The Story Of A Gt-Racing Driver - Daiki Sasaki──PART 1

現代レーサー物語 Vol.3佐々木大樹(前編)──今を駆け抜ける現役ドライバーが激動の半生を語る!

レーシングドライバーの知られざる半生を振り返ると、そこには幾多のドラマがあった。彼らがレースをはじめたきっかけ、成功と挫折、苦難、そして今……。誰もが驚くエピソードを紹介する。第3回は、日本のハコ車レースの最高峰SUPER GTのGT500クラスに参戦中の佐々木大樹選手だ。
佐々木大樹 慶應 SUPER GT GT500 慶應卒 NISSAN NISMO インパル TEAM IMPUL

“大卒”ドライバーは驚異の負けず嫌い

佐々木大樹は、SUPER GT GT500クラス(TEAM IMPUL)に参戦するドライバーでは珍しく、大学(慶應義塾大学)に進学し、卒業している

「周囲からは学業とSUPER GT(GT300クラス・当時)の両立は難しいからどちらかに専念すべき、と、散々言われました」と、話す。

しかし、佐々木は「出来ないかどうかは、やってみないとわからないじゃないですか? ボクは、人から“無理だ”と、言われたら、“無理じゃない”と、すぐに反発したくなるんです(笑)」と、話す。

佐々木大樹(ささきだいき)。1991年10月15日生まれ。1997年より、モータースポーツ活動(レーシングカート)を開始。数々の大会でタイトルを獲得する。2008年、フォーミュラに参戦(フォーミュラ・チャレンジ・ジャパン)。2013年よりSUPER GTに参戦する。現在、SUPER GT GT500クラスの「TEAM IMPUL」の、ドライバーとして活躍する。趣味は旅行・ゴルフ・映画鑑賞・海外ドラマ鑑賞。慶應義塾大学法学部政治学科卒。

佐々木の“反発”は、今に始まったことではない。幼少期まで遡る。

「昔から負けず嫌いでした。小学校時代、カートにしても学業にしても、人に負けないよう努力していました。苦手な面や欠点を意識し、それらを最短で克服すべくあれやこれや考えていましたね」

続けて「自分で言うのもなんですが、“努力家”なんです」という。佐々木は落ち着いている。自信のあらわれだ。

2019年9月7日〜8日におこなわれたSUPER GT 第5戦にて。

父への反発が成長へ

とはいえ、モータースポーツ活動を始めた頃は、自信はまるでなかったという。

「小学校1年生のとき、『面白い場所がある』と、父に連れられ、はじめてサーキット(桶川)に行きました。そこではじめて、カートに乗ったものの、恐怖でほとんどアクセルを踏めませんでした」

5歳の佐々木。埼玉県川口市にある川口神社にて、七五三のときに撮影されたもの。

その後も佐々木は、アクセルをなかなか踏み込めなかったという。そんな佐々木を見かねた父親は、なんと、アクセルを踏み込ませるべく、驚くべき手を打った。

「アクセルを踏み込んだ状態で、ガムテープで固定されてしまったんです(笑)」

佐々木によれば、父親はスパルタ指導だったという。その昔、競艇の教官を務めていたせいか、指導は厳しかったそうだ。とはいえ、佐々木は恐怖に支配されたわけでは決してない。

6〜7歳の頃、カートに慣れてきた頃の佐々木。場所は中井インターサーキット(神奈川県足柄)。

「父はたしかに厳しい人でしたが、僕はメソメソしたりクヨクヨしたりすることはありませんでした。父の厳しい指導に対し、『見返してやるんだ!』という気持ちがはるかにうわまわっていたので、ひた向きに練習しました」

厳しい父親の指導もあり、小学校1年生後半にはスピードへの恐怖も薄れていったという。そして、上級生と練習試合をするなかで、次第に闘争心が芽生えてきたそうだ。

7歳のころ、新東京サーキット(千葉県市原市)にて。

メンタル面の強化は驚きの方法!

が、そんな佐々木を父親は思いもよらぬ方向に導く。

「小学校2年生のとき、いったんカートを辞めさせられたんです」

レーシングドライバーとして、スタートラインを切った直後である。なぜか?

