泥沼化する国内情勢

2006年のアフガニスタン

萬宮 健策

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所  http://www.ide.go.jp/

概況

2001年10月のターリバーン政権崩壊後,国際社会によるアフガニスタン復興支援が「ボン会合」(2001年12月)による「ロードマップ」として示され,多少の遅れはあったものの,2005年9月の国会議員選挙,同年12月の国会召集により一応完結した。しかしながら,国家再建に向かうはずのアフガニスタンは,国内治安がいっこうに好転せず,復興も遅々として進んでいない。それどころか,2006年はターリバーンによるとみられる攻撃が激化し,米軍や国際治安支援部隊(International Security Assistance Force:ISAF)の犠牲者は急増した。

治安悪化により,復興支援は首都カーブルなど,ごく一部の地域のみを対象としたものに限られている。1月末には,ロンドンでアフガニスタン支援国会合が開催され,参加各国・機関が向こう5年間で総額105億ドルに上る継続的な支援を表明したが,支援の実施状況には大きなむらがあると言わざるを得ない。そのため,周辺国から帰還した難民も仕事を求めて都市部に移動せざるを得ない状況になっている。また,それ以外の地域でも,比較的簡単に現金収入が得られるケシ栽培などから抜け出せない状況が続いている。

結果として,総国家予算の5割を超える額が国際社会からの支援によって占められ,国際社会への依存から抜け出す目処が立たないまま1年が過ぎた。

アフガニスタンは多民族国家であり,国民の統合は至難の業である。以前に比べると,民族間の争いは減少したが,カルザイー政権への協力体制が整っているとはいえない状況である。国家再建に向けての最優先課題は国内治安の安定であるが,国軍,警察の影響力は浸透し切れておらず,外国勢力による治安維持に依存する体質から脱する見通しも立っていない。結果として,先行きの不透明感ばかりが強調された1年となった。

国内政治

歯止めがかからない治安悪化

2006年のアフガニスタンは,治安の悪化がクローズアップされた1年だった。特に,南部各州での治安が急速に悪化した。治安悪化を示す数字にはばらつきがあるものの,2001年10月のターリバーン政権崩壊後,最悪の状況であるとの報道が相次いだ。年間約3000人が犠牲となったと言われ,そのうち4分の1が民間人である点が,治安の悪さを一層際立たせている。

一方で,日本政府も協力した元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰(Disarmament,Demobilisation and Reintegration:DDR)が6月に完了し,非合法武装集団の解体(Disbandment of Illegal Armed Groups:DIAG)も開始されている。現時点では,このプロセスがどこまで実施できるのか,不透明な部分も残っているが,軍閥解体という点では前進している。ここ数年の治安の悪さは,勢力を盛り返したと言われるターリバーンの,米軍をはじめとする外国勢力およびそれを支援する勢力に対する攻撃に象徴されており,いわゆる軍閥などによる抗争事件は減少している。

ターリバーンは,1994年秋頃に初めてカンダハール付近に現れたときとは,その性格が大きく異なっている。当時は治安の悪い地域を警備する自警団的な活動が主で,内戦が活発化していたアフガニスタン国民に受け入れられた。しかし,2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件以降は,外国武装勢力の影響を受けたのか,それまでアフガニスタンでは考えられなかった自爆テロを起こすなど,過激化している。最高指導者ムハンマド・ウマル師は行方不明が続いており,同師を頂点とする体制も不透明なままだが,南部各州を中心に事件が続き,犯行声明も出ている。近年のターリバーンの犯行といわれる事件の特徴は,各地で発生する事件が相互に関連していないと思われる点にある。指導者層の計画の下,組織的に事件を起こすのではなく,小さな集団が離合集散を繰り返しながら単発的に事件を起こしている。

外国勢力を狙った事件が頻発

なかでも頻発したのは,アフガニスタンに駐留する外国軍を狙った事件だった。北大西洋条約機構(NATO)を中心とした勢力は,国内治安維持には不可欠の存在であるが,一方でそれをよしとしないターリバーンの格好の標的となった。標的は軍関係者にとどまらず,復興支援に携わる者も含まれた。

カルザイー大統領は,再三にわたりターリバーンとの対話姿勢を打ち出していたが,ターリバーンは1月9日にその申し出を拒否すると発表した。拒否の理由をターリバーンは,カルザイー大統領がアメリカの言いなりになっており,アフガニスタンのためにならない,と説明している。また,イードル・アズハー(イスラーム教徒の犠牲祭)に際し最高指導者のオマル師が発出したメッセージでは,2006年にカルザイー政権に対する攻撃を激化させると述べた。それから1週間も経たない1月15日に,カンダハール市内のカナダ軍基地付近で自動車に積んだ爆発物が爆発し,カナダ人外交官1人を含む3人が死亡し,カナダ人兵士3人を含む10人が負傷した。自爆テロと見られるこの事件については,ターリバーン報道官を名乗るカーリー・ムハンマド・ユースフが,すべての外国勢力が撤退するまで攻撃を継続すると,関与を認めている。しかしカナダ政府は,今回の事件にもかかわらず,アフガニスタン国内での活動を継続することを表明した。

