毒ガスを撒いて、それを毒ガス攻撃されていると主張したとまで言っているのでは無い。というのは、これまでの警察の捜査において、そういったことを麻原に命じられ、実行したことを告白したものはいない。実際に、林泰男などは、麻原の毒ガス攻撃の主張は、被害妄想だと思い、他の信者と違って、窓をふさぐなどの防護阻止は何もとらなかったが、実際に、何の被害も無かったという。

●予言を狂信していた麻原:サリン事件の真の動機

 これに関連して、ジャーナリストの立花隆氏が、外部の第三者の立場から、麻原の予言を総合的に研究した結果としても、麻原は本当に、予言を信じていたと結論している。
 立花氏の分析は、もし信者を騙すために、予言をしたならば、そのタイプの普通の教祖を見れば分かるが、ハルマゲドンが起きる時期が、(実際にはハルマゲドンは起きないから)だんだん後になる(遅れていく)。そして最後には自分の力で無くなったと言えばよい。しかし、麻原の場合は、ハルマゲドンの時期がだんだん早くなっていったから、こういった動機はないことが分かる。
 また、自分がなした予言が当たらないと信者の手前困るから、自分の手でハルマゲドンを起こそうというのでもない。その場合も、わざわざハルマゲドンの時期を早くする理由は無いからだ。時期を早くしたのは、やはり、本当にそうしたいと考えたからであって、それが、神の意思だと考えた可能性が高いのである。
 これを裏付ける新たな証言が、最近になって、NHKのオウム真理教事件に関する特別番組で明らかになった。それは、地下鉄サリン事件に関与した井上嘉浩の衝撃的な証言であるが、地下鉄サリン事件の動機は、これまでよく言われた、教団への強制捜査を回避するためのものではなく、予言の成就のためだったというものである。
 井上によれば、実際には、麻原や井上らは、サリンを撒いても強制捜査は止められないことが分かっていたという。具体的には、サリンを撒かなければ、予言の成就に関して、このまま何も出来ずに終わってしまう、ということだった。NHKが、これを狂気・狂信として報じたのは言うまでも無い。
 さらに、私が知るところでは、地下鉄サリン事件後に、毎日の強制捜査が連続する中で、麻原は、早川に、教団が武装化計画の中で密かに作成していた小銃の部品を教団施設の外に持ち出すことを命じていた。
 これは、早川でなくとも、普通に考えれば、分かることである。しかし、麻原の言葉、「11月に戦争」「そんなことで戦えるか」という言葉が示すとおり、麻原は、その段階でも、戦う意思を捨てていない。これを言い替えれば、あくまでも予言の成就に向かおうとしているのである。
 さらに、その時期に、彼は、私に、今は自分(麻原)は逮捕を避けるために身を隠して、表に出ることはできないが、「ノストラダムスによると、私が登場するのは1997年なんだよね」と語ったことがある。これらのこの言葉を文字通り受け取る限り、サリン事件による連続の強制捜査で教団が崩壊寸前の際も、麻原は、予言の成就を捨てていないのである。

●私の毒ガス攻撃?体験

 さて、最後に、私個人は、ロシアにいたので、日本の毒ガス攻撃は体験していないと言ったが、それは日本の毒ガス攻撃のことである。実は、私自身も、麻原の毒ガス攻撃の主張に一部共鳴することになった経験をロシアでしている。
 それは、ロシア・モスクワの道場で、ある日、急に息苦しくなり、めまいを覚えた体験である。これまでそういった体験は一切無かった。そして、調べてみると、毒ガスによる症状と矛盾していなかった。
 私は、信者の手伝いを頼んで、車で病院に行ったが、外気を吸う中で、病院に到着する頃までには、大分症状が回復した。医者には「回復してきたならばもう大丈夫だ」「本当の毒ガスだったら、今もう死んでいる」と言われ、治療は受けなかった。
 当時のロシア信者の中には、軍関係の大学に通っていた者もいたが、彼らが言うには、敵対する組織に対し、有毒ガスをスプレーすることは、ロシアではそれほど特別なことではなく、その材料も市中で比較的容易に手に入るということだった。
 彼らは、ロシアでのオウムが、外国人の宗教であり、ロシアの国粋主義者に、従前からいろいろな嫌がらせを受けていたこともあり、米軍などではなく、現地ロシアのアンチ勢力による行動ではないかと考えていたかもしれない。
 私自身は、その前から、日本での毒ガス攻撃の話をよく聞いており、麻原は、ロシアに来た時さえも、毒ガス攻撃があったと主張していた。よって、その体験の直後、麻原に報告すると、麻原は「やっぱりそうだろう」と言って、ついにロシアの教団にも攻撃が始まったという考えを示した。
 私も、そう言われると、今まで経験したことのない体調不良の直後だから、麻原の言うとおりかもしれないと思い、その後、教団施設内で、空気の清浄や感染症の対策のために、医師で出家した信者複数による医療班を形成し、対処することにした。この経験の原因は今でも不明だが、今までにない体験だったので、私自身が、一時的に、日本の教団の毒ガス攻撃の主張に、一部共鳴する原因となった。


