親台湾派議員の総帥に
「群雀中の一鶴」灘尾弘吉(4)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕
灘尾弘吉は1962年(昭和37年)8月、派閥横断的な政策勉強会「金曜会」を立ち上げた。石井派の広瀬正雄、長谷川峻、坂田道太らのほか、旧内務省の後輩である高見三郎(池田派)、後に奥野誠亮(無派閥)、親台湾派の藤尾正行(河野派)らも加わり、会員は次第に増えて70人近くに及んだ。通称「灘尾学校」とも呼ばれた金曜会は自民党の派閥政治に対する灘尾流の一種のレジスタンスであった。金曜会事務所は平河町の全共連ビルにあった。
派閥横断の「金曜会」を主宰
当時、福田赳夫らが派閥解消などを求めて「党風刷新懇話会」を結成したが、これは池田政権打倒運動と見られていた。灘尾の金曜会はそうした政局の思惑抜きの純粋の勉強会であることが特徴だった。金曜会は灘尾が政界を引退するまで20年間も続いた。灘尾は「金曜会は今まで長く続いている。なぜ続くかといえば、生臭い話はしたことがないからであると思う。国の政策を考える研究をもっぱらとして、専門家に来ていただいてさまざまな知識を得て、それらを私どもの"こやし"にさせていただいている。"政策"とか"研究会"と名のついた政治家の集まりのほうが派閥次元で動くための集会となっているのは皮肉というほかない」述べている。
同年11月、池田勇人首相は自民党の前尾繁三郎幹事長の進言を入れて、自民党の組織調査会長に三木武夫を任命して党の近代化案について諮問した。三木から「池田さんから"万事まかす"と言われたのだから、いいものを作ろうじゃないか。ついては君も協力してくれないか」と要請され、灘尾は同調査会の団結小委員会の委員長になった。自民党の組織調査会は政党、選挙、党組織、資金、団結の5つの小委員会を設けて昭和38年10月に最終答申をまとめた。これがいわゆる「三木答申」である。
三木答申は「われわれが、これだけはどうしても実現しなければならぬと決意し希望している一事がある。『派閥解消』である」「この際は一切の面倒な説明は抜きにして、現在の派閥集団はその名称、その内容、その活動のいかんにかかわらず、すべてこれを解消して出直すという直截(ちょくせつ)簡明な行動をとることが、自民党の信頼を回復し、近代政党建設の新基盤をつくるゆえんであることを確信する」などとうたった。各派の抵抗で実行はされなかったが、灘尾は「三木さんは党大会で、改革の灯は消してはならぬ旨の演説をした。あの時の演説は名演説だったと思う」と述べている。
1966年(昭和41年)の自民党総裁選で佐藤栄作首相が再選されたが、この総裁選で立候補表明もしていない灘尾の名前を書いた票が11票も出て話題になった。派閥政治に対する一服の清涼剤のように受け止められた。灘尾自身は「私も入れていたら12票になった」と珍しくジョークを飛ばした。
社会福祉団体のトップに
清廉・謹直な灘尾には次々と役職が舞い込んだ。昭和32年に「赤い羽根」の中央共同募金会の会長になった。灘尾は長年、街頭に出て赤い羽根募金運動の先頭に立った。昭和34年には内務省の大先輩である田子一民(戦前の衆議院議長、戦後農相)の後を受けて全国社会福祉協議会(全社協)の会長になった。昭和37年には全国老人クラブ連合会の会長も引き受けた。昭和40年には日本身体障害者団体連合会の会長に推された。
灘尾はそうした役職を政界引退間際まで、あるいは死去の間際まで務め続けた。「私が社会福祉の仕事に関係してきたとはいえ、本当にそれを遂行するのは、社会福祉施設で働く人、民生委員、ボランティアの人たち等々、現場で一身をなげうって、日夜努力しておられる人たちなのである。私はそうした人たちを見るにつけ、自分にはとてもやれないと思う」「社会福祉の仕事を『やってみなさい』と言われて『できる』と答えられるだろうか。私としては、わずかなりともお手伝いできれば、の気持ちでお引き受けしているのである」と記している。