上記以外でも,年間を通じて外国人を狙ったと見られる事件が頻発した1年となった。4月2日には,ニームルーズ州とファラー州との境で道路建設に従事していたトルコ人技師が,ターリバーンとみられる武装勢力に射殺された。同技師は3人の護衛警官とともに車で移動中の所を強制的に停止させられ,殺害されたものである。

8月1日には,へルマンド州内でNATO軍の車両がターリバーンと見られる武装勢力に襲撃され,乗っていたイギリス人兵士3人が死亡した。また,同17日にも,ISAF所属のカナダ人兵士がカンダハール州内で自爆テロにより死亡している。ISAFは7月31日から南部6州(カンダハール,ニームルーズ,ウルズガーン,ザーブル,ヘルマンド,ダイクンディー)の指揮権を引き継いで展開しており,ターリバーンとの間で激しい戦闘が続いていた。

10月7日には,バグラーン州からバーミヤーンに向かっていたドイツ人記者が,武装勢力に襲撃され殺害された。同記者はドキュメンタリー番組製作のため,アフガニスタンに滞在していたと見られる。また,同19日にも,ターリバーンと見られる武装勢力が,南部でイタリア国籍の写真家を誘拐している。釈放の条件としてアフガニスタン国内に駐留しているイタリア軍の撤退を要求したが,イタリア政府はイタリア軍が撤退することはないと言明した。

落ち着きを見せない国内治安

外国勢力に対する事件以外でも,事件は増加傾向を見せた。2月7日にはバルフ州の州都マイマーナで,預言者ムハンマドの戯画掲載に反発した群衆による暴動が発生し,同地の国連事務所などが投石されたほか,ノルウェー主導の地域復興チーム(Provincial Reconstruction Team:PRT)が襲撃された。それを受けてノルウェー軍が発砲し,アフガニスタン人4人が死亡するにいたった。また,ヘラート市内でも5000人規模のデモが行われるなど,国内各地で反発が続いた。

3月12日には,ムジャッディディー上院議長(元大統領)の車列に爆発物を積んだ小型トラックが衝突し,犯人2人と付近にいた市民2人の計4人が死亡した。ターリバーンが,「アメリカの操り人形を狙った」と犯行声明を発出したが,かすり傷を負った同上院議長は,パキスタンの三軍統合情報局(Inter-Services Intelligence:ISI)を非難する声明を発表した。

5月22日にはガズニー州警察長官が,同州内でムハンマド・アリー・ジャラーリー前パクティーカ州知事の遺体が見つかった,と発表した。同前州知事はカルザイー大統領に近い存在で,同大統領が直接指名した知事の1人だった。本件についても,ターリバーンが犯行声明を発出した。

9月8日には,カーブル市中心部のアメリカ大使館付近で,駐留米軍を狙った自爆テロ事件が発生し,米軍兵士2人を含む少なくとも16人が死亡,30人程度が負傷した。「9・11」5周年を前に武装勢力が力を誇示しようとしたとの見方が示された。また,9日には,マスウード将軍(元国防相)の追悼式典も予定されており,警戒を強化していたところに事件が発生した点で,治安が一層悪化することへの懸念が強まった。

この時期にはカーブル以外でも事件が多発した。9月10日には,アブドル・ハキーム・ターニーワール・パクティヤー州知事が,州都ガルデーズの事務所から車で出ようとしたところを,自爆テロに遭い死亡した。犯人のほか,運転手および警備員も死亡した。この事件についてもターリバーンが犯行声明を発出している。同氏は社会学者で,アフガニスタンに蔓延する銃社会に対し厳しい態度をとっていたことで知られる。また同日,同州知事の葬儀でも自爆テロがあり,出席者5人が死亡し多数が負傷した。

イラクでも治安維持に従事する米軍による捕虜虐待が問題になったが,アフガニスタンでもそれに似た事件が発覚した。10月25日,ドイツの大衆紙『ビルト』が,アフガニスタンに駐留する独軍兵士が人のものと見られる頭蓋骨を持ち出し,写真を撮ったとの記事を掲載した。2003年頃の出来事と見られるが,イスラームでは死者の骨をもてあそぶことは侮辱行為であり,アフガニスタン政府は「イスラームの尊厳と国家の伝統を傷つける」として強く抗議した。ドイツ軍はこの事件を受け,2人を除隊処分にしたと発表した。

