「開成をつくった男」の人生から浮かび上がる「咸臨丸神話」の誤信

創設者・佐野鼎の生涯を辿るとともに

「人を仕立てる」

東大合格者数で長年にわたってトップを誇る進学校、「開成学園」の名は、首都圏だけでなく全国津々浦々に轟いているだろう。大学進学の実績だけではなく、その後、政官財学の世界で枢要な地位に就いた人物の略歴を見ると、「開成」の名前が刻まれている。変わったところでは、全国高等学校クイズ選手権大会で優勝、もしくは上位入賞の常連も、開成高校だったりする。

だが、この学校の創設者について知る人は少ないのではないだろうか。いや、多くの人は勘違いをしている。こう答える人が、実に多いのだ。「創立者は、蔵相や首相を務めた高橋是清である」、と。

しかし、高橋是清は、創設者が若くして亡くなった後に、初代校長として就任したのであり、学校を設立したわけではない。

明治維新150年目にあたる2018年の暮れ、開成の知られざる創設者の生きざまを描いた大河小説が発売された。タイトルは、『開成をつくった男、佐野鼎』。

激動の幕末、遣米、遣欧と二度にわたって洋行した砲術専門の下級武士は、真に国を強くする方策は、「人を仕立てる」、つまり人材の育成しかないと、官位を捨てて学校を創設した。

構想から4年以上の歳月をかけてこの本を執筆したのは、自らが佐野鼎の傍系の子孫でもあるノンフィクション作家、柳原三佳氏。ノンフィクションの手法を徹底的に駆使して資料を収集し、執筆にあたったという柳原氏に、ほとんど光を当てられたことのない佐野鼎という人物像について聞いた。

 

藩を跨いで転々とした異例の郷士

開成学園は、その前身を「共立学校(きょうりゅうがっこう)」と言いました。現在は『質実剛健』をスローガンに掲げる硬派な男子校ですが、当時は男女共学で、5歳くらいの女児も学んでいました。

創立者の佐野鼎は1829年、駿河国(現在の静岡県富士市)で生まれ、16歳のときに江戸へ出て蘭学や西洋砲術を学び、27歳で長崎海軍伝習所に参加。その知識と経験が買われて、29歳で日本一の大藩である加賀藩に砲術師範として召し抱えられ……と、異例と言えるほど藩を跨いで活動した郷士(城下ではなく農村に居住していた武士)でした。

この本は、西洋砲術や航海術の専門家だった彼が、幕末から明治への転換期に、なぜ教育の道へと大きくシフトしていったのか? そのことをテーマに取材し、描いたものです。

「開成」と聞けば、西日暮里をイメージする方が多いと思いますが、明治4年に創られた前身の共立学校は、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失するまで、現在のJR御茶ノ水駅のすぐそばにありました。いま、その跡地には、「ワテラス」という立派な複合ビルが建っています。当時の面影はまるでありませんが、敷地の隅に「開成学園発祥の地」と刻まれた碑が、唯一当時の歴史を物語っています。

ちなみに、共立学校が開成学園と改名されたのは、1895年(明治28年)のことです。再来年の2021年には、学校創立150周年という節目の年を迎えます。

佐野鼎との接点

佐野鼎は、私の母方である佐野家の、分家筋の先祖にあたります。

「うちのご先祖の中に、蘭学や西洋砲術をやっていた人がいてね。幕末に海を渡って外国へ行き、勝海舟や山岡鉄舟とも親しかったそうだよ」

私がまだ子どもだった頃、明治27年生まれの祖父・佐野清から、そんな話をときどき聞いていました。清は鼎の死後に生まれているので面識はありませんが、清の祖父が鼎とたいへん親しかったようで、おそらくその祖父から直接、鼎の話を聞いていたのでしょう。

実際、母の実家には勝海舟や山岡鉄舟の書が数多く残されており、江戸末期の鉄砲なども保管されていましたので、私は子ども心に、『佐野鼎という人は、幕末の有名人たちと交流があったんだろうな』ということだけは、なんとなくイメージしていました。

高校生になったころ、佐野鼎の肖像写真を初めて見たときには、横顔が祖父の清にとてもよく似ていたので驚いたことを覚えています。親近感を覚えずにはいられませんでした。

ただし、そのときもまだ、鼎が何をしていた人だったのか、詳しいことは何も知らなかったのです。

一冊の古書との出会い

さて、そんな私が、佐野鼎について本格的な調査を始めたのは、一冊の古書との出会いがきっかけでした。何の気なしに、『佐野鼎』という名前を検索していたとき、偶然その本がヒットしたのです。

タイトルは、『佐野鼎遺稿 万延元年訪米日記』。出版されたのは太平洋戦争が終わった翌年にあたる1946年(昭和21年)で、金澤文化協会から発行された本でした。

万延元年といえば、西暦で1860年、明治維新の8年前にあたります。長らく鎖国を続けていた日本でしたが、この頃、幕府は外国との和親条約や通商条約を次々と結んでいました。一方、外国人を排斥しようという勢力もまだまだ強硬で、尊王攘夷派の志士たちによる暗殺事件などが続発していました。

そんな不安定な時代に、なぜ佐野鼎は下級の身分でありながらアメリカへ渡ることができたのか? そして、何を目的に訪米日記をしたためたのか? 興味が湧いてきました。

2016年、万延元年遣米使節子孫の会がワシントンの海軍工廠に建立した記念碑と著者。1860年、佐野鼎は使節団の一人としてこの地に上陸し、アメリカ市民の大歓迎を受けた。

発行からすでに65年以上経っている希少本とあって、この本には当時の定価(10円)をはるかに上回る、2万7000円という高値がついていました。さあ、どうしたものか……? しかし、この1冊を逃すと、二度と手に入らないかもしれません。

私が悩んでいると、「じゃあ、お母さんも半額援助するから、買ってみれば?」と、母から助けの手が入り、私は思い切ってその古書を購入することにしたのです。

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