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第10回 ─ 最終回! 宇多田ヒカルの“ぼくはくま”をチアー&ジャッジ

連載
菊地成孔のチアー&ジャッジ ―― 全ブロガー 参加型・批評実験ショー
公開
2006/12/28   17:00
更新
2006/12/28   22:40
テキスト
文/菊地 成孔

ご好評のうちに終了した〈CDは株券ではない〉に引き続きbounce.comでスタートした音楽批評実験〈菊地成孔のチアー&ジャッジ~全ブロガー参加型・批評実験ショー〉。菊地成孔が1つの楽曲に対し、〈大絶賛〉と〈酷評〉の2つの立場からまったくことなるレビューを書き、「その2つのどちらが優れているのか?」を読者の皆さんのトラックバックによって決める。という、ブロガー参加が前提の実験場です。今回はなんと最終回! 宇多田ヒカルの“ぼくはくま”を批評します。

 バキューン!&スッテンコロリン!&ゴーン!お待たせしました&あなたのハートを撃ち抜きました&風呂場で足を滑らせて転びました&除夜の鐘を突きました、21世紀初のチアー&ジャッジメン菊地成孔です! うえーん!

 と、いきなり泣き出したのは他でもオシメが濡れたのでもDJ OZMAの曲がいまいち思った通りの感じにならないからでもルイス・ブニュエルの著作集が満を持して出てみたらぜんぜん面白くなかったからでもありません。「CDは株券ではない」から引き継ぐ形で永らく……ウソたったの10回だけですがご愛顧頂いた当連載ですが、今回が最終回となってしまいました! 再びうえーん!!

 が、泣いてばかりもいられまじ。人類は泣き叫びながら生まれ、溜め息とともに死ぬのであーる。然るに記念すべき最終回は、第一回にリターンしまして(バックナンバー参照。10回だけだから一気に読めますぞ)宇多田ヒカルさんの“ぼくはくま”を扱わせて頂きます。

 さて宇多田ヒカルさんもしくは“ぼくはくま”で検索してここに辿り着き「なんだこら?」という方々もたーくさんいらっしゃると思われますので、物凄く簡単に説明しますと当連載は〈ブロガー参加型のゲーム〉という趣向になっております。

 しかしポイントの集計とかどうすんのよ? どうせ「最終回は全員1万ポイント! 全員優勝!」とか言って無茶苦茶にするのだろう在り来たりなクイズ番組のように。等といった、いい大人(今年もう44歳ですよ。老眼鏡かけながら書いてるのよコレ)のみみっちい手口を見透かしつつもしらけきった様な指摘が、今にも耳の後ろから聴こえて来そうなクリスマス・イヴですが(本当です)、中年独特の、冷や汗かきつつのすっとぼけで口笛ピュピューとスルーしまして、さていよいよ、このコールをするのも最後と成ってしまいましたが、早速いってみましょう。チア~エーンドジャーッジ!!

