清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち
朝鮮王朝代16代の国王・仁祖以後、11人の君主(追尊された君主を含む)に対し清から贈られた諡号(諸王や宰相の死後、功徳を褒め称えて付ける名)が、全て判明した。この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれていた。
この事実は、国史編纂委員会・李迎春研究官の論文「金指南の通文館志と中国との関係」にて明らかにされた。この論文は、14日にソウル歴史博物館講堂で開催された学術発表会「朝鮮後期外交史の検討」(歴史実学会=ユン・ソクヒョ会長=主催)で発表された。
『通文館志』は、訳官だった金指南・金慶門父子により1708年に編纂、1720年に刊行された外交資料集だ。刊行後19世紀までに17度に渡って増補・増修され、清・日本との外交関係の格式と沿革、略史を記録している。今までこの史料に対しては、主として版本のような書誌学的な研究がなされたのみであり、内容が詳細に分析されたことはなかった。
今回の研究で、この史料の「紀年」編に、朝鮮が清から授かった各王の諡号を全て記録していたことが明らかになった。▲16代仁祖(在位1623-1649)は「荘穆王」▲17代孝宗(1649-1659)は「忠宣王」▲18代顕宗(1659-1674)は「荘恪王」▲19代粛宗(1674-1720)は「僖順王」▲20代景宗(1720-1724)は「恪恭王」▲21代英祖(1724-1776)は「荘順王」▲22代正祖(1776-1800)は「恭宣王」▲23代純祖(1800-1834)は「宣恪王」▲純祖の世子で死後に国王として追尊された翼宗は「康穆王」▲24代憲宗(1834-1849)は「荘粛王」▲25代哲宗(1849-1863)は「忠敬王」だった。諡号に「忠誠の忠」「従う順」「慎む恪」「恭遜な恭」などの文字がよく使われた点から、朝鮮国王が従順であって欲しいという清の希望を読み取ることができる。
ところがこの諡号は、『朝鮮王朝実録』と国王の行状(故人が存命中に行ったことを記した文)、陵誌文(国王や王妃の生没日と業績などを記した文)といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書の他にはほとんど使用されなかった。明から贈られた諡号を「太宗康獻大王」「世宗荘憲大王」のように記録していた朝鮮初期とは、まるで違う。実録にも、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号が何なのかは記録せず、実録中に引用された外交文書を通して僖順王(粛王)などごく一部が伝えられただけだった。李迎春研究官は、「諡号を授かっただけで、記録することはもちろん言及すらしなかった」と述べた。
なぜそうだったのか? その理由は、「夷狄の国」とみなした清からの諡号を恥辱のように感じていたからだ。朝貢・冊封の「事大関係」というものは、外交的な形式というだけにとどまらない、それ以上の意味を持つ存在だった。表向きは恭順の姿勢を装った朝鮮人の意識の中には、清に対する反発が拭い難く根付いていた。朝鮮王朝は、贈られた諡号を公式的に使用しなくなるほどの、ほとんど完全な政治的自主権を保持していた。李研究官は、「『通文館志』を分析した結果、顕宗代以後において、清への使臣派遣は年平均2.5回程度だった」と語った。朝鮮前期、明に年平均4回程度使臣を送っていたことを考えれば、かなり平和的な外交関係が維持されたのだ。
■朝鮮王朝後期の国王に贈られた清の諡号(カッコ内)
16代 仁祖(荘穆王)
17代 孝宗(忠宣王)
18代 顕宗(荘恪王)
19代 粛宗(僖順王)
20代 景宗(恪恭王)
21代 英祖(荘順王)
22代 正祖(恭宣王)
23代 純祖(宣恪王)
追尊王 翼宗(康穆王)
24代 憲宗(荘粛王)
25代 哲宗(忠敬王)
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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