文相6期、日教組の勤評闘争と対決
「群雀中の一鶴」灘尾弘吉(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕
1956年(昭和31年)12月に発足した石橋湛山内閣で灘尾弘吉は文相として初入閣を果たした。57歳だった。本人も周囲も入閣なら厚相か自治庁長官と思っていたので「文相とは夢にも思わなかった」ポストである。石橋首相の組閣はもめにもめた。石橋は総裁選で2.3位連合を組んだ石井光次郎に副総理を約束していた。石井は約束に従って副総理・外相を希望した。石橋は第1回投票から石橋を支持した大野伴睦には副総裁の手形を切っていた。
石井光次郎の入閣拒否で文相に
石橋首相は総裁選で僅差で敗れた岸信介に入閣を求めたが、岸は挙党体制の条件として外相ポストを求め、しかも副総理も副総裁も置かないよう要求した。石橋がこれを受け入れたため、石井の副総理・外相は実現せず、通産相ポストに回ることになった。ところが、副総裁ポストが空手形になった大野派が水田三喜男を通産相に起用するよう求めてきたので、石橋は石井に「文相ではどうか」と打診した。温厚な石井もさすがに激怒して「自分は入閣しない。文相なら灘尾君にやらせてくれ」と言って引きこもってしまった。
文相になった灘尾にとって文教政策のお手本は内務省の先輩で同じ緒方派だった大達茂雄が第5次吉田内閣の文相として打ち出した教育方針である。大達は「義務教育学校の政治的中立確保法」を成立させ、「教育内容の刷新、改善」を掲げて道義の高揚、道徳教育の徹底などの方針を示すとともに「教育の政治的中立を侵そうとして外部から教育に及ぼす不当な支配や影響を排除する」「いわゆる偏向教育を是正して、わが国の教育を正常な軌道に乗せる」などと訴えていた。
そうした方針は自民党政権に引き継がれた。灘尾文相は就任早々の記者会見で「日教組と会ってもよい」との対話路線を打ち出した。できるだけ円満な話し合いの中で偏向教育の是正に取り組みたいという姿勢を見せたものであった。石橋内閣は翌年2月に首相の病気で退陣し、ナンバー2の座を確保していた岸信介が後継首相に就任した。岸内閣は閣僚の顔ぶれを変えずに、石井を副総理・無任所相、大野を自民党副総裁にして発足した。灘尾は昭和32年7月まで文相を務め、内閣改造で閣外に去った。
灘尾が2度目(3期目)の文相になったのは1958年(昭和33年)6月の第2次岸内閣である。松永東文相が打ち出した教職員に対する勤務評定の全国実施方針に日教組が猛反対して騒然としていた時期である。前回は日教組に対話路線で臨んだが、今回は一切妥協しない決意を固めていた。「勤務評定実施に対し、日教組から猛反対があったが、私は2回目の文相になった時、『やる』と心に決めていた」「私の考えはかねて一貫していた。制度があるにもかかわらず、いまだに実行していないのはおかしい。実行しないのは行政の怠慢である」
国会では社会党が灘尾文相を攻撃したが、灘尾はひるまなかった。「勤務評定は教職員の人事を公正に行い、教育の向上を図るための基礎資料である。ことは教育行政自体の問題として扱うべきなのに、政治闘争の道具とされ、争いをするのは不可解千万。国民は怒りを感じている」と反論した。日教組は同年9月15日を統一行動日に指定し、10割休暇闘争で授業ボイコットを呼びかけた。灘尾文相は「教職員は本来の職員組合の活動に戻ってほしい」「子供を闘争に巻き込むな」と訴えた。
文部省と日教組の深刻な対立を見て、一部の大学の学長らがあっせんを試みようとしたが、灘尾文相は一切の妥協を拒否した。灘尾は最後まで「勤務評定実施を認めるか、認めないか、これが問題である。法がある以上、法には従うべきである。法律を実施するのが行政の仕事であり、法律に問題があるなら国会を通じて法律の改廃を図ればいい」という原則論を貫いた。