(11)ロシア滞在中の教団の様々な犯罪行為

 私は、93年秋から95年のサリン事件直後まで、ロシアに滞在していたために、その期間に起こった様々な事件に関与せず、日本に帰国する前は、その話を聞くこともほとんど無かった。しかし、教団のヴァジラヤーナ活動を総括する意味で、裁判資料に基づき簡潔に説明しておきたいと思う。

●第7サティアンのサリンプラントの建設

 サリン70トン生産計画に基づいて、建設された。教団は、ダミー会社を通じ、原材料を購入する一方で、93年の11月には、土谷がサリンの生成に成功し、94年2月頃からプラント機器類の設計が本格的に始まり、同年6月頃には一通りの作業が終わった。同年の夏頃からプラントの稼働が始まったが、トラブルが相次ぎ、異臭騒ぎで周辺住民が抗議に押し掛けるという事態が7月に発生した。結局このプラントでは、サリンは製造できなかった。

●池田大作・創価学会名誉会長の襲撃事件

 麻原は、以前から池田氏を敵対視していたが,サリンで池田氏を暗殺するように、村井らに指示した。村井らは、1回目は同年11月中旬ごろ、乗用車に設置した農薬用噴霧器を使ってサリン溶液を噴霧し,2回目は同年12月中旬ごろ,独自に製作したサリン噴霧車を使用してサリン溶液を噴霧したが,いずれも池田氏に被害を与えるに至らなかった。
 しかし,2回目の際に、新實が、当初は防毒酸素マスクを着用していたが,警備員に不審を抱かれ逃走した際にマスクを外すしたため、サリンに被ばくし,ひん死の状態に至った。医療役として待機していた中川らは、新實にパム等を注射し、人工呼吸を施すなどの救急救命措置をとり、教団の附属医院に新實を搬送し、一命を取り留め、回復した。
 新實の症状を目の当たりにした麻原や村井らは、サリンが相当な殺傷能力を有し、防毒酸素マスクが有効であることを認識した。
 
●94年に起きた事件のまとめ

 次に、1994年に起こった事件やそれに関係する出来事について、裁判資料等をもとに列挙する。
1月30日  落田事件(殺人・死体損壊事件)
2月15日  サリン30キロ完成
2月22日~ 朱元璋ゆかりの地の中国旅行
2月26日  自動小銃1000丁 製造指示
2月27日  LSD1キロ製造指示
2月27日  サリンプラント建設を指示(殺人予備事件)
3月11日  仙台支部で毒ガス攻撃を受けていると説法
3月     出家信者、25時間ヘリコプター飛行操縦訓練 モスクワ
4月     軍事訓練 ロシア射撃ツアー(数次にわたる)
4月18日  サリンプラント建設工事の指示
5月 1日  LSDの合成に成功
5月~7月  「白い愛の戦士」訓練(岐阜 高根村)
5月 9日  滝本サリン事件(殺人未遂事件)
6月 1日  ミル17ヘリコプター 78万$(\9400万)購入 横浜港到着
6月26日  省庁制発足式
6月27日  松本サリン事件(殺人・殺人未遂事件)
7月     VX製造の指示
7月9日   第7サティアンから異臭(亜リン酸トリメチル噴出事故)
7月10日頃 冨田事件(殺人・死体損壊事件)
7月     覚醒剤のサンプル製造に成功
8月~10月 白い愛の戦士 訓練(和歌山 古座川町 廃校跡)
8月9日   波野村9億2千万円 で撤去和解
9月初旬   サリンプラント稼働
9月     VXの合成に成功
11月     チオペンタールナトリウム(麻酔薬)の合成に成功
12月 2日 水野VX事件(殺人未遂事件)
12月12日 濱口VX事件(殺人事件)
12月下旬  メスカリン(幻覚剤)製造

 次に、具体的な一つ一つの事件について、裁判資料――主に麻原への判決に基づいてまとめておく。

●落田事件(殺人・死体損壊)

 落田耕太郎氏は、オウム真理教附属医院で勤める出家信者だったが、94年1月22日頃、教団を脱退した。その後、落田氏は、かねてから親交があり同病院に入院・治療していたY・F氏を連れ出そうと決意し、同年1月、彼女の息子である元出家信者Y・H氏らを誘って、教団の第6サティアンに侵入したが発見され、取り押さえられた。2人は、催涙スプレー、サバイバルナイフ、火炎瓶等を持っていた。
 麻原は、事件より前に、Y・F氏のザンゲを受け、Y・F氏と落田氏の男女関係を知っていたため、落田氏の動機は男女関係であり、そのことを明かさずに、Y・H氏をだまして協力させたと考え、さらに、落田氏の手帳には、Y・H氏の父親を殺し財産を奪うという計画まで書かれていたと認識した。
 これらを勘案した麻原は、落田氏の悪業を止めるためには、殺害するしかないと判断し、その役割をY・H氏に命じ、その場に居合わせた、井上、中川、新實ら幹部が、落田氏の体を押さえつける中で、Y・H氏は、ロープを使って落田氏を絞殺した。その場に居合わせた松本知子も共謀したとして有罪判決を受けた。同日、落田氏の死体をマイクロ波焼却装置の中に入れて加熱焼却した。

