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2007年04月29日(日曜日)付

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日米首脳会談―謝る相手が違わないか

 安倍首相が就任後初めて米国を訪問し、ブッシュ大統領と会談した。

 首相は旧日本軍の慰安婦問題で謝罪し、大統領はそれを受け入れた。両首脳は、拉致問題を含めて北朝鮮に強い姿勢で臨むことを確認した。ともに両国間にすきま風が吹いていた課題だ。

 亀裂はとりあえず修復され、初の訪米は無難に終わったと言えるだろう。しかし、問題は本当に解決に向かっているのだろうか。

 慰安婦の話題を持ち出したのは首相の方からだった。

 「人間として、首相として、心から同情している。申し訳ない思いだ」

 大統領は「慰安婦問題は世界史における残念な一章だ。私は首相の謝罪を受け入れる」と応じた。

 首相は胸をなで下ろしたことだろう。だが、このやりとりは実に奇妙である。

 首相が謝罪すべきは元慰安婦に対してではないのか。首相はかつて河野談話に反発し、被害者に配慮ある発言をしてきたとは言い難い。国内で批判されても意に介さないのに、米国で紛糾すると直ちに謝罪する。何としたことか。

 問題が大きくなったきっかけは「当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかった」という首相の発言だった。日本としての責任を逃れようとしているものと、海外では受け止められた。

 米議会では、慰安婦問題で日本に公式謝罪を求める決議をする動きがあり、これに弾みを与えた。メディアも「拉致で国際的支援を求めるならば、日本の犯した罪を率直に認めるべきだ」(ワシントン・ポスト紙)と厳しかった。米政府内にも首相の見識を問う声が出た。

 慰安婦は、単なる歴史的事実の問題ではない。国際社会では、女性の尊厳をめぐる人権問題であり、日本がその過去にどう向き合うかという現代の課題と考えられているのである。

 首相の謝罪で、米国内の批判に対する火消し効果はあったかもしれない。しかし、日本が自らの歴史とどう向き合っていくかという大きな問題は、実は片づいていない。

 対北朝鮮では、核問題を進展させるために対話路線に転じた米国と、拉致問題が進まなければ支援に応じないとする日本との間に、溝ができていた。

 会談では、北朝鮮が核廃棄に向けての合意の履行を遅らせたら追加的な経済制裁をすることを確認した。大統領が拉致問題への怒りを改めて表明するなど、足並みをそろえて見せた。

 だが、北朝鮮が合意の履行に動けば、再び溝が現れる。テロ支援国の指定をはずすかどうか、重油などの支援を広げるかどうか。今回の日米連携の確認は、そこまで踏みこんだものではなさそうだ。

 首相と大統領は「揺るぎない日米同盟」をうたい、それを象徴するバッジをおそろいでつけた。演出は結構だが、今後はその内実が問われることになる。

昭和の日―光と影に思いを致そう

 昭和天皇の在位50年を記念して、東京都の立川・昭島両市にまたがる公園がつくられた。昭和天皇記念館は緑に包まれたその一角にある。緑化などの研修施設と、ひとつながりの建物だ。

 昭和天皇の誕生日である4月29日は、平成になって「みどりの日」と名を変えた。記念館のたたずまいは、その名にふさわしいと言えよう。

 新緑の美しい季節である。自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。祝日法でそう定められたみどりの日は、昨年まで18回を数え、国民に定着してきた。

 しかし、4月29日は今年から「昭和の日」になった。みどりの日は「国民の休日」だった5月4日に移された。

 なぜ、わざわざ変えるのか。戸惑っている人も多いのではないか。

 昭和の日に改める法案は7年前に与党の議員立法で提案された。激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。これが昭和を記念する祝日をつくる理由だった。

 しかし、この理由がまさに示しているように、昭和は「激動」の戦前と、「復興」に始まる戦後に分かれている。

 昭和天皇記念館の展示を見ても、戦前の天皇は白馬にまたがって観兵し、軍服姿で東京大空襲を視察している。背広を着て地方巡幸や植樹祭をする戦後の天皇とは大きく異なっている。

 昭和は金融恐慌で幕を開けた。治安維持法による弾圧、政治家へのテロ、将校が反乱した2・26事件などが起き、太平洋戦争へと突き進んだ。

 最近、朝日新聞が報じたところでは、宮内庁の侍従職事務主管を務めた故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)氏の日記に、昭和天皇が晩年も戦争への悔恨を抱き続けていたことが随所に記録されていた。

 77年2月26日、昭和天皇は「治安は何もないか」と卜部氏に尋ねた。2・26事件から40年以上たってもなお、日本が軍国主義に傾くきっかけとなった事件がトラウマになっていたのだろう。

 A級戦犯が靖国神社に合祀(ごうし)された後、昭和天皇は参拝をやめた。「それが私の心だ」と語った言葉を、故富田朝彦宮内庁長官が88年4月28日のメモに残しているが、同じ日、昭和天皇は卜部氏にも戦犯合祀について語っていた。

 卜部氏は01年7月31日には「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記していた。

 昭和は光と影に分かれた時代である。戦後は復興と繁栄の明るい色調が目立つ。その豊かさが多くの犠牲の上に築かれたことを忘れるわけにいかない。

 戦後生まれは今や4分の3にのぼる。戦前を肌で知る人は減る一方だ。

 昭和をひとくくりにして懐古するのではなく、光と影を考える。昭和の日をそんなメモリアルデーにしてこそ、「国の将来」は確かなものになるだろう。

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