ISAFの活動

上記のとおり,治安は非常に悪い状態が続いた1年だったが,一方でISAFなど治安維持を担当する部隊は,2006年中に全国への展開をほぼ完了した。

2001年12月の国連安保理決議1386を基に活動を開始したISAFの活動は,開始当初はカーブル市内のみの治安維持に限られていたが,7月には南部各州への展開が完了し,10月からは東部各州への展開が始まっている。また,指揮権については,発足当初6カ月ごとに参加各国が交代で有していたが,国内の治安状況が極度に悪いため,2003年以降はNATOが指揮権を引き継ぎ,加盟各国が交代で指揮するという形になっている。10月の時点で,37カ国から3万2000人が参加している。2006年も以下に示す通り各国が追加派兵を発表しており,それはアフガニスタンの治安が安定せず,外国勢力に治安維持を依存しなければならない事情を反映していると言える。参加各国が表明した主な追加派兵の動きは以下のとおりである。

1月26日にはイギリスのリード国防相が,7月までに3300人を追加派兵すると発表した。このなかにはヘルマンド州内でのPRT要員も含まれているほか,駐屯地建設のため1000人程度の技術者も派遣し,この派遣実施によりイギリス軍の規模は4700人となる,と説明した。

また2月2日には,オランダ国会がアフガニスタン駐留軍の6カ月延長を可決し,さらに1400人を同国南部へ追加派兵することを決定した。国内には根強い反対意見もあるものの,NATO,国連,アメリカからの強い要請に応じる結果となった。2月21日にも,7月下旬を目処にオーストラリアが200人程度を追加派兵することをハワード首相が発表した。追加派兵される兵士は,オランダに代わって南部での復興支援にあたることになった。またオーストラリアは,8月9日に,復興支援のため新たに400人の支援要員を派遣することも発表した。

5月17日には,カナダ下院議会が2009年初めまでの派兵延長を決定した。賛成149,反対145と僅差ながらの決定だったが,5月10日にマッケイ外務次官がアフガニスタンを訪問し,カルザイー大統領との会談で,カナダは任務完了まで駐留を継続するとの意向を表明していたことを受けた形となった。

7月にアフガニスタン南部の指揮権を米軍から引き継いだNATOは,カンダハールを中心とする南部での治安の現状を考慮すると,現在の体制では不十分であるとして,6000人体制へ兵力を倍増させるとの認識を表明した。そして9月9日にワルシャワで開催されたNATO参謀長会議で,加盟各国に対し,アフガニスタンへのさらなる追加派兵を要請した。NATOは6月以降治安が極度に悪い南部各州へ展開しており,37カ国からの約1万8000人の兵力のうち,約8000人が南部に駐留している。一方で加盟各国は確約した兵力のうち85%程度しか実際に派兵しておらず同会議は2000~2500人の増派が必要であるとの認識を示した。

この要請を受ける形で,9月13日にはポーランドが1000人の追加派兵を発表した。また11月21日,アイケンベリー駐留米軍司令官が国防総省で記者会見し,増大するターリバーン勢力の脅威に対抗するため,米軍は2008年末までにアフガニスタン軍の規模を倍にし,火器などの装備を改善するよう提案していると述べるなど,各国は積極的な協力姿勢を示している。しかし,参加各国すべての足並みがそろっているわけではなく,フランスは駐留軍のうち約200人を削減する意向を表明した。フランスはナンガルハール州を中心に約2000人を駐留させているが,削減対象としたのは特殊部隊の約200人で,残りはそのままISAFとして駐留すると説明した。なおフランスは,2007年以降アフガニスタン国軍の訓練を実施することもあわせて発表し,治安維持に対する姿勢そのものは変わらないと強調した。

拡大するPRTの活動

ISAFが活動の中心のひとつと位置づけているのが,各地でのPRT活動である。10月時点で24のPRTが活動している。NGO等による復興支援活動を軍が警備するという形を取っており,復興支援の中心的な役割を果たしている(表1)。

2006年になってからも各国が参加を表明している。1月8日には,ゴール州内で活動しているリトアニアのPRTに,クロアチアおよびアゼルバイジャンが参加することになったと,リトアニアの国防相が発表した。ゴール州の州都チャグチャラーンを中心に,リトアニアとともに,アイスランドおよびデンマークが参加し,地雷除去などを行っており,それに2カ国が協力するものである。

こうした活動をより効果的に行うことを目的として,7月21日に「PRTの協力と任務に関する会議」がブダペストで開催された。主目的はPRTに参加している国際組織間の協力体制の歩調を合わせ,仕事の能率を向上させることであった。