●この時期の武装化、クーデター計画について

 麻原は、自己の前生は明の朱元璋と公言し,94年2月に数日間,教団信者ら約80名と共に中国に旅行し,朱元璋ゆかりの地を巡った。
 その旅の途中,同行信者に,タントラ・ヴァジラヤーナにおける五仏の法則について,「アクショーブヤの法則とは,例えば毎日悪業を積んでいる魂は長く生きれば生きるほど地獄で長く生きねばならず、その苦しみは大きくなるので,早くその命を絶つべきであるという教えである。アモーガシッディの法則とは,結果のために手段を選ばないという教えである。」などと体系的に説いた上,「1997年,私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない。」旨の説法をし,武力によって国家権力を打倒し日本にオウム国家を建設して自らがその王となる意図を明らかにした。
 麻原は、そのために,サリンプラント製造計画と自動小銃製造計画を軸とする教団の武装化を早める必要があると考え、平成6年2月27日ころ,都内のホテルで「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない。」などと言い,村井,早川,井上らの前で,サリンによる壊滅後,日本を立て直して支配するが,食糧事情等の調査も必要と話し、サリンプラントの設計担当者である滝澤らを集め,設計担当者を追加し、設計を急ぐよう指示した。
 麻原は、その翌日、千葉のホテルで,廣瀬及び豊田に,自動小銃の製造チームに加わり,自動小銃1000丁を一,二か月で完成させるよう指示し,青山や富永らには,自衛隊を取り込むために自衛隊員の意識調査をし、東京が壊滅した後に理想的な社会を作るため,現代の日本の矛盾点を1か月で調査するよう指示した。一方、一般信者には、教団が国家権力から毒ガス攻撃を受け続け危機的状況にあることを強調して国家権力に対する敵がい心をあおった。
 麻原は,同年3月中旬ころ、新實、井上、中村昇らに対し,「もうこれからはテロしかない。」などと言い,新實をリーダーとして,自衛隊出身あるいは武道のできる出家信者十数名に軍事訓練のキャンプをさせ,同年4月に,そのうち約10名をロシアに派遣し,数日間,軍の施設で自動小銃等による射撃の訓練をさせ,同年9月にも,異なるメンバーで,多種の武器による射撃訓練を実施させた。
 麻原は、同年5月ころ,青山らのグループに対し,オウムでも日本やアメリカのような省庁制度を作るので、その国家制度の調査を指示し、日本壊滅後の国家体制を担うオウム国家の憲法草案の起草を指示し、同年6月ころの草案には,主権は神聖法皇である被告人に属することや、神聖法皇に国家権力を集中することなどが規定されていた。
 さらに、麻原は、日本やアメリカの行政組織を模した省庁制を採用し,自分を頂点とし,自らが直轄する法皇官房、武装化に向けて兵器等を開発する科学技術省(大臣は村井),自分や家族の警護や軍事訓練,スパイの摘発を担当する自治省(大臣は新實),諜報活動等を行う諜報省(CHS,大臣は井上)等の省庁を設け,大臣や次官には教団幹部を任命した。

●麻酔薬、LSD、メスカリン、覚醒剤製造事件について

 94年から95年にかけて、信者の精神性・霊性を向上させるイニシエーションとして、麻原が指示して、厚生省を中心としたメンバーに様々な薬物を製造させたとされる。麻原は、これらの事件で起訴されたが、裁判迅速化のため起訴は取り下げられ、判決は出ていない。ただし共犯者とされる被告らは有罪判決を受けた。

●滝本サリン事件について(殺人未遂事件)

 滝本弁護士は、89年11月頃から「オウム真理教被害対策弁護団」及び「坂本弁護士を救う全国弁護士の会」に所属し、教団を相手方とする民事訴訟の代理人として活動したり、信者の出家阻止、脱会促進のための活動を活発に行なったりしていたので、教団活動に障害になると考えた麻原は、94年5月7日頃、青山、遠藤、中川ら教団幹部に対して、同弁護士の殺害を指示した。
 同月9日に甲府地裁に、滝本弁護士が出廷するので、その駐車場に止めてある同弁護士の車にサリンを振りかけることにした。犯行には、青山、遠藤、中川らの幹部のほか、連絡係として富永が、サリンを同車にかける係としてT・Aが抜擢された。犯行は計画通り行なわれ、サリンを振りかけた車に滝本弁護士は乗り込んでしばらく運転していたところ、サリンを吸引して縮瞳が生じ視界が暗くなったりなどした。

●松本サリン事件(殺人・殺人未遂事件で麻原有罪)

