トップ 特集 テーマで行く旅 海外旅行 国内旅行 特選

愛の旅人

「細川ガラシア夫人」
»〈ふたり〉へ細川ガラシャと忠興―京都・味土野/大阪・玉造

 京都・宮津から、天橋立(あまのはしだて)をつたうようにして対岸へ渡り、丹後半島の山中に車で1時間余り分け入る。住宅や田畑といった人の気配が次第に間遠になり、緑ばかりが濃くなっていく。

写真

ガラシャ最期の地、細川屋敷跡に立つカトリック玉造教会の大聖堂で、日曜のミサが行われていた。堂内にはガラシャの姿がそこここに=大阪市中央区で

写真

ガラシャが幽閉されていた味土野には、深い山中に石碑だけが立っていた=京都府京丹後市で

写真

復元された勝竜寺城の堀=京都府長岡京市で

図

  

 京丹後市弥栄(やさか)町の味土野(みどの)地区。谷の奥の細い道を登りきったところに「女城(めじろ)跡」はあった。1582(天正10)年夏から約2年間、宮津城主細川忠興(ただおき)の妻・玉が隠れ住んだところだ。小さな丘の上にこぎれいな空間が広がり、「細川忠興夫人隠棲(いんせい)地」の碑が立つ。ここに小さな館があったらしい。

 昭和初期の味土野には約40戸が点在したというが、現在はわずか3戸。豪雪などで住民が次々と去り、分校も閉鎖された。夏の涼風とそばが好評だった分校跡の「ガラシャ荘」も、閉鎖されて久しいという。

 本能寺に織田信長を討った玉の父・明智光秀は、10日余りののち、謀反人として非業の最期を遂げた。「謀反人の娘」となった妻を、忠興は家臣と侍女をつけて味土野へ送った。

 政略結婚だらけの戦国時代。実家が敵方となった嫁は実家に帰されたり、殺されたりするのが常だった。まして謀反人の家族は根絶やしが「常識」。しかし、忠興は玉を隠した。

 女城と向き合う斜面には護衛のための男城(おじろ)を設け、織田方、明智方からの襲撃に備えた。「この美しい宝は誰にも渡さぬ」。楊貴妃桜のようにあでやかな美貌(びぼう)、とうたわれた妻への、忠興の並々ならぬ思いを感じる。

 琵琶湖畔の坂本城(大津市)、堀のある勝龍寺城(京都府長岡京市)、天橋立を望む海辺にある宮津城――広々とした水のある風景の中で暮らしてきた20歳の玉は、ここでの暮らしをどう受け止めただろうか。

 2年後、天下人となった父の敵・羽柴(豊臣)秀吉に許された玉は、大坂城にほど近い忠興の屋敷に入り、夫や2人の子どもと再会した。

 だが、ともに教養が高く、激しさをもち、仲が良かったという夫婦仲は、様変わりしていた。忠興が留守中に側室を置いたのも一因だったが、玉自身も大きく変わっていたのだろう。

 玉は2児を次々と産んだが、「籠(かご)の鳥」でもあった。独占欲が強い上、玉の美しさが女好きの秀吉の目に触れることを恐れた忠興は、外出を禁じた。

 玉は心のよりどころを求め、1587(天正15)年、キリスト教の洗礼を受けた。細川ガラシャの誕生である。

 悲しみに心を閉ざし、怒りっぽく無愛想だったという玉は、明るく柔和で、辛抱強く愛らしく「別人のようになった」と修道士の書簡は伝える。

 「困難に出会って人の徳は最もよく磨かれ、美しい光彩を放つようになる」との教えで心は定まった――1939(昭和14)年に戯曲「細川ガラシア夫人」を書いたヘルマン・ホイベルス神父は、序にそう記した。

 玉は、輝きを取り戻し始めた。

花散らし乱世生き抜く

 大坂城の南、玉造(たまつくり)(大阪市中央区)の細川屋敷で、ガラシャ(玉)は、16年間ほとんど外に出ることなく、キリスト教を学び、洗礼を受けた。

 その敷地の一部に、白壁のカトリック玉造教会が立つ。入り口にはガラシャ像がたたずむ。大聖堂の正面に掲げられた壁画には聖母マリアのそばにガラシャが描かれ、炎に包まれた中で最期の祈りをささげる姿の壁画もある。

 細川邸跡を意識することなく建てられたが、1963年に建て替えた際に、親しまれる教会にしようと飾られた。神父の神林宏和さん(68)は「地元ではガラシャへの関心が強いのです。数年前までは顕彰祭があって司祭が招かれていましたよ」と説明する。

♪  ♪  ♪

 しかし長い間、カトリック教会内でのガラシャの立場は微妙だった。教えが禁じている自殺をしたと考えられていたからだ。「江戸幕府のキリシタン迫害で、記録が少なかったために誤解されたんですね」と神林さんは言う。

 ローマ法王庁の古文書館に残る、和紙に細筆でつづった宣教師たちの手紙などを調べてガラシャの実像に迫り、自殺ではないという観点で戯曲を書いたのが、上智大の学長だったヘルマン・ホイベルス神父だった。

