【プロレス蔵出し写真館】豪華外国人レスラーが笑顔で記念撮影に納まった。

 右から上田馬之助、ザ・サモアンズのサモアン2号(シカ・アノアイ)、ザ・シーク、ジミー・スヌーカ、ハルク・ホーガン、タイガー・ジェット・シン、サモアン1号(アファ・アノアイ)の7人。これは今から41年前の1981年(昭和56年)11月30日、名古屋市内のホテルで撮られたひとコマ。

 上田とシン、シークは全日本プロレス、ホーガンとサモアンズは新日本プロレスに参加していた。当時は絶対に紙(誌)面には載ることはなかったシンの飛び切りの笑顔が目を引く一枚だ。

 この日、全日プロの「世界最強タッグ決定リーグ戦」が名古屋の愛知県体育館で行われ、愛知・岡崎市体育館で「第2回MS・Gタッグリーグ戦」を開催したのが新日プロ。両団体の宿舎が名古屋だった。 

 前日の29日に、六本木のディスコでスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディ、そしてザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)が一緒に騒いでいたのを目撃したという情報が東スポに寄せられた。その日は新日プロが山梨・富士急大会、全日プロは山梨・石和大会が行われ、どちらもデーゲームだった。

 この情報の真偽はともかく、東スポはハンセンに何やらきな臭い動きがあると認識した。

 翌日は2人とも名古屋泊まり。ハンセンとブロディが連れ立って食事に行くだろうと想定し、ホテルを訪ねるよう指令が下った。すると、ホテルにハンセンが現れ、記者は色めき立ったが「オレはブロディとは昔、タッグを組んだ仲。旧交を温めにきた」。そう話して中に入って行き、2人で外出することはなかった。

 ハンセンは12月10日、新日プロ大阪大会の最終戦でアントニオ猪木&藤波辰巳(現・辰爾)組とリーグ戦準決勝で激闘を展開し(パートナーはディック・マードック)、両者リングアウト。再試合が行われ、マードックがフォールを奪われて敗戦。優勝争いから脱落した。

 シリーズを終え、翌日帰国する予定だったハンセンは日本にとどまり、なんと12日の全日プロの横須賀大会に顔を出し、外国人レスラーの控室を訪問した。翌日の全日プロにも現れるのは明白で、ワクワクしたのを覚えている。

 そして、翌13日の蔵前国技館でブロディ、スヌーカ組のセコンドとして登場。観客は仰天した。

ブロディのセコンドに就くハンセン(81年12月、蔵前国技館)
ブロディのセコンドに就くハンセン(81年12月、蔵前国技館)

 ハンセンは場外でテリーにウエスタンラリアートを見舞って、ブロディ組の優勝をアシスト。その後、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田とも乱闘を展開。会場は興奮のるつぼと化した。ハンセンのエピソードは枚挙にいとまがないが、この時の移籍劇は衝撃的で、今でも語り草となっている。

 ところで、ハンセンと新日プロの契約は81年12月31日まで残っていた。しかし、ハンセンは12・13の乱入前、12月11日付けで新日フロント宛に「契約のキャンセル通告書」と違約金1万ドル(当時のレートは1ドル220円前後)の小切手を送っていた。

 全日プロ移籍でどのぐらいのお金が動いたのか知る由もないが、3年契約で10万ドルとも噂された。一応の筋を通したハンセンだが、新日プロのオフィスに小切手が届いたのは12月14日だったという。

 とにもかくにも、いまだにイベントが開催される〝不沈艦〟スタン・ハンセン。新日プロから全日プロへ移籍しても、ファイトスタイルを変えず貫き通した結果、最も日本のファンに受け入れられた外国人レスラーになった(敬称略)。