 91年から教団松本支部の土地を巡り、土地所有者と教団との間に係争があった。法廷での争いも教団に悪い結果が出て、地元住民による反対運動も盛り上がりを見せ、社会問題化した。麻原は、こうした事態を打開するとともに、サリンの効果を実験するため、長野地裁松本支部の裁判官と地元反対住民に対して、サリンを噴霧するよう村井、新實、中川、遠藤らの幹部に対して指示した。
 麻原の意を受けた村井は、サリン噴霧器を積載した車両を使い、噴霧現場での警備役として中村、冨田、端本らの幹部を抜擢し、噴霧車の製造には、渡部和実、富樫若清夫、藤永孝三、林泰男、角川知己、高橋昌也らの幹部信者が当たり、中川、土谷らの幹部が生成したサリンが使用された。
 94年6月27日に、噴霧車は端本が運転し、村井が同乗した。当初の攻撃目標は地裁庁舎であったが、現場到着が夜となり、地裁が閉庁した後だったので、実行グループは、麻原と相談の上、目標を裁判官官舎に変更した。同日、午後10時30分、上記2台は、裁判官官舎近くの駐車場に留まり、午後10時40分から、村井が噴霧器を操作してサリンを発散させた。同行したワゴン車の信者は見張り役を務めた。散布されたサリンが風に乗って付近の住宅街に広がり、死者7名、負傷者600名以上の被害を出す大惨事となった。

●冨田事件(殺人・死体損壊事件で麻原有罪)

 94年7月、女性出家信者が、びらん性の毒ガスと同様の火傷の症状を呈したことから、何者かが教団内に入り込んで毒ガス攻撃をしているとの見方があったが、その後、生活用の水を運搬していた冨田俊男氏の名前が、スパイとして挙がった。
 そのため、麻原は、林郁夫に命じ、ポリグラフ(いわゆる嘘発見器)とイソミタールインタビュー(いわゆる自白剤の投与)で、冨田氏をチェックし、ポリグラフの方では陽性反応が出た。なお、判決によれば、教団ではびらん性毒ガスを研究していたので、その事実を隠すとともに、国家権力に対する敵愾心を煽るために、誰かをスパイに仕立て上げようとしたと認定している
 そこで、麻原は、新實に対して、冨田氏を自白させるよう指示し、新實は杉本、中村、山内信一ら幹部に手伝わせて、冨田氏を自白させようと、椅子に縛り付け、暴行を加え続けたが、自白しなかった。あらためて新實が麻原に相談したところ、麻原は、冨田氏を殺害することを決意し、新實に対し、マイクロ波焼却装置を使い、死体を焼却するように指示した。新實は指示通り、冨田氏の頸部にロープを巻き付けて締め上げ、殺害して死体を焼却した。新実は、「松本サリン事件以降、麻原は警察などの動きに敏感になり、スパイ疑惑に厳しくなっていた」旨証言している。

●VXガスによる連続殺人(未遂)事件(殺人・殺人未遂事件)

 94年10月までに、土谷は、サリン以上の毒性を有する毒ガス・VXの生成に成功、常時製造できる態勢を整えた。このVXを使った殺人(未遂)事件が、94年12月から95年1月にかけて3件起き、水野昇氏、濱口忠仁氏、永岡弘行氏の3氏が被害にあった。
 まず、水野氏のVX事件について。水野氏は、教団を脱出したN・H氏とその家族を匿ったうえ、弁護士を紹介して、彼女のお布施返還訴訟提起を手助けした。この訴訟で、N・H氏は、教団にお布施を強要されたと主張し、社会的イメージが損なわれることを恐れた教団は、N・H氏に訴訟を止めさせ、教団に戻したいと考えていたので、水野氏の存在が障害であった。
 判決によれば、麻原は、新實,井上及び遠藤らの幹部に対し,「水野は悪業を積んでいる。N・Hの布施の返還請求は,すべて水野が陰で入れ知恵をしている。水野にVXを掛けてポアしろ。そうすれば,N親子は目覚めてオウムに戻ってくるだろう。これはVXの実験でもある。水野にVXを掛けて確かめろ。」と指示したとされる。
 そして、94年12月2日、上記のメンバーに加えて、山形明が実行役として加わり、水野氏の後頭部にVXガスをかけたが、殺害までには至らなかった。
 次に、濱口氏のVX事件について。教団は、94年11月頃、教団大阪支部や名古屋支部で、在家信徒I・Y氏が分派活動を行っていると疑い、濱口氏が、それを背後で操っていると疑った。判決によれば、麻原は、「濵口が公安のスパイであることは間違いない。VXを一滴濵口にたらしてポアしろ。」と言い、殺害を指示した。実行したメンバーは、水野VX事件のメンバー、すなわち井上、新實、中川、山形、平田悟及び高橋克也ら幹部の6名。94年12月12日、通勤途上の濱口氏の後頭部にVXガスをかけ、その10日後にVX中毒により死亡した。
 最後に、永岡氏のVX事件について。永岡氏は、「被害者の会」結成当時(89年10月)から同会の中心的な存在であり、出家信者の脱会促進、宗教法人の認証取消の陳情、教団に批判的なマスコミ発表を行なうなど、教団活動を抑えるために精力的な活動を展開していた。94年12月当時も、永岡氏とその長男T氏が、活発に信者の脱会促進活動をしていたことから、麻原は、これ以上放置できないと判断した。
 判決によれば、麻原は、新實に対し、永岡氏か、その長男をVXを使って殺害するよう指示し、新實はこれを了承した。95年1月4日、新實、井上、中川、山形、高橋ら幹部は、港区南青山の路上で、永岡氏の後頸部付近に、VXガスを掛けて体内に浸透させたが、結果としては、永岡氏は一命を取りとめた。

