廃墟?遺産?ソ連のスペースシャトルが再び脚光

かつては自動操縦で地球軌道を1周したことも、世界の博物館で展示相次ぐ

2016.04.15
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ソ連は米国がスペースシャトルを軍事利用することを懸念し、自ら同様のシャトルを製造。米国からシャトルの情報を得るため、諜報も行われた。(PHOTOGRAPH BY RALPH MIREBS)
ソ連は米国がスペースシャトルを軍事利用することを懸念し、自ら同様のシャトルを製造。米国からシャトルの情報を得るため、諜報も行われた。(PHOTOGRAPH BY RALPH MIREBS)

 スペースシャトル計画は今や過去の歴史だが、シャトルに付けられた象徴的な名前は、人間が宇宙飛行に挑んだ記憶を今も呼び起こしてくれる。エンタープライズ、チャレンジャー、ブラン……、

 ブラン? そんなのあったかって?

 間違いなくあった。冷戦時代にソビエト連邦が製造したスペースシャトルだ。「ブラン計画」はソ連政府の資金が尽きるまで長期間続けられたが、ロシア語で「吹雪」を意味するブランの飛行はたった1度であり、それも短いものだった。1988年11月15日、無人のブランは地球を周回し、約3時間半のフライトを終えた。打ち上げは成功したものの、長年の努力の割には喧伝するほどの成果はなかった。とはいえ、ブランの物語はこれだけではない。

ギャラリー:廃墟?遺産?ソ連の「スペースシャトル」 写真11点(画像クリックでギャラリーページへ)
ギャラリー:廃墟?遺産?ソ連の「スペースシャトル」 写真11点(画像クリックでギャラリーページへ)
(PHOTOGRAPH BY RALPH MIREBS)

 ソ連の科学者たちは、再利用可能な宇宙船という構想を何十年も持ち続けていたが、1970年代初めに米国のスペースシャトル計画が前進すると、ソ連でも同じような宇宙船への関心が高まった(スペースシャトル計画が軌道に乗ったのは1981年4月のコロンビア号打ち上げが成功してからだ)。(参考記事:「初飛行、スペースシャトルの記憶」

「冷戦時代の競争の下で、とりわけ宇宙兵器の開発に遅れるという危機感から、ソ連は米国の成果に匹敵する物を作らなければならないという思いに駆られていました」と語るのは、米スミソニアン協会国立航空宇宙博物館の国際宇宙計画部門を担当する学芸員、キャスリーン・ルイス氏だ。

科学者たちはみな反対

 ソ連およびロシアの宇宙計画が専門のルイス氏は、「スペースシャトルは人工衛星を捕らえたり破壊したりするのに使われるのではないか、というのがソ連の憶測でした」と話す。「ソ連は米国の軍事技術に遅れを取るまいと全力を挙げている時代でしたから、自前のスペースシャトルを作って米国に対抗しようとしたのです」

 しかしこの決定は、宇宙計画に関わる多くの人にとって、腑に落ちないものだった。

「計画は、当時のソ連の宇宙科学の世界からは全面的な反対に遭いました」とルイス氏。ソ連の宇宙開発の中心にいた面々は、もっと見込みのある事業の資金をブランが浪費したと嘆いた。「ソ連の金星探査の成功が頂点に達していた時でもあり、同国の宇宙科学者たちに世界の目が注がれていたのです」(2016年4月12日は、ユーリ・ガガーリンが世界初の宇宙有人飛行を実現した日からちょうど55年という記念すべき日だった)(参考記事:「スプートニクから50年 宇宙開発次の一手」

 こうした反対にもかかわらず、ソ連政府は莫大な資源をブラン計画に投入した。

工場では何を作っているのか知らされず

 ブラン計画に関わった工学者、科学者、技術者その他の職員はピーク時には15万人を超え、しかも工場労働者たちの多くは当初、自分たちが何を作っているのかよく知らなかった。計画は秘密裏に始まったが、情報は間もなく漏れた。1982年、小さな宇宙船の実験機をロシアの艦船が海から回収しているのをオーストラリアの偵察機が撮影、写真が公開された。その形状は、米国人の目には非常に見覚えのあるものだった。

 ソ連のスペースシャトルが米国のそれに酷似していたのは無理もない。設計者は、米国のシャトルの仕様を諜報活動を通じて入手していたのだ。だが、ソ連は米国のシャトルに関して得た情報を全て活かしながら、ブランは単なるコピーではなかった。両者の設計には、大きな違いがいくつかある。

 ソ連の優秀なテストパイロットたちは、宇宙ではなく地球の大気圏内で試験飛行を何度か行ったが、ブランは人間による操縦なしで飛ぶことを最終目標としていた。実際に、自動操縦で地球軌道を1周してみせたことは注目に値する。帰還の際にもブランは完全なコンピューター制御で航空機同様に見事に着陸した。

 もう1つの明らかな違いは、エンジンの設計だ。

 米国のスペースシャトルはオービター(本体部分)自体に3基のメインエンジンを備えていたのに対し、ブランでは、本体とは別の使い捨て可能なロケット部分に4基のメインエンジンが備わっていた。ルイス氏によれば、効率のよいエンジンではなく打ち上げロケットに頼ったのは、資金を節約するためだという。

 巨大な打ち上げロケット「エネルギア」は、それまでのどのロケットよりも強力になるよう設計されたことで、柔軟性のあるシステムになった。米国のシャトルは貨物室(カーゴベイ)に収まる物しか宇宙に持って行けなかったが、ソ連のエネルギアは100トンを超す貨物でも宇宙へ運ぶことができた。未来の宇宙ステーションからレーガン大統領の戦略防衛構想、いわゆるスターウォーズ計画まで含む可能性が真剣に考えられていた冷戦時代には、この柔軟性は魅力だった。

2000年のシドニーオリンピックでも展示

 ソビエト体制の崩壊で、意欲的だったブラン計画のさらなるテストや、将来の利用に向けたロケットの改良といった可能性は消えた。それどころか、ロケット「エネルギア」は1988年の打ち上げ後にブランと同じ運命をたどり、二度と飛行することはなかった。1993年、ボリス・エリツィン大統領は、ブラン計画の中止を正式に発表した。

「中止されなければどうなっていたかは、永遠に分かりません」とルイス氏は言う。

 かつての誇らしげな計画が残したのは、老朽化した数機の試験用シャトルだけだ。どの機体にも興味深い歴史がある。この計画で唯一地球周回を成し遂げた機体「ブラン」はもう存在しない。機体を保管していたバイコヌール宇宙基地の格納庫が2002年に崩壊した際、格納庫と共にがれきと化し、ほかにも2つの試作機がカザフスタンとモスクワで廃墟と化すままに放置されている。(参考記事:「スペースシャトル初号機の余生」

 その一方で、2000年夏のシドニーオリンピックでの展示をはじめ、ドイツやモスクワなど、近年、ブラン計画の遺物を展示したり、回顧したりする動きが世界の博物館などで相次いでいる。なぜブランの歴史が一般社会から再評価されているのか、その遺産は何だったのか、ルイス氏は思いを巡らせている。「ロシアにはこれらの技術を復活させる計画は全くありませんし、かといって過去の象徴としても、歴史を紹介する最良の例では決してありません。ソ連、そしてロシアは、ブラン計画よりもはるかに優れた宇宙事業をいくつも成功させてきたのですから」(参考記事:「冷戦の残り物、壁崩壊から25年」

文=Brian Handwerk/訳=高野夏美/写真=RALPH MIREBS

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