話の肖像画

精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<10> 僕らはだんだん倦んでいった

ザ・フォーク・クルセダーズ(本人左)は超多忙のスケジュールに追われた=昭和43年2月
ザ・フォーク・クルセダーズ(本人左)は超多忙のスケジュールに追われた=昭和43年2月

《突如、発売中止が決まった『イムジン河(がわ)』に代わるザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の第2弾シングルとして、『悲しくてやりきれない』が昭和43(1968)年3月にリリースされた。加藤和彦さんが〝カンヅメ〟になって大急ぎで曲を仕上げ、詞は大御所のサトウハチローさんに頼んだ。今に歌い継がれる名曲だが、レコードセールスは20万枚に届かず、中ヒットにとどまる》

僕らはだんだん、倦(う)んでいったのだと思う。『帰って来たヨッパライ』ばかり演(や)らされるのもイヤだったし、『イムジン河』の発売中止騒動で傷ついてもいた。そして、映画(『帰って来たヨッパライ』、大島渚(なぎさ)監督)の失敗…。

それなのに相変わらずスケジュールはすごい。その上、練習もしないといけない。プロになってから加入した、はしだ(のりひこ)はアマチュア時代のレパートリーを知らないから、コンサートをやるにも曲が足りないのです。もう途中からみんなシラけていた気がしますね。加藤と、はしだの関係にも亀裂が生じていました。

《約束の1年が近づく》

はしだは「その後」を考えていたと思います。何しろ解散(フェアウェル)コンサート(※43年10月、全国各地で開催)で、次のバンド(「はしだのりひことシューベルツ」)のデビュー曲(『風』、詞はきたやまさん)が用意されていたのですからね。おかしな話ですが、それがレコード会社の戦略だったのでしょう。加藤はどうするのか、見えませんでした。

(プロの)フォークルの1年はあれほど忙しかったのに、僕らにお金は残らなかった。本格的なマネジャーは不在。グルメの加藤を納得させるため?の〝ランニングコスト〟もかかる(笑)。経済的に(収支が)合わないのです。まぁ、アマチュア時代の自主制作アルバム「ハレンチ」を制作するときにオヤジに借りた20万円を返すくらいのお金はもらいましたけど。

最後は、九州でキャバレー回りですよ。ギャラが良かったんでしょうね。アントニオ古賀さん(※16年生まれ、歌手・ギタリスト)の前座をやったこともありましたねぇ。

《フォークルは43年秋に当初の約束通り、事実上解散。10月26日、きたやまさんは、横浜港からシベリア回りでヨーロッパへと旅立つ。12月にはフォークル最後のシングル『青年は荒野をめざす』(作詞・五木寛之、作曲・加藤和彦)がリリースされる。音楽界も「変化のとき」を迎えていた》

後に深夜放送のパーソナリティーを辞めるとき(47年)に後藤由多加(ゆたか)(※24年生まれ、吉田拓郎さんやかぐや姫が所属したユイ音楽工房社長を務め、拓郎さんや井上陽水さんらによるフォーライフレコードの設立にも関わった)にこう言われました。「きたやまさんはいいときに辞めますよ」って。

(音楽業界は)もう僕らの手に負えないモノになっていたからです。現在のドームコンサートのように、何万人もの観客が集まるイベントをやるにはものすごい「管理」が必要なのに僕らにはその発想がない。

その象徴が中津川(なかつがわ)のコンサート(※46年、岐阜県で開催された第3回全日本フォークジャンボリー、2万人以上の観客が集まった)の騒ぎでしょう。拓郎と岡林(信康)の両陣営に観客がわかれて、会場は殺気だった雰囲気となり、「帰れ」「帰れ」の怒号が飛び交う…。僕は観客としての参加でしたが、恐怖を感じましたね。

そして、拓郎や陽水らの登場によって、「時代」は明らかに変わってゆくのです。

(聞き手 喜多由浩)

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