表1 地域復興チーム(PRT)の実施地域と担当国(2006年11月現在)
地区(管轄国)
地名(太字は中心地)

担当国
首都圏(なし)
カーブル
カーブル
実施なし
北部(ドイツ)
マザーリ・シャリーフ
バルフ
スウェーデン
クンドゥズ
クンドゥズ
ドイツ
マイマーナ
ファルヤーブ
イギリス,ノルウェー
ファイザーバード
バダフシャーン
ドイツ,チェコ,デンマーク
プリ・クムリー
バグラーン
ハンガリー
西部(イタリア)
ヘラート
ヘラート
イタリア
チャグチャラーン
ゴール
リトアニア
ファラー
ファラー
アメリカ
カライノウ
バドギース
スペイン
南部(ISAF・オランダ)
カンダハール
カンダハール
カナダ
タリーンコート
ウルズガーン
オランダ
カラート
ザーブル
アメリカ,ルーマニア
ラシュカルガー
ヘルマンド
イギリス,デンマーク,エストニア
東部(ISAF・アメリカ)
アサーダーバード
クナル
アメリカ
バーミヤーン
バーミヤーン
ニュージーランド
ワルダク
ワルダク
トルコ
ガルデーズ
パクティヤー
アメリカ
ガズニー
ガズニー
アメリカ
ジャラーラーバード
ナンガルハール
アメリカ
ホースト
ホースト
アメリカ
ヌーリスターン
ヌーリスターン
アメリカ
メヘタルラーム
ラグマーン
アメリカ
バグラム
パルワーン
アメリカ
シャラーナー
パクティーカ
アメリカ
パンジシール
パンジシール
アメリカ,韓国
(出所) ISAF作成の資料を基に,筆者作成。

遅れる薬物対策

治安の悪化と並んでアフガニスタンを悩ませている大きな問題に薬物問題がある。ターリバーン政権崩壊後,各地でケシ栽培が急増し,アフガニスタンは欧米諸国への一大麻薬供給国としてその対策が急がれている。しかしながら,国連薬物犯罪事務所(United Nations Office on Drugs and Crime:UNODC)が,2006年9月に発表した統計によると,アフガニスタン国内で16万5000ヘクタールがケシ栽培に利用された。全国で前年比59%増である。なかでも南部のヘルマンド州では,2005年に比べて162%増の6万9000ヘクタールあまりと激増している。ターリバーンの新たな拠点とも言われる同州での作付け面積増大は,ケシ栽培と治安状況とが密接に関係していることの表れといえる。ヘルマンド州以外でも,カンダハール,ウルズガーン,ダイクンディー,ファラー,ザーブルといった南部6州での増加が際だっている。一方で,以前からのケシの一大生産地であったナンガルハール州など東部での生産量は南部各州ほどには伸びておらず,生産の中心地が南部へと移動していることを意味している。上記の南部6州に加え,バダフシャーン,バルフ両州をあわせた8州における栽培が全体の8割近くを占めており,代替換金作物の普及などの対策が特に急がれる。

国連薬物犯罪事務所によると,アフガニスタン国内34州のうちケシ栽培が行われていないのはわずか6州のみで,2005年の9州に比べても減少していることがわかる。同事務所はケシ栽培を行わない州の数を2007年に倍増,2008年にもその倍にとの目標を掲げ,州単位での対策をアフガニスタン政府当局に要請している。アフガニスタン国内で栽培されたケシは約6100トンのアヘンとなり,これは世界中に供給されるアヘンの92%を占めている。

新内閣発足

アフガニスタンでは,2005年9月に議会選挙が実施されたことに伴い内閣が解散した。これを受け,カルザイー大統領が3月23日に新閣僚26人の任命を行った。今回の組閣では外相および内相人事が注目された。外相には,元外務担当大統領顧問のスパンター氏が,また,内相にはジャラーリー前内相の辞任後,内相代行に就任したザッラール氏がそのまま就任した。憲法の規定上,閣僚が正式に就任するためには,下院議会での承認を経なければならず,同4月の下院議会に諮られた。その結果,ファルハング経済相,ラヒーン青年問題・文化相,アフマディー交通・航空相,ラザー商業相およびサブラング女性問題相が信任を得られなかった。これら5閣僚のポストは空席のまま,信任を受けた閣僚のみが5月2日に宣誓を行い,新内閣が発足した。

その後,8月になってようやく空席だった5閣僚が就任し,全閣僚が揃うこととなった。

カルザイー大統領が国内に政治基盤を持たないことは,以前から指摘されているが,5閣僚に対する不信任もカルザイー政権の不安定さを露呈する結果となった。前政権時にも閣僚ポストが多すぎるという指摘があったが,今回の組閣でも閣僚ポストの削減は実現せず,国家を構成する各民族などへの配慮が閣僚数に反映されている。