日教組は9月15日に全国的な授業ボイコットを実施した。勤評反対闘争はその後も各地でくすぶり続け、教育現場を荒廃させた。日教組は多数の処分者をかかえこみ、日教組の政治闘争に対する地域の人々の目も次第に厳しくなり、この騒ぎは日教組の敗北でやがて収束に向かった。
岸政権揺さぶった3閣僚辞任
日教組の勤評闘争とほぼ並行して、第30臨時国会では岸内閣が提出した警職法(警察官職務執行法)改正案をめぐり与野党が激突した。警職法改正反対運動は勤評闘争とは違って世論の支持を集め、自民党内にも慎重論が出て岸内閣は法案成立断念に追い込まれた。昭和33年12月31日、池田勇人無任所国務相、三木武夫経済企画庁長官、灘尾文相の3閣僚がそろって辞任して政界に衝撃が走った。翌年2月の自民党総裁選を控え、池田、三木・松村、石井3派による岸政権への揺さぶりであった。
灘尾は辞任するつもりは全くなかったが、最後は石井派の判断に従った。「私としては、同志を裏切るわけにもいかず、閣内に残って地位に執着していると思われるのも不本意である。私自身はその当時、岸さんに格別不足があるわけでなし、すまないと思ったが、一緒に閣外に出た。私はそれまで党内においてその種の動きにタッチしなかったので、よく知らなかったのである。うといといえば、うとい話である」と述べている。
3閣僚辞任事件で岸内閣は危機にさらされた。キャスチングボートを握る大野副総裁の去就も微妙だった。岸首相は大野に対して「次はあなたに譲る」との密約を結んでかろうじて危機を脱し、総裁再選にこぎ着けた。その岸首相も1960年(昭和35年)6月、日米安保条約の国会承認を見届けて退陣した。後継総裁には池田、大野、石井が名乗りを上げ、松村謙三も立候補の構えを見せた。
大野伴睦は強気だった。岸が密約を守るかどうか疑わしかったが、岸派の川島正次郎幹事長は直系の20人を引き連れて大野支持を約束した。河野一郎も大野支持である。石井派と2.3位連合を組めば勝算は十分あると踏んでいた。石井派は参議院議員が池田派に切り崩され、戦える状況になかった。石井の指示を受けて灘尾は大野派の参謀である水田三喜男、青木正らと会い「大野派が2.3位連合に期待しても、石井派は期待に応えられる状況になく、かえって迷惑をかけるかもしれない」と率直に石井派の事情を伝えた。
灘尾の話を聞いて大野派は大混乱に陥った。石井派との2.3位連合にメドが立たないと大野の勝算はない。未明にもかかわらず、川島や河野も駆けつけて大野を中心に大評定が始まった。その結果、大野は出馬を辞退し、岸、池田、佐藤の官僚派連合に対抗し、候補者を石井に一本化して党人派連合を組む方針を決定した。党人派連合には三木・松村派も加わり、一時は石井優勢とも見られたが、土壇場で岸の説得を受けた川島が党人派連合から離脱し、三木・松村派の一部も池田派に切り崩されて総裁選は池田の勝利に終わった。
灘尾は当時、田中伊三次、坂田道太、中垣国男とともに石井派「四天王」とも称されたが、カネとポストが飛び交い、裏切りや切り崩しが公然と行われる醜悪な派閥抗争に言いしれない絶望感と無力感を味わった。こうした経験から灘尾は後に派閥とは一線を画し、派閥横断的な政策勉強会「金曜会」を立ち上げるに至った。
第2次池田内閣で厚相に
1961年(昭和36年)7月、灘尾は第2次池田内閣の厚相に就任した。この内閣は党内の有力者を網羅した「実力者内閣」と言われた。灘尾の前任者は内務省時代の僚友・古井喜実であった。厚生省は灘尾にとって古巣であったが、古井厚相時代に診療報酬改定問題で医師会との関係がこじれていた。灘尾は冗談交じりに「えらい所にやるじゃないか」と言うと、池田首相は「ほかにしようがないんだ。これだけは引き受けてくれ」と話した。
