明治38年(1905)中区西新町に「愛知淑徳女学校」が開設された。翌、明治39年(1906)「私立愛知淑徳高等女学校」に昇格し、校舎を東新町に移した。当時愛知県内で高等女学校となっていたのは、愛知県立、名古屋市立、豊橋町立の3校だけで、私立では淑徳が初めての高等女学校であった。
創設者は、小林清作であるが、その義母の吉森梅子の力が大きかった。吉森梅子は、万延元年(1860)京都の米穀商の家に生まれ、西陣織りの刷毛問屋の吉森家に嫁いだ。彼女は、自らの教養を高めるために、京都の各寺院を訪れ、仏教の要諦修得の努力を続けた。その結果、彼女は京都仏教界で「女達磨」と称されるほどになり、仏教の布教を通じ、社会事業に貢献した。梅子の一人娘の八重が、東大卒業後、京都日出新聞の主筆をつとめていた小林清作に嫁いでいた。
日露戦争が終結する頃、吉森商店の支店が、名古屋白塀町(現西区花ノ木)にあった関係で、梅子は知恩院の執事とともに来名し、白壁3丁目に住んで仏教布教に専心した。その活動を通して、長者町の資産家三輪常七と縁ができた。三輪家の娘が学校不足で進学できないことを知り、女婿の小林清作を呼び寄せ、三輪の資金援助を得て、短期日の内に学校創設を実現させたのである。
西新町(現東区東桜1丁目)の一角で、校主三輪常七、校長小林清作、幹事兼舎監吉森梅子(当時46歳)の陣容で順調にことが進んだ。梅子は校長を補佐し、寄宿生活を通じて、多数の寮生の訓育に当たった。洋画家三岸節子もその一人であった(1921年卒業)。
学園は西新町−東新町から昭和3年(1928)池下に移転(現在の厚生年金会館の地である)。梅子は昭和12年(1937)池下の寄宿舎において没した。
戦後、愛知淑徳中学校、高等学校となり、昭和34年(1959)千種区桜が丘に校地を移した。
愛知淑徳学園は、昨年、創立百周年を迎えている。
東新町校舎。
明治43年の地図。赤色部分(東新尋常小学校北)に東新町校舎があった。
0