経済

アフガニスタンの経済は,ターリバーン政権崩壊後これまで国際社会・機関からの支援に大きく依存している。ほぼ毎年支援国会合が開催され,参加各国・機関が支援を表明している。治安状況に好転の兆しが見えないこともあり,2006年もこうした体質から脱却できる目処が立たないまま過ぎた。

一方で,周辺国との貿易による関税収入や農産物による収入は,統計がないため不透明な部分が多いものの,相当な額に上っていると考えられる。問題はこうした税収等が中央政府に集まる体制が,未だ確立されていない点にある。カルザイー政権発足後,イスマーイール・ハーン元ヘラート州知事を中央政府閣僚に迎えるなど,中央集権体制を確立すべくさまざまな方策をとっているが,未だ成果が現れているとは言い難い。だが,こうした方策の確立は,財政の健全化を目指すうえで,避けて通れない。

一方で,明るい材料がないわけではない。4月2日にはデーラワリー・アフガニスタン中央銀行総裁が,1384年度(2005年3月21日~2006年3月20日)の国民1人当たりの収入が293ドルに上昇したことをカルザイー大統領に報告し,1385年度にはさらに14%上昇して335ドルに達する見通しであると発表した。なお同銀行によると,経済成長率は1383年度が8%,1384年度が14%だった。また7月20日,「パリクラブ」(主要債権国会議)がアフガニスタンの公的債務のうち合計24億ドルを帳消し・繰り延べにすることで合意に達したと発表した。アメリカ,ロシア,ドイツの債務が対象で,合計16億ドルが棒引きされ,8億ドルの返済が繰り延べされることとなった。

その一方で,1500万人いる労働力のうち40%に達すると言われる失業率や,労働者の80%が従事していると言われる農業分野の問題は,麻薬問題や長い戦乱で破壊された灌漑施設整備とも深く絡んでおり解決する目処が立っていない。

「アフガニスタン・コンパクト」

1月31日から2月1日にかけて,ロンドンで「アフガニスタンに関するロンドン国際会議」が開催された。同会議では,「アフガニスタン・コンパクト」(The Afghanistan Compact)という国際社会とアフガニスタン政府との間で今後の支援の枠組み合意がなされたのをはじめ,アフガニスタン政府からは今後5年間のさまざまな分野での国家開発戦略(Afghanistan National Development Strategy:ANDS)が提示された。また,参加各国から表明された支援拠出額は総額105億ドルとなった。

この会議は,「ボン会合」(2001年12月)で決まったロードマップが,2005年12月に国会開会により一応の完結を迎えたことを受け,それ以降のアフガニスタンの方向性を打ち出すべく開催された。

主要参加各国・機関が表明した拠出額は,表2のとおりであった。

第2回アフガニスタン地域経済協力会議

11月18日から2日間にわたり,ニューデリーでアフガニスタン地域経済協力会議の第2回会合が開催された。同会議はアフガニスタンとインドの共催という形で開催され,国連やアジア開発銀行など各国際金融機関などのほか,パキスタン,日本,それにウズベキスタンやトルクメニスタンなどアフガニスタンと国境を接する中央アジア諸国,計30の国と機関が参加した。同会議の第1回会合は2005年12月にカーブルで開催されており,この第1回会合では「カーブル宣言」が採択された。今回の第2回会合はそのフォローアップとの位置づけで,特に電力などのエネルギー,貿易,投資,農業の分野における協力関係強化が重要な検討議題と位置づけられた。

第2回会合の成果は,会合終了後に「ニューデリー宣言」としてまとめられた。同宣言では,地域経済協力を実施するための環境作り,地域の振興を目的とした各種プロジェクトの実施などが確認された。

なお,同会議で日本政府は,アフガニスタンが近隣諸国との地域協力を行うことにより地域全体が一体として発展していくことの重要性を強調した。また,これまでに行ってきた約11億ドルの道路建設支援をはじめ,今後もアフガニスタン国内の道路網や空港施設の整備,国境管理などの面で貢献する意向を表明した。

表2 ロンドン国際会議の主要参加国・機関が表明した支援拠出額(単位:100万ドル)
国/機関
拠出額
世界銀行
1,200
アメリカ
1,100
アジア開発銀行
1,000
イギリス
855
ドイツ
480
日本
450
ヨーロッパ連合
268
スペイン
182
インド
181
オランダ
179
サウジアラビア
153
パキスタン
150
ノルウェー
144
(出所) 2006年2月3日付Afghan News Networkの記事を基に筆者作成。