灘尾が厚相に就任したとたんに、日本医師会、日本歯科医師会は「保険医総辞退」を声明して厚生省に揺さぶりをかけた。文相時代の日教組のストライキに続いて今度は医師会のストライキである。保険医総辞退は土壇場で田中角栄政調会長を中心とする自民党三役のあっせんで回避されたが、診療報酬をめぐる医師会との緊張関係はその後も続いた。
厚生省は診療報酬を合理的な資料を土台に決定するルールを確立するため「臨時医療報酬調査会設置法案」を国会に提出した。灘尾厚相はこの法案が成立しないようでは厚生行政には責任は持てないとの態度で臨んだが、自民党内の足並みがそろわず、法案は参議院で審議未了となった。灘尾は1962年(昭和37年)7月の内閣改造で厚相を退任した。灘尾厚相時代に社会保険の現業部門が外局の社会保険庁となった。
1963年(昭和38年)7月の池田内閣の改造で灘尾は3回目(4期目)の文相に就任した。池田首相は高度成長・所得倍増政策と並んで人づくり政策に力を入れ、文教政策のベテラン・灘尾に期待をかけた。灘尾の前任者はそれまで3年間文相を務めた荒木万寿夫であった。
荒木は逓信官僚出身で戦後、政界に入り、芦田均の側近だったが、芦田の死後、池田派に迎え入れられた。池田とは旧制五高・京大法学部の同級生で池田は荒木の硬骨漢ぶりを高く評価していた。荒木は灘尾と同様に日教組とは徹底的な対決路線をとり、歯に衣(きぬ)着せぬ率直な言動から、低姿勢の池田内閣にあって「高一点」と評された。荒木は文相在任中、しばしば「灘尾先生ならどうするだろうか」と周囲に漏らすほど灘尾に敬意を抱いていた。
同年11月の総選挙後の第3次池田内閣で灘尾の文相在任は5期目に及んだ。灘尾は佐藤内閣時代の1967年(昭和42年)11月から4回目(6期目)の文相を1年間務めた。佐藤内閣では教科書検定問題が騒がしくなった。文部省の教科書検定で不合格となったり、書き直しを命じられたりした左翼学者は不当であるとして相次いで訴訟を起こした。一方、自民党内では、偏向教科書が横行するのは文部省の教科書検定が手ぬるいからだとの批判が強かった。その急先鋒がタカ派の論客・稲葉修(後に文相、法相)である。稲葉は自民党文教部会長の谷川和穂(後に防衛庁長官)を伴って文部大臣室に灘尾を訪ねた。
谷川の回想によると、稲葉は席につくなり、大きな声を出して、いかに文部省の役人が腰抜けか、こんな教科書を認めるとは何事か、などと一気にまくし立て、最後は用意していた文章を読み上げて、教科書を書くとすればこういう書き方にするのが当然じゃないか、などと申し入れた。黙って聞いていた灘尾は稲葉の話が終わると「それだけか」。「それだけとは何だ」「稲葉君、君も政党の人間だな」「それがどうした」「言っとくが、どこの政党の人間が来て君と全く逆のようなことを言ってきても私は絶対に取り合わんぞ。駄目だ」「なにい」
稲葉はいきり立ったが、すぐに冷静さを取り戻し「負けた、負けた。わかった。おい、谷川君、行こう、行こう」と言い残して大臣室を出て行った。灘尾には稲葉の言い分は十分過ぎるほどわかっていたが、灘尾にとって「教育の政治的中立」とは、あくまで法令に基づいて教育は行われるべきものであり、その枠を超えた左からの圧力にも、右からの圧力にも絶対に屈しないということであった。佐藤内閣の文相時代に作家の今日出海を初代長官とする文化庁が発足した。文化庁の看板の題字は灘尾が書いたものである。=敬称略
(続く)
灘尾弘吉著「私の履歴書」(82年日本経済新聞社)
高多清在著「灘尾弘吉(広島県名誉県民小伝集)」(91年広島県)
灘尾弘吉先生追悼集編集委員会編「灘尾弘吉先生追悼集」(96年同編集委員会)
石井光次郎著「回想八十八年」(76年カルチャー出版)
※3枚目の写真は「灘尾弘吉先生追悼集」より