 ガラシャ隠棲(いんせい)の地・味土野の発見にも一役買ったホイベルス神父は、それまで「自害して夫と家を守った貞女の鑑(かがみ)」とだけ伝えられていたガラシャ像に、血を通わせた。

 教会から大坂城へ向かう道路脇に、ガラシャも使ったとされる井戸「越中井」があり、徳富蘇峰の筆によるガラシャ辞世の歌が刻まれた碑が立つ。

 〈散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ〉

 その「時」を決めたのは、夫忠興だった。

 忠興は常々、屋敷を離れる時は「万一妻に危険が及んだら、妻を殺して切腹せよ」と家臣に言い置いた。美しい妻を誰にも渡すまいとしたのだろう。

 ガラシャもそのことを知った上で、武将の妻として、キリシタンとしてふさわしく死ぬにはどうしたらよいかと、神父に手紙で相談していた。

 徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が激突した関ケ原合戦の前夜、忠興が徳川軍に加わるために出陣した時も、そうだった。

 家康を背後から攻めようとした三成は、徳川軍の混乱を狙い、留守宅の妻を人質にしようと、まず忠興の屋敷を囲んだ。ガラシャは子どもや侍女を逃がし、家臣の刃を受けて死去。屋敷には火が放たれ、焼け落ちた。1600(慶長5)年7月17日、38歳だった。

 スペイン出身のキリシタン史研究者で、日本二十六聖人記念館(長崎市)の前館長、結城了悟(りょうご)さん(83)は「彼女はキリシタンとして死にましたが、それは信仰ではなく、夫のための死でした」と話す。ガラシャの死によって、他家から人質を取れなくなったばかりか、人心まで失った三成は大敗。忠興は家康の信用を勝ち得た。

♪  ♪  ♪

 忠興は、宣教師ルイス・フロイスの書簡に「生来非常に乱暴で、特に嫉妬(しっと)深く、邸の中で厳格」と書かれ、ガラシャや侍女たちの信仰を邪魔する悪役として登場することが多い。

 「でも、宣教師の手紙には、ガラシャは初め、忠興を通して、高山右近が語ったキリスト教の教えに触れたとあるのも確かです」と結城さんは言う。秀吉のキリシタン弾圧が緩むと、邸内に祈りの場を設けるなど、ガラシャの信仰に理解を示すこともあった。

 細川家には、ふたりの愛の遺品がわずかながらも残る。ガラシャが仕立てたという忠興の上着、その中に入っていたガラシャ手描きの墨絵をあしらった袱紗(ふくさ)、忠興が亡きガラシャのために作らせたとみられる南蛮鐘……。現当主の元首相、細川護熙さん(68)は「幕府の手前、足跡を意識的に消したということもあるのか、ガラシャの史料はわずかですが、ふたりは大変信頼しあっていたと思いますよ」と話す。

♪  ♪  ♪

 忠興はガラシャの死の1年後、大坂でキリスト教式の葬儀を営み、涙を流した。新領地となった小倉(北九州市)にも、ガラシャと文通していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を同行させた。教会を建て、ガラシャの命日にはミサをあげてもらうなど、妻をしのび、キリスト教のよき理解者としてふるまった。

 しかし、1610(慶長15)年ごろ幕府のキリシタン弾圧が強まると一変。セスペデス神父の急死や禁教令を機に迫害に転じた。

 時流を読み、したたかに乱世を泳ぎ切った忠興は、押しも押されもせぬ大大名となり、83歳で死んだ。

 ふたりの墓は、熊本と京都の寺で、寄り添うように立っている。

文・魚住ゆかり 写真・荒元忠彦
(06/24)
〈ふたり〉

 織田信長寵愛(ちょうあい)の若武者と絶世の美女。しかも父同士は親しい友人――1578(天正6)年、信長の媒酌で結婚した明智光秀の三女・玉と細川藤孝(幽斎)の長男・忠興は、ともに16歳(数え)だった。

 当代一流の文化人を父に持つ忠興は、教養が高く、後に千利休の高弟7人(利休七哲)に挙げられた。武将としても優秀で、血の気は多かったようだ。美しい上に、頭も良く気が強かった玉とは、仲のよい夫婦だったというが、こんな話も残る。

 忠興が、玉の側近くにいた下僕を手討ちにし、刀の血を玉の小袖でぬぐった。玉は顔色も変えず、忠興が謝るまでの数日、その小袖を着続けた。「蛇のような女じゃ」という忠興に、「鬼の女房には蛇が似合いでしょう」と応じた(「綿考輯録(しゅうろく)」)。

 「ガラシャ」はラテン語で恩寵(おんちょう)という意味。玉は、豊臣秀吉がバテレン追放令を出した直後に洗礼を受けた。キリスト教徒は自害できないため、1600(慶長5)年、家臣の刃を受けて亡くなった。

 ふたりは3男2女に恵まれたが、長男忠隆と次男興秋は玉の死後廃嫡。三男忠利が家督を継いだ。



ここからツアー検索です

ツアー検索

情報提供元 BBI
ツアー検索終わり ここから広告です
広告終わり

特集記事

中国特集へ
ドイツ年特集へ
∧このページのトップに戻る
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。 Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.