チアー菊地(以下「チア菊」)「ワタクシは宇多田ヒカルさんの“ぼくはくま”を支持致します」

ジャッジ菊地(以下「ジャチ菊」)「ワタクシは宇多田ヒカルさんの“ぼくはくま”を不支持します」

チア菊「お互い紳士的に、かつ徹底的にやりましょう」
 
ジャチ菊「はい。望む所であります」

チア菊「とはいえ今回、ちょっとやりずらいな~」

ジャチ菊「いつがやりやすかったんだよ!毎回いってんじゃんよ!」

チア菊手嶌葵“テルーの歌”の回は異様にやりやすかった」
 
ジャチ菊「そうだね(笑)」

チア菊「まあ、それはそれとして、今回、企画モノだからな」
 
ジャチ菊「NHKの〈みんなのうた〉だ。しかも、スペシャル・パッケージはオリジナルの絵本つき」

チア菊「とはいえ最終回だしね、連載の掉尾を飾る名チアー&ジャッジを行わなければ」

ジャチ菊「うーん難しい。恒例の〈禁じ手〉を決めない?」

チア菊「どういうの? 〈藤圭子の話はしない〉とか?」

ジャチ菊「したっていいじゃん! 金盗まれてワイドショー出たとき凄かったぞ! 声が〈昔の宇多田ヒカルみてえ!〉って思っちゃった」

チア菊「ちょっとそれもう、さりげなく核心の一角を突いてると思うけど、まあいいとして、どういう禁じ手にするのよ?」

ジャチ菊「パトグラフ(病跡学=書かれた物から、書き手の精神分析をし、病理を同定する事)の手法は使わない」

チア菊「ええー。なんも出来ねえよ」

ジャチ菊「だろ? だって、オリジナルの童話だよ。ミリオン・ヒッターの女性ヴォーカリストで童話を出版したのは吉田美和と宇多田ヒカルだけなのは何故だ?」

チア菊「すでにパトグラフィックじゃないか(笑)」

ジャチ菊「そうなんだよ。今回の物件は、パドグラフなんて云う、遥か手前で、寓意がミエミエに読め過ぎる訳よ。まるで罠みたいだ。〈さあ、秘密のコインを隠したぞ。探してみろ〉と言っている相手の鼻の頭にそのコインが乗っかっているような。どうしていいか解らんよ」

チア菊「まあね。〈この主人公の「くま」(※注「クマ」や「熊」に非ず)は宇多田ヒカル自身の孤独感や家族喪失感を現しているな〉なんて口に出して言ったが最後、バカかつ野暮かつ酷い。という事に成ってしまう」

ジャチ菊「とはいえ〈歩けないけど踊れるよ しゃべれないけど歌えるよ〉って、はっきり言って危ないしな。童話のオチは〈まくら〉しか共生者が居ない〈くま〉くんが、リアルな〈仲の良いクマの親子〉に警戒心と、嫉妬と思しき無根拠な怒りをぶつけて家に帰って来て、まくらを抱いて寝て、夢の世界に逃げる。寓意とすら言えない。年寄りが書く社会風刺マンガみたいな」

チア菊「〈家にある縫いぐるみが、あるとき突然喋り出したので、それを歌にした〉という事みたいなんだけど、100人が100人、内心で〈本人の代弁〉と解釈せざるをえない。まあ、キャラクターが代弁以外の何の仕事が有るのか? と言われればそれっきりだけど」

ジャチ菊「いや。〈代弁だ〉なんつって、心理的にうつむいちゃうのは100人中70人位じゃない? あとの30人は〈うわーかわいーいやされるーふしぎーかわいー〉とばかりに無条件降伏」

チア菊「数比が逆じゃない? 70人が無条件降伏」

ジャチ菊「いやあ20人ぐらい」

チア菊「いや最早98人。俺たち以外全員が無条件降伏。無条件降伏が根っから得意なお国柄」

ジャチ菊「名チアー&ジャッジを行わなければ。って言ったの誰だよ!」

チア菊「自分の縫いぐるみが喋れると公言する女性シンガーが木の実ナナと宇多田ヒカルだけなのは何故だ?」

ジャチ菊「誤摩化すな!(笑) ちゃんとチアーしなさいよ」

チア菊「最初からひとつも貶してないよ!! 病が深いほど天才なんだから」

ジャチ菊「ちょっとその発言シンプルすぎるな。英国統合不全研究協会からコーションが付く」

チア菊「読んじゃいねえよ!!っていうか、宇多田ヒカルはマジだから素晴らしいわけじゃない。無条件降伏がよしんば20だとしても、〈条件降伏〉つまり、ミエミエの寓意を読んで、痛感があってもなお魅力を感じる。という人が80いれば全員降伏/幸福なんだよ」

ジャチ菊「全員降伏/幸福ってのは酷すぎる/響きすぎるよ(笑)」

チア菊「すまん口が滑った(笑)。とはいえだな、縫いぐるみが代弁するという行為の中にも格や強度はある。宇多田ヒカルは格と強度が落ちた事が無い、驚異の〈超日本人級のド日本人〉なんだからさ」

ジャチ菊「それもう、もとめに入ってるでしょ。なし崩しっぽいが、もう時間が来た。まとめに入ろう」

チア菊「オーケー。では、前段を詳述する形でまとめに入る。この、〈無条件降伏〉さえしなければ、誰にだって〈抑圧の代弁者〉であることが明解である、この〈くま〉の物語は、他者、(あくまで)例えば一青窈や平原綾香が作者だった場合、堪え難い激痛を生み、避難以外の道は取れないだろう。これがチアーの総てである。本作での宇多田ヒカルは、引かせて引かせない。大物の仕事である。

 〈くま〉が〈ぼんじゅーる〉と挨拶するのは宇多田が英語ネイティヴだからである。〈くま〉の唯一の友人である〈まくら〉は〈くまら〉のアナグラムであると同時に〈真っ暗〉を暗喩する。〈くま〉は、三つ並んだ山の、左端の山の頂きに立つ〈旗〉の隣の〈傾いた家〉を出て最初に花に挨拶し、それから水たまりに映った自分の姿に挨拶する。それから、森の中のあらゆるものに挨拶をし、エコーに耳を澄ます。国文学に傾倒するあまり、宇多田ヒカルはギリシャ神話を読んだ事がなかったのだろうか? それとも最近初めて読んだのだろうか?

