照ノ富士、鳥取城北高相撲部入部当初は負けては涙で「勝ちたいです。教えてください」…不死鳥の軌跡(上)

スポーツ報知
10年夏のインターハイで団体優勝を飾った照ノ富士(中央後方)

 両膝負傷と内臓疾患などで一度大関から陥落しながら、昭和以降では三重ノ海以来2人目となる横綱昇進を確実にした照ノ富士。スポーツ報知では、「不死鳥の軌跡」と題し、不屈の精神で史上最大のカムバックを果たした新横綱の相撲人生と未来に3回連載で迫る。第1回は、力士としての原点、鳥取城北高時代。

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 2010年春、照ノ富士は18歳で鳥取城北高に相撲留学した。当時コーチを務めていたモンゴル出身の同校相撲部顧問・レンツェンドルジ・ガントゥクスさん(36)は、教え子の横綱昇進が決定的となり「自分が指導をしてきた生徒の中で、高校横綱や学生横綱はいたが大相撲の横綱はいなかった。照ノ富士が頑張ってくれて、本当にうれしい」と目を細める。

 モンゴルで柔道経験はあったが相撲は初心者だった照ノ富士は入部当初、四股の踏み方やすり足から学んだ。ゼロからのスタートも、当時から負けん気の強さと根性は人一倍。レギュラークラスでない部員に、ぶつかり稽古や相撲の稽古で転がされては「悔しい」と涙。「強くなりたい。勝ちたいです。教えてください」と、ガントゥクスさんにまわしの取り方などを教わった。

 「四つに組んだ時の力は半端じゃなかった」という非凡な才能と、教えてもらったことをすぐに実行できる吸収力で一気に成長。入部から5か月後の沖縄インターハイでは団体戦メンバーに入り、副将として同校初となる団体優勝に貢献した。入学前から誓っていたのは「プロで成功して、家族を楽にしたい」という目標。11年、当時外国人枠があいていた間垣部屋に入門した大器は、5月の技量審査場所で初土俵を踏むことになる。(大谷 翔太)

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