<考える広場>吉田拓郎が拓いた地平

2022年10月4日 06時49分
 シンガー・ソングライター吉田拓郎が引退を表明した。音楽のジャンルを超えて楽曲を提供し、小室等、井上陽水、泉谷しげるとともにフォーライフレコードを設立、大規模なオールナイト野外コンサートを開いた拓郎。時に批判や反発も受けながら、彼が進んできた道とは。

<吉田拓郎> 1946年、鹿児島県生まれ、広島県育ち。70年に「イメージの詩」でデビュー。72年に「結婚しようよ」「旅の宿」がヒットした。74年には作曲を担当し、森進一が歌った「襟裳岬」が日本レコード大賞を受賞。75年、フォーライフレコード設立に参加。同年、静岡県でオールナイト野外コンサートを開き、約6万人が集まった。今年6月、ラストアルバム「ah-面白かった」をリリース。

◆魂の叫び持つ歌い手 シンガー・ソングライター 原田真二さん

 僕にとって吉田拓郎さんは、プロになるチャンスをくれた方です。一九七五年にフォーライフレコードができて、オーディションがありました。音楽漬けの高校二年生だった僕は、オリジナル曲をカセットテープに録音して送りました。
 当時のオーディションは、ヤマハのポピュラーソングコンテストを除けば、歌謡曲の歌手が対象でした。僕は、シンガー・ソングライターを目指していました。アーティストが作ったフォーライフなら…。そう思って応募を決めました。
 デビュー曲は拓郎さんのプロデュースです。デビュー曲を選ぶ時、意見が割れました。僕はオリジナル曲でいきたい。拓郎さんは自分が書いた方がいいだろう、と。ホテルの部屋で一晩中ミーティングをしても決まらず、夜が明けて外に出ると、拓郎さんにプールに突き落とされました。おまえの曲でいくぞという意味だったのでしょう。
 レコーディングに入ると、自由にやらせてもらえました。拓郎さんは「わしには真二の歌は分からん」と言いながら、自由な環境を作ってくれたんです。僕の音楽性を引き出すような方向でプロデュースしていただいたのだと思います。
 吉田拓郎というアーティストは、時代を築いた偉大な方です。個性の強い声や歌い方、オリジナリティーあふれる音楽の世界。女性、男性を問わず幅広いファンに、時代を超えて今も支持されています。すごいとしか言いようがありません。
 拓郎さんは、魂の叫びを持って歌われます。「ソウルシンガー」と言ってもいいんじゃないでしょうか。黒人音楽のジャンルとしてのソウルということではなく、もっと大きな本来の意味での「ソウル」です。
 他の歌手にも拓郎さんは、多くの楽曲を提供されています。誰が歌っても、これは拓郎さんが作った曲だと分かりますよね。例えば、キャンディーズが歌った曲にも、そのメロディーセンスが表れています。
 デビュー前にスタジオで録音していた時、拓郎さん、小室等さん、井上陽水さん、泉谷しげるさんが見に来てくださいました。その方々がフォーライフを作ってくれたからこそ、僕もそこに向かって進んでいけました。デビュー前の楽しかった時間も含め、拓郎さんには本当に感謝しています。(聞き手・越智俊至)

<はらだ・しんじ> 1958年、広島県生まれ。77年に「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。プロデューサーは吉田拓郎だった。デビュー45周年記念ライブを11月4日午後7時から新宿ReNYで開く。

