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【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】当日に突然の取材拒否!?「矢沢永吉さんだったらこんな企画受けない」 大人だからとこびず、曖昧を嫌っていた (1/2ページ)

 「上司だった寺林(晁)さんから中森明菜の宣伝を担当しろといわれたときは正直言って驚きましたね」

 1981年の年末も押し迫っていた。ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の邦楽宣伝課に所属していた富岡信夫(現モモアンドグレープカンパニー代表取締役)氏は、そう振り返った。

 「(明菜と)最初にあったとき、尊敬する芸能人は誰かと聞いたら矢沢永吉と桃井かおりとキッパリ答えたんです。まだ16歳なのに…って思いましたよ。実は当時、矢沢はワーナーに移籍してきたばかりで寺林さんが宣伝を担当し、私もワーナーの前は渡辺プロダクションの関連会社で桃井のマネジャーだったので、何となく明菜に親近感というか、感性に興味を抱いたのは確かです」

 82年に入り、本格的にプロモーション戦略が話し合われた。富岡は「どうやって売り出したらいいか悩んだ」という。

 すでに小泉今日子(53)や堀ちえみ(52)、早見優(53)、松本伊代(54)、石川秀美(53)ら同期となるアイドルは月刊や週刊の芸能誌グラビアを完全に押さえ露出を増やしていた。

 しかし、明菜は…。

 「デビューどころか、メディア露出も完全に後れをとっていました。それは焦りましたよ」

 遅れを何とか巻き返そうと富岡は各出版社の編集担当者を連日訪ねた。

 「ワーナーは『瀬戸の花嫁』でデビューした小柳ルミ子以来の“超大型新人”として強力プッシュしたのですが、編集担当者の反応は鈍かった。もちろんデビュー前なのでテレビは仕方ないとして、当時は『平凡』や『明星』といった芸能誌やアイドル誌があふれていましたが、明菜は新人では6番目ぐらいだったかも。極端にいうと他の新人はカラーで2、明菜はモノクロ1ページ。2分の1ページなんてこともありました。理由を聞くと『他に扱う新人が多いから仕方がない』と言われたりして」

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