  デビュー時に〈あらゆる正体が不明〉の〈謎の人物〉だったのが、初めてテレビに出たとき、縫いぐるみを着て出た事は記憶に新しい。アイデンティティ、中でも母性を経由した自らの女性性の捜索/創作。結婚して家を持たず、ホテルに住んでいる宇多田ヒカルは〈毎日の忙しい生活の中で忘れてしまいがちな優しい気持ちを思い出させてくれる存在〉と、恐らく本気で発言している。〈いじましさ〉と〈優しさ〉の区別がつかないのだ。

 この、脇のガラガラ空き加減の大物ぶり。安っぽさ皆無の、真の悲しさ。大振りの大ホームラン・バッターぶり。今年のJ-POPの年間チャートで上位を記録するであろう“Keep Tryin'”の〈ずーっと〉という歌詞の部分。我が国の歌謡曲史上おそらく初であろう〈フラット13度(テンション名→音楽用語)からナチュラル13度への移動〉という衝撃の音程をゲテモノと聴かせず、トップチューンのポップ感にしてしまうその奇形的/健康的な力技は、ある時期のビートルズに匹敵する。この“ぼくはくま”の4小節目、童謡の様なシンプルな造りの楽曲構造の中に突如として現れるオルタード(脱調手法名→音楽用語)の響きの唐突なショックはギミックではなく、宇多田の奇形的/健康的な心身からナチュラルに紡ぎ出された物である。打ち込みのピアノとオカリナの音色は、シンプルと言うには余りにイージーで、つまりはデモテープレベルなのだが〈ハスキーでコブシの効いた声が、一本調子の童謡を歌おうとする〉という、最早寒いのか痛いのか萌えるのか癒されるのか解らない境地のヴォーカルによって雄弁に訴えてくるものがある。それは〈日本とはどういう国か?〉ということだ。

  ニューヨーク生まれの、藤圭子の声を持つ、歌謡R&Bのサラブレッドだった少女は、アメリカ進出に失敗して後、心身ともにメタモルフォーゼを起こし、〈超日本人級〉の、しかしド日本人。というキャラを獲得した。宇多田の最近のステージ衣装はガンダムのモビルスーツのようだ。テクノで、病的で、健康的で、アニメ的で、肉声的で、どんどん母の声から離れて行こうとする彼女の表現が持つ極端な〈日本のリアル〉さは、とうとう縫いぐるみが話し出す。というキャラクター文化に接触し、大振りの大暴投の豪速球が凡庸なホームランに変わる様を我々に見せる。彼女は〈日本に帰化した、日本人以上に日本人である外国人選手〉という、本来ならば日本人では着任不可能な任務を遂行しているという意味で、完全なオリジナルである。前述のライブDVDで、キャメラが客席をなめる。そこに映し出されるのは、B'zよりの客よりも、KREVAの客よりも、倖田來未の客よりも遥かに〈日本人の集団〉である。“ぼくはくま”は椎名林檎の“りんごのうた”と比べたとき、その〈格〉と〈強度〉が歴然とするだろう。それは無意識や無作為が国民性を掴んだ強さなのである。一本調子のコドモっぽさを演じるヴォーカルがラスト近く〈ママ〉という部分のみ、ヴィブラートとコブシがかかる(様に聴こえる)。ほんの刹那である。計算して出来る物か」

ジャチ菊「参った。予感していたとはいえ、最終回にしてとうとうこうなったか。ワタシの発言は、一字一句違わず、チアー菊地氏のそれと等しい。故に一切付け足す事は無い。同じ発言によってワタシは“ぼくはくま”をジャッジする。ジャッジとはチアーであり、チアーとはジャッジなのだ。という、言ってはいけない結論を(正に宇多田ヒカルに習って)敢えて堂々と口にしようと思う。故に最終回は、投票出来ないのである」

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