●1995年の事件のまとめ

 次に、1995年の事件や関連する出来事について、裁判資料等に基づいて列挙する。

1月 1日  読売新聞が上九一色村でサリンの残留物質が検出されたと報道
        自動小銃一丁完成(武器等製造法違反事件)
1月 4日  永岡VX事件(殺人未遂事件)
1月 4日  肥料工場(三共有機)経営者を毒ガス噴射の殺人未遂で告訴
2月28日  假谷事件(逮捕監禁致死・死体損壊事件)
3月     大川隆法毒ガス襲撃未遂
3月15日  霞ヶ関アタッシェケース事件
3月18日  サリン散布のためのリムジンでの謀議
3月19日  大阪支部に強制捜査
3月20日  地下鉄サリン事件(殺人・殺人未遂事件)
3月22日  假谷事件容疑で全国一斉強制捜査開始
4月23日  村井刺殺事件 青山本部前
5月 5日  新宿青酸ガス事件
5月16日  都庁小包爆弾事件
5月16日  麻原逮捕

 次に、一つ一つの事件について、裁判資料に基づいて説明する。

●自動小銃製造事件(武器等製造法違反)

 麻原は、教団武装化計画の一環として、ロシア製自動小銃AK-74を1000丁製造することを決意し、92年12月から93年1月にかけて、村井や早川に実行に取りかかるよう指示した。ロシアから実物を取り寄せて研究した後に、93年5月頃から清流精舎を製造工場として、さらに第9サティアン、第11サティアン、第12サティアンにおいて、多くの信者が従事する形で部品製造の作業は進んだが、95年までに量産には至らず、95年1月1日にようやく1丁が完成したのみだった。

●假谷事件(逮捕監禁致死・死体損壊事件)

 假谷清志氏の実妹であるN・A氏は、93年10月頃から教団の在家信者として青山道場に通うようになり、95年2月中旬から、準出家信者扱いとして同道場に寝泊まりするようになった。ところが、同月24日頃から、N・A氏は道場に戻らなくなった。N・A氏の出家に際して多額のお布施が見込まれていたこともあり、調査の結果、兄である假谷氏が、その居場所を知っている可能性を見いだした。この報告を受けた麻原は、中村や井上ら幹部と相談し、假谷氏を拉致して、N・Aの居場所を強制的に聞き出すことにした。 そして、同月28日、假谷氏の勤務先である目黒公証役場付近の路上で、中村、井上、平田悟、高橋、平田信、松本剛、井田、中川らの幹部が待ち伏せし、帰宅途中の假谷氏を襲撃し、車に押し込んで連れ去った。 この後、第2サティアンに運び込まれ、中川と林郁夫は、假谷氏を半覚醒状態に保った状態で、N・A氏の居場所を聞き出そうと試みたが、聞き出せなかった。また、假谷氏の拉致を知った警視庁が、教団に疑いをかけて捜査を始めているという情報が入り、関係者に緊張が走った。
 麻原は、口封じのために假谷氏を殺害することを村井に指示したが、こうして、假谷氏の処遇を検討している間も、麻酔薬の投与が続けられていたため、3月1日午前11時頃、中川は、假谷氏の息が既に途絶えていることに気づいた。大量投与した全身麻酔薬の副作用であった。遺体は、教団のマイクロ波加熱装置で焼却され、本栖湖に遺棄された。

●地下鉄サリン事件について(殺人・殺人未遂事件で麻原有罪)

 95年3月18日頃になって、假谷事件の疑惑が教団に対して向けられ、強制捜査の可能性が指摘されるようになった。この日の未明、麻原のリムジンの中で、麻原、村井、井上、遠藤、青山ら幹部が、強制捜査を防ぐ、ないし延期させる手だてについて話し合った。 その結果、阪神大震災という大災害によって当時予定されていた強制捜査がなくなったという事例にならい、地下鉄にサリンを散布してパニックを起こし、強制捜査を防ぐ、ないし延期させるという案が出された。この計画は、その後、実行に移すことになった。
 その内容は、3月20日の朝の通勤時間に警視庁に近接した霞ヶ関駅を通る地下鉄車内(3つの路線の5本の電車)でサリンを散布するというもの。散布方法は、ポリエチレン袋に注入し封をされたサリンを(生成したのは遠藤、中川、土谷などの幹部)、とがった傘の先で突いて漏出させ、発散させるというものであった。5つの路線における散布役と散布役を送迎する運転手が以下のように選定された。

