天皇が高僧に贈る「大師号」って何? 平安時代から1000年、授かったのは25人

2022年4月9日 06時00分
 日本三大禅宗の一つ黄檗宗おうばくしゅうの大本山萬福寺まんぷくじを開いた高僧隠元いんげんに先ごろ、天皇陛下から「厳統大師げんとうだいし」の尊称が贈られた。これは天皇が高僧らの死後に贈る諡号しごうと呼ばれるものだ。平安時代から1000年を超える伝統のある「大師号」だが、なぜか明治から昭和にかけての追贈件数が多い。皇室と仏教の深い関わりの一端を伝える大師号の歴史と意義を探った。(阿部博行)

隠元隆琦像(喜多元規筆)=萬福寺HPより

◆大師25人中2人は複数

 萬福寺(京都府)は4月3日、隠元の350年遠忌法要を行った。これに向けて陛下に諡号を賜りたいと申請し、2月25日に宮内庁の西村泰彦長官から近藤博道住職に「大師号」が伝達された。「厳統」は「厳格で綿密な宗旨、宗統、法統(伝統)」の意味だ。
 隠元は江戸時代に中国から渡来し、禅宗の教えとともに土木建築や印刷、書や絵画の技法、煎茶やインゲン豆などをもたらした。その教えに帰依した後水尾法皇から生前に国師の尊称を贈られた。大師号は大正天皇と昭和天皇からも授かり、今回の3度目の加号で「真空・華光・厳統大師」となった。
 歴史上、大師号を贈られた僧侶はわずか25人にとどまる。複数の大師号を持つのは異例で、隠元と浄土宗宗祖の法然しかいない。法然は江戸時代に「円光大師」を贈られて以降、平成の時代までに大師号を8つも授かっている。
 隠元と法然の場合、宗派の寺側が50年ごとの遠忌法要などのタイミングで、諡号の案を添えるなどして天皇の賜与しよを熱心に求め、その度に大師号を贈られてきたという経緯があった。

◆権威ある「お墨付き」

 天皇や貴族らに生前の功績をたたえて諡号を贈る制度は、8世紀初めに中国から日本に伝わったとされる。僧侶に対する大師号は「人を教え導く偉大な指導者」といった意味があり、平安時代の866年に清和天皇が天台宗開祖の最澄に「伝教大師」、同じ天台宗の円仁に「慈覚大師」を贈ったのが最初だった。
 お大師さまといえば「弘法大師」が有名だが、真言宗開祖の空海にこの大師号が贈られたのは、最澄らより55年遅い921年。醍醐天皇から授けられた。
 天皇が大師号を贈る伝統は、なぜ千年以上も細々と続いてきたのだろうか。京都芸術大学准教授で「おくりな―天皇の呼び名」を著した野村朋弘さんは、天皇と仏教の歴史的な関係を踏まえて、背景を次のように考察する。
 天皇は中世以降、政治的な権力を失っていく中で、文化的な権威を強く持つようになった。大師号を授ける権限は、天皇が伝統文化の擁護者であることを象徴的に示すとともに、各宗派に対して「宗教的な正当性」というお墨付きを与えることにつながる。宗派にとっては「民衆救済の教えを広める上で、天皇の権威や正当性というものが重要な意味を持っていた」と野村さんは指摘する。

◆明治に集中のわけ

 25人の大師を宗派別にみると、真言宗7人、天台宗6人、臨済宗3人、浄土真宗と曹洞宗が2人などとなっている。賜与件数は法然と隠元が複数回あるため、通算だと34件となる。時代別では江戸が11件と最も多く、明治の8件、平安と昭和の5件が続く。
 特筆されるのは、すべての大師の半数にあたる12人が明治から昭和にかけて大師号を贈られ、その中には浄土真宗の親鸞や曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍といった著名な宗祖も含まれていることだ。
 また明治天皇の8件という賜与件数は、一人の天皇としては突出している。明治といえば、政府の神仏分離令などを拡大解釈した民衆や神社関係者が仏教施設などを破壊する「廃仏毀釈きしゃく」運動が全国的に吹き荒れた。そんな時代にどうして大師号の賜与が集中したのだろうか。
 野村さんは、廃仏毀釈が明治9(1876)年ごろには収束し、文化財を保護して日本の伝統文化を再評価する動きが広がったことに言及。こうした時代の流れの中で「各宗派や寺が自分たちの教えを宣伝する意図もあって大師号をもらおうと動いたのだろう。明治維新で天皇中心の国家に変わったことで、なおのこと天皇から授かりたいと申請が出された可能性もある」と話している。

 大師号と国師号 天皇が僧侶に贈る尊称には大師号のほか、天皇が帰依した高僧らに授ける「国師」もある。国師は「国の師表」の意味。大師号は故人の僧侶が対象だが、国師号は生前でも構わず、禅宗の僧侶に多く贈られた。明治天皇紀によると、当時の宮内省の「大師国師号賜与(しよ)内規」は明治半ばに、将来は不要になるとして廃止されたが、その後も申請があり、前例が踏襲されたようだ。現在の宮内庁に内規はなく、申請があれば、皇室と宗派の関わりや慣例に照らして判断することになるという。

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