世界から見た原子力安全・保安院
石川迪夫● (財)原子力発電技術機構技術顧問

 世界で運転中の原発総数が約四五〇基、そのうち五二基を日本が保有する。シェアー率一二%、世界第三位の原発大国なのだ。

  運転中
原子力施設
1 米国 103
2 フランス 57
3 日本 52
4 英国 33
5 ロシア 30
6 ドイツ 19
7 韓国 16
8 カナダ 14
9 ウクライナ 13
10 スウェーデン 11
「世界の原子力発電開発の動向2001年次報告」
((財)日本原子力産業会議)
 表を眺めてほしい。相撲にたとえれば、第一位の米国は断トツの横綱だ。フランスと日本はチョボチョボの大関、次いで英国、ロシアの関脇、ドイツ、韓国などが小結、前頭上位というところだ。原子力安全・保安院は原子力安全に関して世界の大関なのだ。胸を張って仕事をしてほしい。
 原子力問題の本質は、原発に具備されている安全の実体と、世間が抱く不安感の間の乖離が甚だしいところにある。これは新しい文化に対する社会の一時的拒否反応ともいうべきもので、いつの時代にもある問題だ。古くは仏教伝来において、最近では開国にともなう西欧文明の流入において、われわれは経験している。いずれの場合も一〇〇年ほどの歳月が同化解決している。原子力も同じだろう。ただ、世界的規模での反応だから、その症状は多彩だし、解決までには多大の時間がかかるだろう。保安院の業務は永いのだ。慌てず騒がずどっしりと、世界と協調しながら、科学技術を信じて進めばよい。
 安全の実体を述べれば、原子力は他産業、たとえば航空や水力発電と比較して格段に高い。それは米国ラスムッセン教授の試算に示されている。事故発生確率と死亡者の関数として安全を論じれば、千倍から一万倍くらい原子力は低いという。実績からいっても死亡事故は過去一回だけだ。この理由は安全設計に意を注いだ結果だ。
 原発では、事故や故障が起きた時にその影響を阻止緩和するための安全設備を、多重に互いに独立させて配備している。これを設計で徹底させたのだ。低い数字はその結果だ。不思議でもなんでもない。この安全設計法は八五年に国際原子力機関(IAEA)の基準(NUSS)として集大成され、世界で広く使われている。日本の基準がNUSSと同等であることはいうまでもない。
 百日の説法もなんとやら。この安全への努力も一つの原子力災害で吹き飛んでしまった。八六年のチェルノブイリ事故がそれだ。NUSS基準とはおおよそかけ離れた欠陥炉であっても、事故は事故だ。原発への不信感が世界中で広がった。事故の原因はいくつもの規則違反が重なって、脆弱な安全設備の能力を凌駕したため起こったものだ。原子力界の得た教訓は「安全設計を超えた事故は起こり得る」であった。以降世界の安全界は新しい方向に向かう。それは機械設備に信を置いてきた安全に人間を加えるというものだ。
 その一つが原子力防災だ。苛酷事故を想定した運転操作要領や、住民の退避を視野に入れた緊急時対応など、万一を慮っての準備がそれだ。昨年九月十一日以降話題のテロ対応などもこのジャンルに入るものだ。
 今一つは、設計や製作、運転や保守などの実働作業において、より安全を高める制度習慣を学習し、改善を図るという不断の努力要求だ。「安全文化」などという新造語が幅をきかせている所以だ。世界の安全界の今日の動向はこの二つだ。
 チェルノブイリ事故の影響は、地理的に近いヨーロッパで大きかった。旧ソ連型原発の閉止を求める声は今でも強い。東西の併合時、ドイツ政府は旧ソ連型原発をすべて閉止した。そんな声の第二弾が安全条約だ。チェルノブイリ事故が国境を越えた放射線影響を及ぼしたことに鑑み、原発保有国には安全を担保する国際的責任があるとの合意が出発点だった。原発保有国は安全を確保する上での、法令、規制組織、安全基準などを整備し、安全優先の原則を実行し、放射線防護や品質管理などの実務制度を整える義務があるというわけだ。条約参加国は、おおよそ原発の安全にかかるすべての活動状況について、三年ごとに報告書を提出し、相互のピアー・レビューを受ける、これが条約の内容だ。
 この四月、第二回目のレビュー会合が終わったところだが、結論から述べると、条約は忠実に実行され多大の成果をあげている。具体的に言えば、東欧諸国は乏しい財布をはたいて、旧ソ連製原発の改善を行い、おおよそNUSSの示すところの安全レベルにまで近づけたのだ。法令の整備や規制機関の拡充も多くの国で進んだ。
 この原動力は、第一回の真摯なレビュー振りにあった。自信満々答弁に立った原発大国の安全責任者たちは、いずれも鋭い質問に冷や汗を流したのだ。どの国も安全に完全はない、この責任者たちの思いが成功のバネになっている。
 第一回目は一五〇名だった参加者が四〇〇名に増えた。自国の発表と全体会議の時しか出席しなかった各国の責任者たちが、今回は二週間の長丁場の会議を休むことなく出席した。これが何よりの成功の証左だろう。嬉しい話ではないか。
 安全設備が改善され、法令や規制状況も整った。安全を守る基盤と体制ができあがった。となると、次の仕事はそれらに携わる人間の質の向上だ。先ほど述べた安全文化の育成、安全への人間関与のあり方など内なる問題に焦点が合わされるのは当然の帰着だ。
 これまでの機械設備を相手にした安全設計や品質管理などとは異なり、人間が相手となれば解は一つではない。有効な方策は国により人により異なる。試行錯誤が必要であり、誤りを改める勇気を必要とする。これまでの役所の、絶対間違いを犯してはならないとの不文律とは、全く方向を異にする。
 三年後の安全条約レビューでは、恐らくこの問題が主戦場となろう。規制組織の品質問題も取り沙汰されるだろう。各国規制組織が自己流を改め、互いに良い慣行を学び合うのが第一目的だが、今一つに規制のための規制(一口に言えば役人の責任逃れの規制)を排除し、国民のための規制を確立するという面での議論も活発に行われよう。既に欧州諸国では、規制組織同志が交流し、互いにピアー・レビューを実施し合っている。誇り高い日本の官僚諸君にとっては厳しい話だ。
 運転管理面における安全確保の方法は、今各国が苦しんで模索しているところだ。米国におけるリスク規制もその現われの一つだ。リスクの大きいものに限り規制が関与するという施策だが、これが産業界の意欲を高め、良好な運転実績となって現われている。
 わが国の検査制度の見直しは時宜を得た施策だ。細かい話だが熱出力一定運転の採用も世界の潮流に合っている。通産省時代から着手してきた定期安全レビュー、高経年炉の劣化対策などは、世界の先端を走っている。過不足はあるが、保安院の業務全般の動向は世界の潮流に伍して進んでいる。自信をもってよい。
 最後にアドバイスだが、米国NRCの轍を踏まぬことだ。NRCは一時、あまりにも規制の完全性を追い求めるあまり、かえって肝心の原子力発電を窒息状態に追い込んでしまった。角を橋めて牛を殺す愚を犯したわけだ。今、その反省に立って改善が進められている。保安院の独立は慶賀すべきことだが、張りきりすぎて規制のバランスを失うと原子力そのものをだめにする。難しいところだが、佐々木院長の標榜する「科学的合理的規制」を踏み外さぬことが肝要だ。