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硲伊之助 多才ぶり再評価

2023年8月19日 05時05分 (8月19日 11時45分更新)
硲伊之助

硲伊之助

  • 硲伊之助
  • 硲伊之助の功績について語る(右から)伊藤絵里子さん、硲紘一さん、加賀市文化振興課の神尾千絵主任専門員=石川県加賀市の硲伊之助美術館で

戦後、マティスら紹介に尽力

 洋画家で、晩年は石川県加賀市吸坂(すいさか)町で九谷焼の色絵磁器制作に打ち込んだ硲(はざま)伊之助(一八九五~一九七七年)。一画家にとどまらず、ヨーロッパ近代絵画のコレクターや美術展のディレクター、またゴッホなどの重要な文献資料の翻訳者として、多彩な才能を発揮した。その軌跡をたどる特別対談が十二日、同町の硲伊之助美術館であった。近現代の日本美術界に少なからぬ影響を与えた伊之助の仕事とは-。(小室亜希子)
 特別対談は伊之助の師であるフランス人画家アンリ・マティス(一八六九~一九五四年)の大回顧展「マティス展」(東京都美術館、二十日まで)に合わせ、伊之助の再評価につなげようと硲美術館が主催した。
 登壇したアーティゾン美術館(東京)の伊藤絵里子学芸員が指摘したのが、伊之助の確かな審美眼と、コレクターとして果たした役割だ。同館所蔵のマティス「コリウール」(一九〇五年)とアンリ・ルソー「イヴリー河岸」(〇七年ごろ)は伊之助旧蔵の作品。特に「コリウール」はマティスが「フォービスム(野獣派)」と呼ばれ始める、重要な時期の作品に位置付けられる。
 マティス「青い胴着の女」(三五年)は伊之助が制作途中のマティスに頼み、三六年の二科展に出品が実現した作品だった。当時のやりとりを示すマティス自筆の手紙が硲美術館に展示中だ。特別対談では、伊之助がゴッホの糸杉の絵を購入しようと予約したが、直後に関東大震災が発生して断念したエピソードも、硲美術館長の硲紘一さん(78)によって明らかにされた。
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 マティスとの師弟関係は一九二〇年代、伊之助が二十代半ばの渡欧時にさかのぼる。フランスのニースからマルセイユに向かう汽車の中で、油絵の置き場に困っていた伊之助青年に、新聞紙を広げて「ここに置きなさい」と声を掛けたのがマティスだった。伊之助は最期まで「マティス先生」と敬愛を込めて呼び、寝室には師の複製画を二点飾っていたという。
 五〇年には東京芸術大助教授を辞めて渡欧し、日本での展覧会開催に向けてマティスと交渉する。当初マティスは朝鮮戦争などを理由に難色を示したが、当時、最後の仕事として手掛けていた南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂再建で、伊之助は技術的な問題解決に奔走。最終的に伊之助の熱意にほだされる形で、日本への出展を承諾した。
 五一年、国立博物館(現東京国立博物館)で開かれたマティス展は、四十四日間で十五万一千八百人が来場した。日本での盛況ぶりはヨーロッパでも衝撃的に受け止められ、後にピカソやブラック、ゴッホの日本初の大規模個展に結びつく。伊之助はそれらの実現にも、裏方で尽力していた。
 伊藤学芸員はマティス展にかける伊之助の情熱を「戦後、誰もが日々の生活に精いっぱいの中、自らが今なすべきことは何かを考え、良い作品を人に紹介したい、広めたいという一心だったのではないか」と推測する。伊之助は「ゴッホの手紙」(岩波書店)の翻訳も手掛け、初版から七十年近くたった今も版を重ねている。
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 伊之助のヨーロッパ近代絵画普及に果たした功績が注目される一方で、画家としての再評価が課題となっているのも事実だ。紘一さんは「ヨーロッパとの気候や油絵の歴史の違いから日本の油絵に限界を感じた先生は、古九谷を生んだ色絵磁器に表現の可能性を見いだし、発展に取り組んだ」と強調。日本近現代の美術史の中で、足跡がしっかりと位置付けられることを切望している。

【プロフィール】はざま・いのすけ 1895(明治28)年、東京生まれ。慶応義塾普通部を中退後、日本水彩画研究所で絵を学び、1912年、ヒューザン会に参加。14年、19歳で第1回二科展に出品し二科賞受賞。21~29年のほか3度渡欧。36年、一水会創立に参加。51年ころから陶器制作のため石川県小松市に滞在。61年、加賀市吸坂町で九谷吸坂窯の建設に着手。「三彩亭」の号で色絵磁器を制作し、81歳で死去。内弟子に海部公子さん(2022年死去)、硲紘一さん。岸田国士や井伏鱒二ら文化人との交流も多かった。中日文化賞、和歌山県文化功労賞。


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