Ⅰ、日比谷線中目黒行き:散布役――林泰男、運転手――杉本繁郎
Ⅱ、日比谷線東武動物公園行き:散布役――豊田亨、運転手――高橋克也
Ⅲ、丸の内線荻窪行き:散布役――広瀬健一、運転手――北村浩一
Ⅳ、千代田線代々木上原行き:散布役――林郁夫、運転手――新實智光
Ⅴ、丸の内線池袋行き:散布役――横山真人、運転手――外崎清隆

 犯行は上記の計画通り実行され、Ⅰの路線では8名、Ⅱでは1名、Ⅲでは1名、Ⅳでは2名が死亡し、Ⅴでは死者は出なかった(死者計12名)が、このほかに、5000名を超える負傷者を出す、大惨事となった。


(12)1995年:サリン事件発生後の帰国と広報活動

●ロシアにて地下鉄サリン事件を知る

 最後に、私が帰国して以来、自分が何をいつの時点で知るなどして、広報活動などを行ったかについて、まとめておきたいと思う。
 私は、ロシアにいたときに、地下鉄サリン事件の様子がテレビ報道されるのを見たが、その時に、ロシアに来ていた早川が、「これは教団がやったに違いない」と言ったのを聞いた。私も、教団がサリンの製造をしようとしていたことは、ロシアに行く前から知っていたので、合点がいった。それに加えて、今や記憶が定かではないが、その前年の94年に、日本に一度帰国した際に、村井に案内され、第七サティアンの建設中のプラントをサッとではあるが、見せてもらったような記憶がある。
 早川とテレビを見た後に、私は、麻原と電話で話したが、麻原はおそらく盗聴を恐れたのだと思うが、教団がやったことを否定する主旨のことを言いつつ、広報活動のために、至急日本に戻るように私に指示した。

●帰国後、広報活動を行なう

 日本に戻った後は、上九一色村の教団施設で、麻原から改めて、広報活動をするように指示を受け、村井幹部らと、教団のサリン事件に対する関与を否定するために、いろいろ打ち合わせをし、テレビなどに出演することを繰り返した。
 その中で、村井が私に、教団がサリン事件に関与したと告白したことはなく、それは他の全ての事件も同様である。また、私も改めてそれを問いただすことはなかった。というのは、私は、私の教団での仕事は、教団関与の真偽を探ることではなく、教団にかかった疑惑をなるべく薄めることだと考えていたからである。
 それは、坂本弁護士事件の際にも、教団関与が濃厚であるにもかかわらず、麻原への帰依を選択して、教団が関与していようといまいと構わずに、教団を防衛する広報活動を行うことに専念したことと全く同じで、それ以来、それが、教団が期待する自分がなすべき仕事であり、自分自身の一種の習性となっていたと思う。
 私と村井は、サリン製造の疑惑を持たれた第7サティアンの施設を農薬プラントであるなどとして、疑惑を否定することにした。また、教団はサリンなどの毒ガス攻撃を受けていて、むしろ被害者であると強弁した。
 こうして、自分達は加害者ではなく、被害者であるとして、事実と一八〇度逆の主張を強弁する広報活動も、坂本弁護士事件の際に、麻原から指示を受けたやり方である。これは、話題となったフリップを投げるなどの言動の背景でもある。
 よって、今思えば、私は、その時に日本と教団に何が起こっているのかを冷静に把握することなく、教団を守らねばならないというプレッシャーを背景として、大変な社会の批判と注目に対して、言わば熱くなって、単純に昔と同じ広報活動のやり方を繰り返していたのである。現実は、それまでとは次元が違う状況であったにもかかわらず。

●早川・村井の言動と、麻原のサリン事件関与の告白

 なお、教団のサリン事件の関与が推察される体験としては、早川が、警察情報として、サリン事件に使われたビニールと同じものが、警察の強制捜査で教団施設内で押収された、という情報を入手し、私と村井のところに来た際の体験がある。
 その時の早川は、非常に怒っており、自分よりも教団内のステージが上である村井に対して何の遠慮も無く、絶対に嘘をつくなよという主旨のことを言った上で、村井がビニールを片付けていなかったのではないかと激しく問い詰めた。それに対して、村井が、片付けたはずだ(ないしは、片付けるように指示した)などと答えていた。
 その後、麻原自身が、私に教団のサリン事件への関与を告白した。それは、村井が4月23日に、暴力団組員に刺殺された後に、麻原に会いに行った時のことだ。その時、麻原は、「サリン事件は、教団が悪いことをやった。今回(の村井の刺殺)は社会が悪いことをやった」と語ったのである。
 今から思うと、これが、麻原が教団のサリン事件の関与を明言した最初と最後の機会であったが、その時までに、私は、教団の関与を推察する多くの事実を見聞きしていたので、この言葉を衝撃なく受け止めた。