畑違いの役職もあった。昭和37年10月、自民党の海運再建懇談会の会長になった。海運再建の音頭をとったのは賀屋興宣政調会長である。賀屋は灘尾にとって広島中学―一高・東大の大先輩である。大蔵次官を経て近衛内閣と東条内閣で蔵相となり、A級戦犯として無期懲役の刑を受け、昭和30年に巣鴨刑務所を出所して政界にカムバックしてきた。海運業界には造船疑獄の苦い経験があった。賀屋は「灘尾君は頭のいい、仕事のできる人間であることは間違いない。なぜ彼をもってきたかというのは全く灘尾君の清廉なる人格を主にした考え方である」と述べている。
賀屋は人脈的には岸・佐藤兄弟に近かったが、池田にとっても同郷、大蔵省の大先輩であり、池田内閣で政調会長、法相を歴任して政界の惑星的存在であった。その賀屋が中心になって昭和40年、自民党のタカ派・親台湾派議員を結集したアジア問題研究会(A研)が設立され、灘尾も主要なメンバーとして参加した。党内最左派の宇都宮徳馬はハト派・親中派議員を結集したアジア・アフリカ問題研究会(A・A研)を設立し、灘尾と内務省の僚友だった古井喜実がその主要メンバーになった。古井は松村謙三譲りの筋金入りの親中派だった。
内務省時代のもう1人の僚友・町村金五はこのころ、北海道知事を務めていた。昭和34年4月、地元の強い要望を受けて知事選に出馬して当選し、3期知事を務めて国政に復帰したのは昭和46年6月の参議院議員選挙の時であった。
日華議員懇談会の会長に就任
佐藤内閣の最大の課題である沖縄返還問題で当時の三木外相は「核抜き本土並み」を求めるかどうかで苦慮していた。対米配慮を優先する外務当局は「実現は無理」との立場だった。灘尾は三木外相に次のように助言した。「核抜き本土並みは当たり前で、議論の余地はないじゃないか。沖縄が日本に戻るということは46都道府県が1つ増えて47になるということだ。従って沖縄県にも他の府県と同様に同じ憲法、同じ法律・条約が平等に適用されるということだ。非核三原則が沖縄に及ぶのは当然じゃないか」。いかにも内務官僚的な発想であったが、三木外相は思わず「なるほど」とうなずいた。
1972年(昭和47年)10月、田中角栄首相は訪中して日中国交正常化を成し遂げた。それと同時に大平正芳外相は台湾との国交断絶を発表した。自民党の親台湾派議員はこれに憤り、昭和48年3月に台湾との経済的・文化的関係を維持するため「日華議員懇談会」を結成し、灘尾はその会長に就任した。灘尾と台湾との関係は緒方竹虎、石井光次郎以来の関係を引き継いだものであり、親台湾派の有力者だった賀屋が昭和47年に政界を引退したこともあって灘尾は親台湾派議員の総帥の立場に立った。
灘尾は昭和34年11月に石井に勧められて初めて台湾を訪問し、蒋介石総統と会談して以来、しばしば台湾を訪問した。蒋介石が終戦直後に日本に示した寛大な措置に対して「蒋介石さんの恩義を日本人が忘れるようじゃ話になりません」と語っていた。日中国交回復後は「台湾との経済的、文化的関係を維持するのは日本の国益のためである」との信念で行動した。晩年は中国からも招待の動きがあったが「私が大陸に行くと台湾の人たちが悲しむから」と一度も中国には行かなかった。
田中内閣は1974年(昭和49年)7月の参議院選挙で金権批判を浴び、田中の金脈問題が表面化して行き詰まった。後継問題が騒がしくなる中、灘尾は同年10月29日、蒋介石総統の米寿を祝うため、自民党衆参両院議員74人を含む大型使節団を率いて訪台した。この中には福田派の松野頼三、藤尾正行、田中派の金丸信、三木派の毛利松平、椎名派の長谷川四郎、水田派の三原朝雄、青嵐会の中川一郎、玉置和郎らが加わり、台北でも後継問題をめぐり各派が虚々実々の駆け引きを展開した。=続く
灘尾弘吉著「私の履歴書」(82年日本経済新聞社)
高多清在著「灘尾弘吉(広島県名誉県民小伝集)」(91年広島県)
灘尾弘吉先生追悼集編集委員会編「灘尾弘吉先生追悼集」(96年同編集委員会)
賀屋興宣著「戦前・戦後八十年」(76年経済往来社)
※写真は「灘尾弘吉先生追悼集」より