「読売ジャイアンツの(私設)応援団に加入しました。父は、ボクのメンタル面などを鍛えたかったようです」

当時の佐々木は、挨拶の声が小さいなど、メンタル面で未熟だったそうだ。とはいえ、小学校2年生ぐらいであればいたしかたないのでは? と、思うかもしれないが、佐々木の父親はそれを許さなかったのである。

読売ジャイアンツの私設応援団に加入していた頃の佐々木選手。

「1年間活動しました。100試合前後、応援したはずです。最初はイヤでしたが、もともと野球は好きでしたので、だんだん楽しくなりました。結果的に、挨拶の声が大きくなるなど、あらゆる面で成長しました」

てっきり、「イヤでイヤでしょうがなかった」と、返ってくるかと思いきや、違った。なお、独自の教育法を実践してきた佐々木の父親であるが、決して、佐々木の才能を見抜いていたわけではなかったというのが興味深い。

「父は最初、ボクにレーシングドライバーとしての才能はないと思っていたようで、むしろ、弟の才能に期待していたようです。 どうして、自分に力が注がれたのか? おそらく、相当な負けず嫌いだったからです。『コイツは発破をかければ強い選手に化けるのでは?』と、思ったのかもしれません」

メンタル面を鍛えた佐々木は、小学校2年生の後半、レーシングカートに復帰。すぐに頭角をあらわすのであった。

慶應への進学

佐々木は小学校3年生から、本格的にレーシングカートのレースに参戦をはじめた。しかも、参戦早々、さまざまなレースで優勝する。

「当時はレーシングカートを極めたいと思い、日々練習していました。週3〜4日以上サーキット(秋ヶ瀬)に通っていたほどです。年間300日以上、サーキットにいたと思います」

2005年、全日本カート選手権のICAクラスで初優勝したとき。

2005年、全日本カート選手権のICAクラスで初優勝したとき。

2005年、イタリアでおこなわれたレーシングカートの世界大会に参戦したとき。結果は3位だった。

2005年、イタリアでおこなわれたレーシングカートの世界大会参戦時の一コマ。

さまざまな大会で好成績を残す一方、勉強も怠らなかった。中学校は、国立お茶の水女子大学附属中学校に進学する。

「受験勉強は小学校6年生の11月からはじめました。自らの意思ではなく、父の意向です(笑)」

中学校入学後は、テニス部に所属するもレーシングカート活動が忙しく、あまり参加出来なかったという。そうしたなかでも、勉学は怠らなかった。高校は名門、慶應義塾志木高等学校に進学する。

2006年、全日本カート選手権の前哨戦で、日本のトップドライバーたちとたたかったレースにて。

前哨戦では見事1位を獲得。

「以前より祖母が『慶應に入学してほしい』と、よく話していました。その夢を叶えたく、慶應に進学しました。実は中学受験時、お茶の水とはべつに中・高・大一貫校にも合格しましたが、『高校で必ず慶應に進学する』という目標があったので、辞退しました」

ちなみに、慶應義塾志木高等学校へは自己推薦入学試験を経て入学したという。モータースポーツ活動が評価されたのかと思いきや、「中学の成績は“オール5”でしたし、学校推薦もあったから合格したように思います。もちろん、レーシングカートの実績も評価されたと思いますが」と、話す。

慶應義塾志木高等学校に入学した頃の佐々木は、プロレーシングドライバーになるとは思ってもいなかったという。そんな佐々木がなぜ今、SUPER GTのドライバーとして活躍しているのか? 後編に続く。

文・稲垣 邦康(GQ) 写真・安井宏充(Weekend.)

<現代レーサー物語 過去記事>

・武藤英紀編 前編後編

・平手晃平編 前編後編

2006年、全日本カート選手権ICAクラスで4連勝した佐々木。4連勝目の舞台は最上川サーキット(現:カートソレイユ最上川、山形県東田川郡)。

2006年、全日本カート選手権ICAクラスで4連勝したときのワンシーン。

2006年、全日本カート選手権ICAクラスの茂原ツインサーキット(千葉県茂原市)戦で優勝したとき。