対外貿易

上記のとおり,アフガニスタンは国際社会からの支援に大きく依存した経済構造となっているが,対外貿易額も徐々に増加傾向にある。輸出入総額でみると,2003年には約18億1900万ドルだったのが,2005年には約28億2100万ドルへと増加した。輸出・輸入をあわせた最大の貿易相手国はパキスタン(2005年の輸出入の総額が約6億7400万ドル,貿易総額の23.8%。以下同様)である。アフガニスタンが内陸国であることから,パキスタンとの間にはアフガン通過貿易協定(Afghan Transit Trade Agreement:ATTA)がある。しかし,同協定はパキスタンのカラチ港でアフガニスタン向け輸入品の関税を免除することを謳っているため,アフガニスタンに行くべき物資がパキスタン国内に横流しされ,安価で流通するという問題を引き起こしている。

パキスタン以外ではアメリカ(約3億7000万ドル,13.1%),欧州連合(EU)(約5億100万ドル,17.7%),インド(2億5300万ドル,8.9%)との関係が強く,輸出入ともにこれら4カ国・機関との貿易額が50%以上を占めている。

対外関係

対日関係

1年を通じて日本とは良好な関係を継続できたと言える。6月5日には「中央アジア+日本」会議出席のため,スパンター外相が訪日した。オブザーバー参加した同外相は演説のなかで,「アフガニスタンでのテロ問題は国際問題であり解決には各国の協力が必要である。またテロリストは国境を越えてアフガニスタンに侵入しているが,NATO軍などの拡大により制圧することは十分可能である」との認識を示した。また,日本からの投資増大のためにはできることは何でもすると,今後の投資増大に期待感を示した。

7月5日には,訪日したカルザイー大統領と小泉首相が首脳会談を行った。会談では,日本政府などが主導した武装解除,動員解除,社会復帰(DDR)が話題となり,カルザイー大統領からは日本政府の貢献・協力に対する謝意が表明された。

また,同日,日本政府が主催する形で「アフガニスタンの『平和の定着』に関する第2回東京会議」が開催された。日本,アフガニスタン,国連が共同議長を務め,アフガニスタンからはカルザイー大統領をはじめとする関係閣僚が出席したほか,日本からは麻生外相等,国連からはアレキサンダー国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)次席代表等が出席した。上記3者以外にも,G8,EU,DDRおよび非合法武装集団の解体(DIAG)のドナー国をはじめとして,アフガニスタン支援に関心のある国・機関合計68団体から約180人が参加した。

席上,日本政府は1月のロンドン国際会議で表明した4億5000万ドルの追加支援に関し,麻薬対策,治安改善などの分野で約6000万ドルの支援決定を行った旨表明した。

今回の会議は2003年2月の「アフガニスタンの『平和の定着』に関する東京会議」に次ぐ位置づけがなされており,引き続き同分野での日本の役割に期待がもたれている。会議後には総括として,次の点に重点が置かれた共同議長サマリーが発表された。すなわち,(1)2006年6月のDDR完了は非常に重要なステップである,(2)さらなる治安安定を目指し,アフガニスタン政府および国際社会が一層の協力を行う,(3)DIAGの現状は決して満足できるものではなく,2007年末までに完了させるためにさらなる努力を要する,というものである。

上記以外では,11月20日,日本が支援するカーブル空港国際線ターミナルの起工式が行われた。2008年度の完成を目指し,今後30億円が投じられる予定となっている。ターリバーン政権崩壊から5年が経過し,空港利用者が増えたこともあり,新ターミナル建設の運びとなった。なお,起工式には関口外務大臣政務官(首相特使)が出席し,カーブルでは,カルザイー大統領と会談を実施した。これより先に日本は,テロ対策特措法の1年間延長を決定しており,会談の席上,日本の国際社会における「テロとの闘い」に対する姿勢,アフガニスタンの支援への決意をあらためて伝えた。

対米関係

アメリカは,2001年10月のターリバーン政権崩壊後,もっとも積極的に復興を支援しているといえる。2001年以降120億ドルを超える支援を行い,アフガニスタンの安定を定着させるべく,治安維持を中心とした活動を行っている。南部の指揮権はISAFに委譲したものの,米軍は依然として最大勢力を誇っている。

しかしながら,アフガニスタン国民の間には根強い反米感情がある。アメリカによるイラク攻撃や,アフガニスタン国内での活動がイスラーム教徒への攻撃ととらえられており,ターリバーンは,こうした感情を勢力拡大に利用していると見られる。