●村井刺殺事件に関して

 なお、よく言われることとして、村井刺殺事件は教団によるものではないか、という疑惑については、私には全く分からない。しかし、私に麻原は、教団では無く、「社会がやった」と否定した。
 さらに、村井の刺殺に社会が同情し、教団への批判が多少和らぐのではないかという期待をしつつ、「これで(村井を失ったことで)教団の科学部門は遅れるね」と加え、村井が担当していた科学技術部門が必要不可欠であったヴァジラヤーナ活動に対する村井の死の影響の大きさをにじませてもいた。
 とはいえ、私は、警察当局が、教団が関与した構図をもっていることも、同時に承知している。知り合いの警察官によると、村井刺殺の犯人が所属していた暴力団が、教団が富士宮や上九一色村の本部施設を取得する際に関係を持った不動産関係者と繋がっている暴力団と関係があるというのだ。
 そして、先ほど述べた村井のサリン事件の後処理のミス(サリン事件に用いたとされるビニールの片付けを怠ったこと)に怒った早川は、その後に、私と共に、麻原に会って、それを報告したが、その際、麻原も村井を「ちゃんと始末しておけといったんだけどな」と批判していたことを知っている。
 これ以外は、自分が知っていることはないが、私が、本件の捜査官の一人から聞いたこととしては、その前後に、最高幹部の一人が、自分の側近の部下に対して、「教団の粛正が必要だ」などと主張していたという情報があるそうだ(ただし、その幹部自身の供述ではなく、その側近の部下からという間接情報に過ぎない)。

●村井事件の暴力団説

 また、この事件では、教団がイニシエーションに利用していた覚醒剤が、暴力団にも渡って、密売されていたために、教団との連携の事実が発覚することを恐れた暴力団が、教団とは無関係に、自らの生き残りのため、密売の教団側の担当者であった村井を殺害したという説もある。
 いわゆる、オウムシャブと言われ、純度が低いが、その分安いものだったらしい。私自身は、教団が、自分のイニシエーションに限らず、外部に覚醒剤を密売していた話しは聞いたことがなく、確信がなく、これは、知り合いの警視庁の警察官から聞いた話である。 なお、この点に関連して、教団の覚醒剤の事件については、一連のオウム事件の裁判の進行が遅れる中で、より重要な事件の解決を優先し、検察が起訴を途中で取り下げたために、真相が裁判で解明されなかったことは残念である。
 また、仮に教団が製造した覚醒剤の密売があったとしたら、その暴力団は、オウムに協力した組織として、オウムと共に潰されることは必死な情勢だったろうから、村井を刺殺する動機は十分だろうと思う。しかし、覚醒剤の密売の教団側の担当者が村井であったという構図には疑問がある。村井は、科学技術部門の総括ではあるが、私が知る限りは、裏社会との対応をしたことがないと思う。
 
●単独犯説

 それから、村井を刺殺した犯人の男性は、自分は単独犯であると主張している。私が少し前にトークショーで対談させていただいた鈴木邦男氏が、彼を直接インタビューした時の感触では、単独犯という主張に関して、嘘は言っていないと感じたという。
 最近になって、第三者の方に、彼と会う提案をいただいたが、彼が犯行を反省していることが確認できないために、お断りした。如何なる理由があろうとも、彼は、私の親友を殺した罪を犯した人物に他ならない。彼が主張するとおり、単独犯であるならば、なおさらそうである。
 それより前に、まず村井の遺族に謝罪して、賠償するべきだろう。私は、自分自身が罪を犯した人間だから、筋が通る限りは、本件の真相の解明を優先し、なるべく自分自身でも調べたいと思っているので、現状が改善されることを願っている。
 なお、参考までに、当時の教団が村井刺殺事件をどう考えたかというと、村井が中心となって更なるテロ事件を教団を起こすことを防ぐために、国家権力が村井を殺害したというものである。捜査が明らかにした教団のヴァジラヤーナ活動の実態を見れば、村井だけを殺しても、完全にテロを防ぐことが出来るかは非常に疑わしいが、教団にとって、いかに村井のヴァジラヤーナ活動での役割の大きかったかを反映したものではあるだろう。

●国松警察庁長官狙撃事件に関して

 なお、他の未解決事件として、国松警察庁長官狙撃事件がある。これについても、麻原が、私に個人的に話したことは、「あれは教団じゃないからね」ということだった。
 一方で、捜査を担当した警視庁公安部は、教団の関与を深く疑い、2004年には、事件当時は警視庁の警察官であり、かつオウム信者であった小杉元巡査を含め、教団関係者複数をいったんは逮捕し、それが大々的に報道された。
 しかし、小杉巡査の自供供述の揺れや、犯行に使われた銃器も発見されない中で、結果として、検察が起訴できないと判断したのは、ご存じの通りである。なお、本件は、小杉巡査以外にも、全く教団と関係のない銃器マニアの人物が、自分がやったと供述をし、複数の自供者が出て、裏付ける物証は乏しいという混乱した状況がある。

