鹿野道彦・元農水相死去 新幹線・政治改革・震災…ぶれず奔

 農林水産相や総務庁長官などを歴任した鹿野道彦・元衆院議員が21日夜、真性多血症のため、山形市内の病院で亡くなった。79歳だった。22日には市内の通夜施設を山形県内の政財界関係者らが次々に弔問に訪れ、別れを惜しんだ。

 鹿野氏は山形市生まれ。父の故彦吉氏の後を継ぎ、1976年に旧山形1区から自民党公認で初当選。運輸政務次官などを経て、86年に新幹線直行特急を公約として発表し、国内初のミニ新幹線・山形新幹線の開業(92年)に奔走した。

 所属派閥から「清和会のプリンス」と呼ばれ、89年に農水相、92年に総務庁長官を歴任したが、94年、細川護熙内閣の総辞職を受けて自民を離党。「新党みらい」を立ち上げた。新進党などを経て民主党に合流。2010年に再び農水相に就いた。当選11回を数え、12年の落選後は人材育成のため「愛山塾」を開いた。

 鹿野氏を初当選時から「番頭」として支えた故吉村和夫・山形市長の次男、和武県議(48)は、幼少期から家族ぐるみの付き合いという。「おやじと兄の間くらいの存在。総理になれるポジションにいながら二大政党を作るといって飛び出て、政権交代を成し遂げた。すごい政治家だった」

 02年まで約5年間、地元秘書だった渡辺元(はじめ)・山形市議(59)によると、鹿野氏は政治改革を志してからは酒をやめた。「日本の改革をお手伝いしているという実感があり、幸せを感じていた」と振り返った。

 国民民主党政調会長の舟山康江参院議員(55)は04年、自宅のある小国町を訪れた鹿野氏に「日本の農業はこのままで良いんですか」と立候補を説得されたことが印象深い。「鹿野先生がいなければ今の自分はない。真理を突く言葉を的確に投げかけてくれた」

 国民の梅津庸成県議(54)は10~12年、鹿野氏の農水相秘書官を務めた。東日本大震災の被災地で食料が不足する中、鹿野氏は大臣室で「なぜ役所に入ったのか。国民を飢えさせないためだ。今こそ力を発揮する時だ」と省幹部らを鼓舞したという。「さすがだと思った。信念を持って、人を動かす、国を動かすとはこういうことなんだと」

 吉村美栄子知事(70)は、鹿野氏が農水相時、県産ブランド米「つや姫」を自室に飾っていたのを覚えているという。「『日本の農業をしっかりとしなければいけない』と口癖のように話していた。巨星墜(お)つ。残念でなりません」

 山形1区で鹿野氏と長く議席を争った自民の遠藤利明・前衆院議員(71)。若い頃は鹿野彦吉氏のかばん持ちもしていたという。報道陣の取材に「子どもの頃から知り合いで、選挙では戦ってきたが、目標にしてきた良き先輩。非常に残念です」と語った。

 愛山塾に通った立憲民主党の原田和広・前県議(48)は鹿野氏に「政治家としての魂を託したい」と言われていたという。「間違っているものを間違っていると言い続け、最後までぶれなかったところを心から尊敬している。非常に胸が苦しい」と惜しんだ。

 葬儀は近親者のみで行う。一般参列者の焼香は26日午前10時から、山形市鉄砲町2の21の25のセレモニーホール山形で。喪主は長男雄一(ゆういち)さん。

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