このような状況下の3月1日,インド,パキスタン訪問に出発したブッシュ大統領が,インドに先立ちアフガニスタンを電撃訪問した。事前公表は行われておらず,2001年9月11日の同時多発テロ事件が起きて以来,同大統領にとって初めてのアフガニスタン訪問となった。アメリカ大統領によるアフガニスタン訪問は,1978年以降初だった。5時間あまりの滞在中,カーブル市内の大統領府でカルザイー大統領と首脳会談を行った。

首脳会談後の共同記者会見では,カルザイー大統領からアフガニスタン復興におけるアメリカの役割に対し謝意が表明されたのに対し,ブッシュ米大統領は「民主主義の成功に向けたアフガニスタンの尽力に感動した。アメリカがアフガニスタンの将来に関与できることは,喜びであり名誉である」とカルザイー政権への支持表明をするとともに,「アフガニスタンで起きることを世界中が注視しており,これは他国にも影響を及ぼすことになる」と述べ,アフガニスタンの民主化を成功に導いたうえで,中東全域にも民主化を拡大することに改めて意欲を示した。

また5月2日から約10日間にわたり,アフガニスタンとパキスタン,アメリカが合同軍事演習を実施した。場所はパキスタンの北西辺境州内だったと見られる。

7月11日には,ラムズフェルド米国防長官が,急遽アフガニスタンを訪問した。ライス米国務長官がそれより約10日前に訪問したばかりで,訪問の理由をバーンズ政務担当次官補は,アメリカの対アフガニスタン支援が今後も継続されることを強調するためと説明した。

対パキスタン関係

アフガニスタンは,パキスタンと2430キロメートルに及ぶ国境を接している。デュアランド・ライン(Durand Line)と呼ばれるこの国境の扱いをめぐり,両国の関係はぎくしゃくしている。アフガニスタン政府は,そもそもこの線を正式な国境とは認めていないと主張しているほか,国内で発生しているテロ事件はパキスタン側から越境したテロリストが起こしていると主張しているのに対し,パキスタン政府はそれを強く否定し続けている。国境をまたいで居住するパシュトゥーン民族は,こうしたテロリストを匿っているとも言われるが,パキスタン側には連邦直轄部族地域(FATA)が広がっており,その実情は不明な部分が多い。アフガニスタンの主張を受け,パキスタン政府はテロリストの往来を防ぐとの理由から国境に沿ってフェンスを構築すると発表した。ところが,アフガニスタン政府はこの方策に対し,逆に国境を固定化するものであるとして強く反対する姿勢を示した。

こうしたなか,2月15日から17日にかけて,カルザイー大統領が,ムシャラフ大統領の招きにより,2005年3月以来約1年ぶりにパキスタンを公式訪問した。ナンガルハール,カンダハール,ホースト,ウルズガーン州の各州知事,外相,商業相,国防相,安全保障担当顧問のほか,国会議員らが同行し,関係改善を目指して各レベルでの話し合いが行われた。しかし両国関係は好転せず,それは3月9日シェールパーオ・パキスタン内相が,アフガニスタン領内からの過激派などの流入を防止する最終的な手段としてアフガニスタンとの国境にフェンスを設置し,地雷の埋設を検討する可能性を示唆したことからもわかる。カルザイー大統領がパキスタン訪問時に,ムシャラフ大統領に手交した過激派に関する情報が古いものだったことが,両国の関係に影響を与えているとみられる。ブッシュ大統領の訪問時にパキスタンの対テロ協力が不十分であると指摘しているが,この点も関係していると考えられる。連邦直轄部族地域(FATA)ではパキスタン国軍も十分な活動ができておらず,過激派の温床になっていると以前から指摘されていたもので,対テロ対策でアメリカと協力すべきパキスタンとアフガニスタンの関係は決して良好ではない。

9月6日からはムシャラフ大統領が約2年ぶりにアフガニスタンを訪問し,首脳会談を実施した。席上「平和と安全に関するジルガ(国民会議)」を共同開催することが決まったが,それ以外には目に見える成果はなかった。その後12月7日にカスーリー・パキスタン外相がアフガニスタンを訪問した際には,同ジルガに関する打ち合わせが行われ,2007年初にアフガニスタン,パキスタン両国で同時に開催される方向で合意に達した。

なお,9月27日にブッシュ大統領とカルザイー大統領がホワイトハウスで首脳会談を行った際,食事(断食明けの「イフタール」)の席にムシャラフ大統領が同席したのは,両国間の関係改善を推進しようとするアメリカの姿勢を表しており,アメリカにとっても「対テロ戦争」を推進していくうえで,アフガニスタン,パキスタンの協力が不可欠であることを物語っている。