◆若者の感情 リアルに 漫画家 柴門ふみさん

 吉田拓郎さんがデビューした一九七〇年ごろ、私は中学生でした。そのころ流れていた音楽は、学生運動の中から生まれたフォークソング。ちょっとおませだった私は若者たちのフォークを応援してましたが、乱暴な感じは嫌で。そこに、拓郎さんがフォークの流れでデビューしたのです。
 何がすごいって、かわいらしかったんです(笑)。太陽みたいな笑顔にほれました。それまでフォークを歌う人はむさ苦しい印象だったし、歌も「立ち上がれ、若者よ!」とあおる感じでイデオロギー色も強かった。
 一方で、当時は歌謡曲も商業的な歌としてありました。ただ、男と女の色恋沙汰は夜のネオン街にしかないような世界観で。そこに拓郎さんが、もうちょっとポピュラーな心情、若者のリアルな恋愛感情までも歌った。だから私を含めて若者たちは、「これは私たちの音楽だ」と飛び付いたのです。拓郎さんの影響力は大きくて、同級生の男の子たちはギターを弾き始めてましたね。私はすぐに諦めましたが(笑)。歌詞にホワイトジーンとあると、こぞって買いに行きましたね。
 七二年に大ヒットした「結婚しようよ」は画期的でした。それまでフォークはレコード業界の対極にあったのに、レコードランキングで上位になってメジャーで認められたからです。大人は反抗的な若造が…とびっくり。一方で、フォークのコアなファンは「商業主義に身を売った」と反発したんです。
 そんな時に出たアルバム「元気です。」に寄せたメッセージには、たたかれていた時の心情が書かれているんですね。私の最初の連載「P・S・元気です、俊平」は、実はこれからもらっているんです。毎回、「今回はこんなことがあったけど、でも僕は元気です、俊平」で終わるんです。笑顔がかわいくて、ちょっとシャイで傷つきやすいところもある。でも、一周回って「元気です」と言えるポジティブさ。そんな男の子がすごく好きで、二十代のころは漫画によく描きました。
 拓郎さんの歌には達観した老成感を感じます。一方で、ラジオで聞く声やインタビュー記事を読むと、少年の無邪気さと豪放な感じもある。その両極端な面が一人の人間に収まっていて、そこにもひかれるのでしょうね。まさに、拓郎は私の青春でした! (聞き手・飯田樹与)

<さいもん・ふみ> 1957年、徳島県生まれ。79年、デビュー。代表作は『東京ラブストーリー』『恋する母たち』など。ビッグコミックオリジナルで「薔薇(ばら)村へようこそ」を連載中。

◆終始自分を歌う強さ 音楽評論家 小川真一さん 

 吉田拓郎を一語で評するなら「イノベーター」でしょう。まだ、文語調の歌詞が残っていた時代に、終始、自分(ミー)のことしか歌わない姿勢は新鮮でした。一九七二年の「結婚しようよ」が「日和(びよ)っている」とか「甘っちょろい」と酷評されたと言われていますが、実際は、友だち同士が結婚する「ニューファミリー」も増え、好意的に世の中に受け入れられていました。「イメージの詩(うた)」など初期の曲についても拓郎本人は「ぜんぶ自分のことを歌っているのであって、他人へのメッセージではない」と語っています。そう言い切れるのが、拓郎の強さだと思います。
 「結婚しようよ」は、歌詞もさることながら、サウンドが素晴らしかった。加藤和彦のスライドギターとアレンジ、松任谷正隆のハーモニウム(オルガン)…。才能を呼び寄せる力が拓郎にはあります。ボブ・ディランの(英国)ワイト島ライブに刺激を受けた(愛知県)篠島での離島ライブなどの大規模な野外コンサートを成功させることができたのも、優秀で情熱あふれるスタッフに恵まれたからでしょう。
 「結婚しようよ」で日本の歌謡界は、米国のポップスとようやく肩を並べることができたと思います。十八歳ぐらいのみずみずしさがある曲ですが、当時彼は二十六歳でした。ずいぶん聴き手を意識した曲作りをしています。キャンディーズなどに曲を提供したのもソングライターとしての自身の真価を問う意味があったのだと思います。
 拓郎のソングライターとしての遺伝子を受け継いでいるミュージシャンの筆頭が、あいみょんではないでしょうか。Jポップの歌詞がどんどん平たんで説明的になっていく中で、彼女は自分だけの言葉を使うことができ、しっかり行間がある。拓郎と同様の意外性が歌詞にあると思います。
 新譜「ah(あー)−面白かった」は、すごく余裕があって、悲壮感漂うラストアルバムも結構多い中で、良い作品に仕上がっていると思いました。引退の理由の一つに挙げている「シャウトができない」にしても、おそらく「できる時とできない時があるのは納得できない」ということであろうと思います。コンサートツアーからは退くにしても、新しいアルバムを聴くチャンスはゼロではないと期待しています。 (聞き手・中山敬三)

<おがわ・しんいち> 1951年、愛知県生まれ。フォーク、ロックの再発盤の解説を多数手掛ける。共著に『日本のフォーク完全読本』。近著は『フォークソングが教えてくれた』(マイナビ新書)。


関連キーワード


おすすめ情報