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'05/12/22 朝刊掲載】
「中国 美の十字路」図録の解説から

◇ソグド人の足跡◇
 一九九九年九月、山西省の太原で隋代の墓から、ペルシャ風の王侯が馬やラクダ、ゾウに乗って狩猟をしている絵や、胡の踊りを見ながら酒を酌み交わす夫婦の絵などが描かれた棺槨が発見された。合わせて出土した墓誌銘から、被葬者がソグド人の虞弘という人物であることが分かった。

 虞弘は、父の代からモンゴル高原の茹茹(じょじょ)(柔然、蠕蠕)国に仕え、ペルシャやトルファンに使いし、さらに北斉、北周で官職を歴任。北周では西域から移住した人々の集落を管理する行政官になり、五九二年に五十九歳で亡くなったという。

 中国国内には虞弘墓のほか安伽墓、史君墓などがある。安伽と史君は、昭武九姓(康、安、石、曹、何、米、史など)を有するソグド人で、『北史』西域伝によると、もとは甘粛省の昭武城に住んでいたのが、紀元前一七六年ごろに、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)に攻撃され、中央アジアのパミール高原を越えて、現在のウズベキスタン、タジキスタンにまたがるソグディアナに移住、康国(サマルカンド)、安国(ブハラ)、石国(タシケント)などの国を建てた。ソグド人は独自の文字と言語を持ち、若いときから商売を習い、二十歳になったら他国へ旅立ったという。
 (「中国 美の十字路」図録の解説から)

▼東西交流の中枢を担った敦煌
 中国甘粛省河西回廊の西端にある砂漠の中のオアシス都市。紀元前111年ごろの前漢時代に街が築かれて以来、シルクロードの交通の中枢を担ってきた。近くには世界遺産・莫高窟(ばっこうくつ)千仏洞、美しい砂丘の鳴沙山、古代シルクロードの2つの要衝・陽関と玉門関、漢代の万里の長城遺跡、河倉故城、白馬塔など、歴史的遺産の宝庫でもある。

◇激動の時代と仏教◇
 後漢から隋・唐の時代には、さまざまな国が興り併合されていった。三世紀初めに後漢から魏、呉、蜀の三国時代に。三世紀後半になると、司馬炎の晋が、中国統一を果たす。しかしその後、内乱と、北方から匈奴や鮮卑など遊牧民族が襲来し、五胡十六国時代が始まる。揚子江以南では、建康を都に東晋が興る。

 五世紀になると、五胡十六国の中から北魏が長江以北を統一、その間、東晋は宋から斉へと変わり、中国は北魏と斉の南北朝時代に移る。六世紀に斉は梁、さらに陳へ。北朝も北斉と北周に分かれるが、北周が北斉を滅ぼす。北周から隋へと変わり、隋が中国を統一。さらに唐へ引き継がれ、中国史上最大の版図を広げる。

 この激動の時代を文化的に彩ったのが、インドから流入した仏教。

 仏教は、後漢時代に中国に伝来したといわれ、そのころは、中国の伝統的な神仙のような仏像だったが、五胡十六国、その後の北魏は仏教を熱心に信仰し、目鼻立ちが整ったインドのガンダーラ様式の仏像が現れる。

 一方、南朝では、薄い衣をまとい、流麗な体つきで柔和な表情のグプタ様式の仏像が、南方から流入。ともに、しだいに中国風の衣服、顔つきの仏像が造られるようになっていくのだが、四川省成都万仏寺遺跡出土の釈迦(しゃか)仏立像(梁)や、山東省・青州の龍興寺遺跡などで発見された仏像群(北斉)は、やがて肉体の写実性、量感を強調した唐の仏像様式へ移っていく過程をよく示している。
 (「中国 美の十字路」図録の解説から)


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最近のソグド人研究のきっかけとなった棺槨。1999年山西省太原市の虞弘墓から出土(隋、太原市晋源区文物管理所蔵)






1996年に山東省青州市龍興寺遺跡から出土した「半跏思惟菩薩(はんかしいぼさつ)像」。石灰岩に彩色、金ぱくを張っている。(北斉、高さ80センチ、青州市博物館蔵)