この欄ではおなじみ、郵政相や建設相を歴任した自民党の中山正暉さん、新自由クラブ在籍当時の“政界の牛若丸”山口敏夫さんらの代議士とは妙に気が合って、よく一緒に飲んでいた。
あるとき、私たちの隣のテーブルに、丸刈りで怖そうな風貌の男が飲んでいた。その男がトイレに立ったので、私も後を追い、隣で用をたしながら話しかけた。「針木さん、三越の岡田茂社長のこと、あまり悪く書かないでよ」
そう。その人は雑誌『経営塾』(現『BOSS』)を出版し、政財界の勉強会『経営塾フォーラム』を主宰した経営評論家の針木康雄さん。当時は『財界』編集長で、1982年の三越事件で岡田批判を繰り広げていた。
「アンタ、だれ?」「麻布自動車っていうんだけど。岡田さんのとこと取引しているんですよ」「お前、おもしろいヤツだね」
−−ということで、それを機にすっかり仲良くなって、1983年に針木さんが『経営塾』を設立したときに出資したり、いろいろな人を紹介したり、されたり…と、長いつき合いになった。
私は西武ライオンズの首脳陣時代の広岡達朗さんや森祇晶さん、近藤昭仁さん、そして西武の主力選手たちを紹介。針木さんは彼らの話を基に野球の戦術と経営の関係について書いた。
あるとき、関西の中古車販売会社の経営者から「会いたい」と連絡があり、大阪・北新地の料理屋に出向いたら、野村克也さん夫婦がいた。で、中古車販売オーナーから「野村さん、どこかの球団で何とかならないか」と頼まれた。
私は針木さんがヤクルト本社の桑原潤社長(のちにヤクルト球団オーナー)と親しかったことを思い出し、電話したら、「東京に呼んでよ」ということで、間を取り持った。
当時、ヤクルトには長嶋一茂選手が在籍していて、桑原社長は関根潤三監督の後任として、長嶋茂雄さん招聘(しょうへい)を針木さんに相談していた。結局、家族の反対で長嶋さんのヤクルト監督就任の話はなくなり、野村さんが就任した。
ご存じのとおり、90年から98年までのヤクルト監督時代、野村さんはセ・リーグ優勝4回(日本一3回)と大成功した。昨年2月に亡くなった針木さんは野村さんの恩人だった。
その後、野村さんとは家族ぐるみのお付き合いをしたが、奥さんとイロイロあって…。その話はまた別の機会に。
■渡辺喜太郎(わたなべ・きたろう) 麻布自動車元会長。1934年、東京・深川生まれ。22歳で自動車販売会社を設立。不動産業にも進出し、港区に165カ所の土地や建物、ハワイに6つの高級ホテルなど所有し、資産55億ドルで「世界6位」の大富豪に。しかし、バブル崩壊で資産を処分、債務整理を終えた。現在は講演活動などを行っている。著書に『人の絆が逆境を乗り越える』(ファーストプレス)。