●警視庁の断定的な発表とアレフの反発

 その中で、捜査を担当した警視庁の公安部が、本件が時効となった2010年に、事件をオウムの犯行と断定する異例の発表を行った。起訴するだけの証拠がない事件で、捜査内容と共に、特定団体の犯行と断定する発表をしたことに対して、アレフの申し立てを受けた日弁連が、人権侵害であるとして、警視庁に警告を出している。
 この件で、アレフは警視庁=都庁を相手取って、名誉毀損の損害賠償請求も提起している。しかし、このアレフの行動には、裏側があると思われるので注意を要する。後に詳しく述べるが、アレフは、その布教活動で、今も依然として、サリン事件を含めたオウム事件の関与を認めずに、陰謀であると主張している事実がある。よって、その陰謀論を強化するために、この訴訟を行っているという疑いも生じる。
 仮に、事件に関して、人の名誉を傷つけることが悪いというならば、自分達が行っている(長官狙撃事件以外の)一連のオウム事件に関する陰謀論は、警視庁に対する大変な名誉毀損に他ならない。その捜査の正しさは、裁判で既に確定しているのだから。
 一方、私が代表を務めるひかりの輪は、依然としてオウム後継団体と見られることが少なくないが、実際にはオウム真理教から脱却した新団体であって、過去に所属した団体の件で、人権侵害の申し立てをする立場ではない。ただ、それよりも、私達としては、事件を反省した上で、捜査の過労による死者も出すなど、大変な迷惑をかけた警視庁を初めとする捜査当局との和解を進めるべき立場だと考えている。

●長官事件で私が知ったこと

 なお、この長官狙撃事件では、私が知っている事実を言えば、次の通りである。まず、この犯行の直後に、教団の弾圧をやめなければ、これからも犯行が続くことを示唆するような内容の脅迫電話がマスコミ各社にかかってきた事実がある。
 捜査官に依頼され、その電話の音声を聞いたが、確かに警視庁が逮捕した元信者(結果として不起訴)と似ていた(電話の音声では同一人物と鑑定できない)。彼の当時の上長は、小杉巡査と思われる警察官と連絡があったと思われる最高幹部だ。
 そして、記憶が定かではなく、行動しているのかもしれないが、95年の時に、その最高幹部の指示で、何かの電話をかけたようなことを漏らしていたように思ったので、改めて問いただしたが、長官事件に関する脅迫電話の類は、一切したことがないと断言していた。

●その他のテロ事件について

 なお、麻原が逮捕される前後は、逮捕を阻止するために、サリン事件以外にも、都庁爆弾事件や新宿青酸ガス事件といった、テロ活動が指示されたが、これには、私は関与していないだけでなく、事前に知ることさえなかった。
 今思い出せば、村井が、時に、私と広報活動への対策を練っている中で、「指示してこなければならないことがある」と言って、外出したことがあったので、それと関係しているのではないかと思う。
 私が広報活動をしているにもかかわらず、教団が私の知らないところで、逆に問題を逆に大きくしていくことをしていたのだから、サンデー毎日に教団批判キャンペーンをされた時に、私や青山が広報活動を行っていたにもかかわらず、坂本弁護士を殺害し、問題をより大きくした時と似ている。

●過激だった逮捕されるまでの麻原

 麻原が逮捕された後に、石井久子などの幹部から、麻原は、逮捕される直前には、「逮捕されたら奪還せよ」などといった、過激な指示をしたことを聞いた。 
 それもあって、私は、逮捕後の麻原と弁護士を通じて連絡を取り、「このまま、逃亡者や破壊活動が続くと、破防法が適用されるなどして教団がつぶれる」ということを伝えると、麻原は「破壊活動はしないように」という指示を出してきた。
 それと同時に、逃亡者に対しても、麻原が出頭するようにメッセージを出すこととなったが、それは表向きのことで、実際には、麻原は、逃亡者が出頭するかどうかは、自然に任せる(=麻原は指示せず、本人達に任せればいい)と弁護士を通して答えてきた
 私は、破壊活動を否定し、出頭を要請する麻原のメッセージを公に発表すると共に、当時は、逃亡者の中で、まだ連絡が付く人たちもいたので、破壊活動の停止と出頭に関する麻原の真意を連絡するように指示した。
 しかし、警察の追求を逃れんとする逃亡者は、既に散り散りバラバラの面があったと思うので、全ての逃亡者に伝わったかを自ら確認はできなかった。しかし、破壊活動の防止については、その後は実際にテロ事件も発生しなかったので、大丈夫だろうと思った。

●95年10月、偽証・偽造罪で逮捕される

 最後に、この年の10月に私自身が、国土法違反事件の裁判に関する偽造・偽証の罪で逮捕され、その後に有罪判決を受けて、1999年の12月に出所するまで収監されることになった。