この10年


漫画
96/09/24 東京夕刊 社会面 07段
藤子・F・不二雄さん死去 「ドラえもん」ありがとう 夢と力を子供たちに

 ◆“二人三脚”で名作次々
 「ドラえもん」「オバケのQ太郎」などたぐいまれなキャラクターを創造し、漫画、テレビ、映画を通じ日本だけでなく世界の子どもたちに夢を与え続けてきた藤子・F・不二雄(本名・藤本弘)さんの早過ぎる死は、各方面に大きな衝撃を与えた。訃報(ふほう)が伝わった二十三日、川崎市内の藤本さんの自宅には、共に青春時代を東京・椎名町のトキワ荘で過ごした漫画家仲間が駆け付け、悲しみにくれた。テレビや映画関係者らも「大変な痛手」と、ドル箱作家の死に声を落とし、海外のテレビ関係者からもその死を惜しむ声が寄せられた。

 藤本さんは肝臓を患って以来、徹底して節制生活を送っていた。病院の指示通りにたばこをやめ、食べ物にも気をつかい仕事に集中できる環境を整えていたという。暑さが厳しかった今年の夏は、都内の事務所に出ず、自宅で仕事を続けるなど、体調に気を使っていたというだけに、突然の訃報は関係者を驚かせた。

 特に、昭和二十年代後半から三十年代にかけて、故・手塚治虫さんら若い漫画仲間が共同生活を営んだトキワ荘の仲間たちの受けた衝撃は大きかった。

 急を聞いて自宅に駆け付けた赤塚不二夫さんは、「『何でだ』という感じ」とがっくり肩を落とした。藤本さんは、赤塚さんの二歳上で、トキワ荘では手取り足取り漫画を教えてくれた“恩人”だったという。何度も「トキワ荘の連中はみんな兄弟だったんだ」「それがどんどんいなくなってしまう」と繰り返し、「でも、藤本は十分すごい作品を残したよ」と、黙り込みがちな藤本さんの盟友、安孫子さんの肩を抱き、慰めあっていた。

 また同じ仲間のアニメーター、鈴木伸一さんは「非常に静かで、理路整然と話をする人だった。仲間のうちでは、ちょっと別だなという感じを持っていました。頭のいい人だった。また、仕事に対しては非常に責任感が強かった。アイデアに詰まって締め切りに間に合わないとき、どうするのか藤本さんに聞いたら、『アイデアが出るまで考える』と言われて感心しました。誕生日が二、三日しか違わないのですが、兄のように慕ってました」と、その死を悼んでいた。

 ◆5300万人が見た映画
 最大のヒット作「ドラえもん」は、学習雑誌やコミックスに加え、テレビアニメにも登場する“メディアミックス”として爆発的に人気の輪を広げていった。

 アニメ化は一九七三年(日本テレビ系)が最初。その後、七九年にテレビ朝日系に移ってから人気が急上昇した。現在もテレビ朝日の看板番組の一つとして放送されている。作品は世界各国にも輸出され、タイやシンガポールなど東南アジアを中心に数十か国で放送されるなど、ドラえもんは世界中の子供たちの人気キャラクターになっている。

 ベトナムでは、「ドレモン」として海賊出版で爆発的な人気を得ており、「ドラえもん」の名を冠した教育基金も設立された。印税問題の解決策として藤本さんと協議して設立されたもので、藤本さんは今年二月にベトナムを訪問、子供たちから大歓迎された。

 テレビ朝日では今月二十九日に特別番組を組む予定でいるが、テレビ朝日の木村純一プロデューサーは「大変な痛手だが、藤子イズム、藤子ワールドはスタッフや演出家にしみついている。今まで通り先生の遺志を継いでやっていくしかない」と沈痛な面持ちで話していた。

 「ドラえもん」は、八〇年三月から東宝系の映画にも登場した。今年三月の「ドラえもん・のび太と銀河超特急」まで計十八作が公開されている。

 観客は累計で五千三百万人、配給収入計二百六十一億円に達するなど東宝を支える超人気シリーズになっている。来年三月公開を目指して撮影準備を進めていたのが、「のび太のねじ巻き都市冒険記」。藤本さんはその執筆中に倒れたが原案は完成しており、予定通り製作される。

 ◆海外でも高い人気
 「漫画」を世界にはばたかせる「MANGA」にした藤本さん。それだけに訃報はすぐに海外へも伝わった。

 小学館によると、国内だけでも約一億冊、アジアでは、韓国や中国、タイなどで翻訳され、約千五百万冊を発売。海賊版も含めると三千万冊以上が売れている。ヨーロッパでもスペインで翻訳され、アニメ版もタイなどで放映中だ。

 タイでの「ドラえもん」のテレビ放映権を持つトーン・タウン・エンターテインメント社のジャクサナ・ブンヤラタッパン氏は、「『ドラえもん』は八二年からタイのテレビに登場し、爆発的な人気をよび、現在は日本アニメの古典的な存在。ごめい福をお祈りしたい」と話した。

 ◆「どこでもドア」で会いたい/漫画の好きな純粋の漫画家/手塚さん同様、王道を歩いた

 アニメで「ドラえもん」の声を担当する大山のぶ代さんの話「まだ信じられません。『ドラえもん』は子供に楽しい夢だけでなく、生きる力も与えていたと思う。先生が亡くなっても、作品は生きています。天国には手塚(治虫)先生や園山(俊二)先生もおいでだから、寂しくはないだろうと思うようにしています。『どこでもドア』があれば、またお会いできるのに」

 トキワ荘時代からの友人で漫画家の赤塚不二夫さんの話「藤本さんは、僕に漫画の描き方を基礎から教えてくれた先輩。外向的な安孫子さんとは正反対の、おとなしい性格だったが、実にいいコンビで、うらやましかった。酒も飲まず、遊びもせず、本当に漫画の好きな、純粋の漫画家だった。兄弟のような仲間がどんどんいなくなって悲しい」

 漫画家・石ノ森章太郎氏の話「トキワ荘の中では、当時、出版され始めたSFの話題など、よく話が合った。間違いなく、漫画れい明期の『漫画の申し子』だった。王道を歩いていた藤本さんの死は、日本の漫画界の大きな痛手だ。手塚治虫さんと同様、代わる人がいない」


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