両国政府間の関係がぎくしゃくしている一方で,市民同士の交流は活発化しており,3月15日にはナンガルハール州の州都ジャラーラーバードとパキスタンの北西辺境州ペシャーワルを結ぶバスの試験運行が始まり,第1便がペシャーワルに到着した。最終的にはジャラーラーバード,ペシャーワル双方から毎日6便ずつのバス運行が予定されており,更なる交流強化への期待がもたれている。その後,定期便の運行も5月27日に開始された。

対中関係

中国は近年対アフガニスタン外交を活発化していると言える。その背景には,中国国内でのエネルギー需要の高まりがあると見られる。先述の通り,1月のロンドン会議の席上,8000万元(約1億2288万円相当)の拠出を発表したほか,各地の復興に積極的に関わっている。そうした関係を反映してか,6月18日から21日にわたり,カルザイー大統領が中国を公式訪問した。また10月31日には,北京を訪問中のワールダク国防相と会談を行った曽剛川国防相が,「アフガニスタン再建に向け,中国はできる限りの支援を継続していく」と発言していることからも,その姿勢を伺うことができる。

その他の諸国との関係

トルクメニスタンから,アフガニスタンを通過してパキスタン,インドへと伸びる天然ガス・パイプライン敷設問題は,アフガニスタンの治安悪化のため,予定どおりには進んでいない。しかし,2月14日から15日にかけてアシュガバードで開催された天然ガス・パイプライン敷設計画に関する会議で,トルクメニスタン,アフガニスタン,パキスタンの関係3カ国で,日量32億立方フィートのガスを30年間にわたり供給するとの了解覚書(MOU)への署名がなされた。

一方2月20日からは,ドゥシャンベでタジキスタン,アフガニスタン,イランの3カ国による電力供給に関する会議が開催され,タジキスタンから,アフガニスタンを経由してイランまで電力を供給するための共同プロジェクトが議題となった。2005年1月には,タジキスタンと,ロシア,イランが発電所建設に向けた議定書に署名しており,今回の会議では第2発電所を建設し,タジキスタンの電力生産を340億kWまで引き上げ,アフガニスタン,イランへ供給することとなった。

カルザイー大統領も活発な外交活動を続けた。4月9日から11日までインドを訪問した。滞在中,マンモハン・シン・インド首相と首脳会談を実施し,農村開発などのアフガニスタン支援をはじめとする2国間関係強化について話し合った。また5月27日からはイランを訪問し,テヘランでアフマディネジャード・イラン大統領と会談した。席上,両国関係が今後ともいっそう強固で発展していくことで意見が一致した。またカルザイー大統領は,ホメイニ師の廟を訪問している。その後7月26日には訪問先のドゥシャンベでアフマディネジャード・イラン大統領と再び会談し,2月の電力供給をはじめタジキスタンを含む3カ国が連帯を強調し,インフラ整備などで経済協力を推進することで合意した。

なお,11月20日にはブレア・イギリス首相がアフガニスタンを訪問し,イギリス軍が展開中のヘルマンド州を訪問し,兵士の慰問を行った。イギリス首相のアフガニスタン訪問は2002年以来で,午後にはカーブル市内でカルザイー大統領と首脳会談を行った。

2007年の課題

2001年10月のターリバーン政権崩壊以降,アフガニスタンにとって国内治安の安定が最大の課題であることは自明である。しかしながら,カルザイー政権および国際社会は有効な方策を打ち出せないまま5年以上が過ぎた。国際治安支援部隊やアメリカは,撤退の目処も立たないまま駐留を継続している。何よりもまず,アフガニスタン国軍および警察による治安維持体制の確立が最重要課題であろう。当面は国際社会による支援が不可欠であるが,治安が安定に向かうことにより,国際社会による支援もより効果的に行える。PRTの活動はこの観点からも,その重要性を増すと考えられる。

財政面でも可能な限り早い時期に自立への目処を立てる必要がある。予算上はその半分以上を国際社会からの支援に依存していることから,ケシ栽培を中心とした麻薬から換金作物への切り替え,関税収入等を中央政府へ環流させるなど,国家財政を安定させる方策を早急に定着させる必要があろう。

アメリカ,パキスタンとの協力体制はあらゆる面で不可欠と言えるが,特に長い国境を接するパキスタンとの関係改善は急がれる。パキスタンが打ち出した国境へのフェンス設置問題は,長年両国間でくすぶっている「デュアランド・ライン」の問題とも絡んで複雑化する可能性もあり,当面注視すべきである。

ターリバーンをはじめとする武装勢力の動きが活発化し,またカルザイー政権は国内,対外関係,経済面でそれぞれ多くの課題を抱えたまま,その有効な解決策を見いだせないでいる。カルザイー政権が継続できるかどうかは,国民の不満をいかに抑えつつ,国民をまとめていけるかにかかっている。

(大阪外国語大学講師)