宇田新太郎

1931年(昭和6年)、UHFの開拓よりもVHFの実用化に舵を切った、東北帝国大学の宇田新太郎氏はその年の無線雑誌で次のように述べられておられます。

『将来、たとえていうと函館と青森、新潟と佐渡、或いは伊豆と大島、または瀬戸内海の各島というように、日本の各地に超短波無線電話が実施され、一般の電話の加入者が直に相手方と談話ができるようになれば、どれほど便利であろうかと私は常に考えているものであります。これをもって私の話を終わりといたします。』 (宇田新太郎, "船舶陸地間の超短波無線電話の同時送受話試験に就いて", 『ラヂオの日本』, 1931年9月号[超短波特集号], pp14-17)

八木・宇田アンテナのことばかり取り上げられる傾向が強い宇田氏ですが、単なる研究者にとどまらず、VHFの実用化のために日本各地で伝播試験を行い、積み上げた経験をもとに、より簡易で実用的なVHF無線機「宇田式超短波無線電話装置」を完成させました。そしてVHFの普及になくてはならない超短波無線装置の製造事業を育てて、我国の実用VHFに多大なる貢献をされました。

このページでは1931年に宇田氏が超短波の海上移動試験、陸上移動試験(自動車、自転車、汽車、歩行)を中心に御紹介するとともに、この年はじまった電気試験所J1AGの超短波研究に触れておきます。

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1931年(昭和6年)の超短波 ・・・ 東北帝大(宇田新太郎)実用化を優先してVHFへ回帰

10) 東北帝大の実用研究 第三期(VHF同時送受話試験) (1931年4-9月)

八木秀次氏の下で磁歪発振器を実験していた関 知四朗氏は1929年(昭和4年)9月、宇田氏の実験を手伝うよう八木氏から命じられ、宇田研究室の一員に加わりました。この関氏が後に仙台の日電商会へ転職し、同社へ宇田式超短波無線電話のノウハウを注入することになりますが、それについては後述します。

1930年(昭和5年)、宇田新太郎氏は実用化を促進するにはUHFよりもVHFを優先すべきとの結論に達し、VHFの実用化研究をスタートさせました。

そのきっかけが、日本無線史に記されています。

『昭和五年頃水中実験を行っていた抜山教授から実験の連絡用に超短波の電話機をかしてくれと宇田助教授に申入れがあった。当時宇田助教授の手許にあったものは前述の波長五〇糎(600MHz)のものであったが、これは実用として一般の人々に使いこなして貰うには未だ不充分のものであった。それに発振器の出力はまだ少な過ぎた。宇田助教授は超短波の実用化を促進するには粉波より米波を先きに実現すべきであるとの結論に達し、再び米波の実用化の研究に乗り出し、遂に波長四米(75MHz)ないし八米(37.5MHz)の超短波同時送受話装置を完成した。・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 電波監理委員会, 1951, p99)

そして1931年(昭和6年)早々に左図のVHF無線機(38-75MHz)が完成しました。発振機と変調機は別筐体のセパレート式です。

● 仙台近郊でのVHF試験 (1931年4-5月)

1931年(昭和6年)4月に行った試験は70MHz附近の「陸-海」伝播を試すものでした。仙台の東方にある野蒜海岸から波長4m(75MHz)で、船(塩釜→石巻→金華山)からは波長4.5m(67MHz)で同時通話式の無線電話を試験しました。

日本無線史からの引用を続けます。

(昭和6年)最初この装置を用い、波長四米で船舶陸地間の通話試験をした。即ち一組の送受信機を石巻湾に面した野蒜海岸におき、他の一組は塩釜金華山通いの汽船に乗せて通話試験をした。この成績が非常に良好であったので、次の試験に移った。

即ち一組の送受信機を仙台の青葉城址(高さ約一三〇米)に置き、他の一組は塩釜金華山通いの船上に置き、最期には仙台と金華山の頂上(高さ四四五米)との間で通話試験をした。この時は粉波の実験の場合のように片通話でなく試験装置がそのまま普通の電話の役目を果してくれたので臨機の実験を進めるのに非常に好都合であった。』 (電波監理委員会編, 前傾書, p99)

同年5月29-30日には仙台-金華山で試験しましたが、これは片通話で波長4m(75MHz)を青葉城址から送信し、金華山で受けたところ、極めて強勢でした。関氏は次のように記されています。

『第一回目の仙台対金華山の片通話試験をやった時のことである。送信班は例によって畠山先輩と佐藤常寿助手で(青葉城址の)天守台正宗公銅像の傍ら。受信班は先生と私(関 知四朗)で金華山山頂。天守台からは、約六〇キロメートルの見透し内にあった。実験の方法はすべて予め打ち合わせた手順によって製作された時間割によった。始めは送信側 導波器三本、反射器三角型三本構成で、受信側は導波器三本であったが実験の結果は素晴らしく良好で導波器ならびに主空中線を全部取り外し、ついには受信器を手に持ってその方向をぐるぐるとどの様に変えても、研究室で送受信機を試験しているような優秀な結果を得た。宿は宿は金華山黄金山神社社務所の御房で時の奥海宮司さんと先生は特にうまが合われたようで、その後幾度か実験の為お宿をさせて戴いたが、その都度随分と御世話になった。また楽しみの一つには多分出漁船から(神社へ)の献上物であったと思うが新鮮な海の幸による大変な御馳走にもあった。山頂までの往来に野猿の大群に出会ったこともあった。夜の電燈は細々とした自家用発電で細い谷川の水を昼間蓄えて夜だけ放出するとのことで灯っても暗かったし直流とのことであった。』 (関知四朗, "超短波による通信実験とその実用化", 『宇田新太郎先生』, 1978, 「宇田新太郎先生」刊行会, p60)

● 佐渡-新潟でのVHF試験 (1931年9月)

さらに1931年(昭和6年)9月14-19日には新潟高等学校の協力を得て、学校裏手の寄居浜海岸に送信所を設け、佐渡島との波長4.6m(65MHz)及び5.8m(52MHz)の伝搬試験を行いました。

新潟汽船の連絡船睦丸の甲板に受信機をセットして海上を移動しながら寄居浜海岸からの65MHzを受けましたが、船が水平線の下に入ってもしばらくの間は受信できることが確認されました。そして両津から水津へ移動しここを受信地としました。距離は44kmです。

ふたたび関氏の宇田氏との思い出を引用します。

『佐渡の最東端に水津という小さな漁村があるがそこと新潟は海上四〇キロメートル離れている。そこに実験に行った時のことだった。例によって先生と私(関 知四朗)が受信班となって水津入りをした。発信班は畠山勝造先輩と佐藤常寿助手である。そちらは新潟市寄居浜海岸に陣取りした。実験は水津海岸波打際では見透し外になり普通であったが、海岸から裏山に登るにつれて急速に良好となり予想通りの成績を得た。宿は水津の波打ちより少し上った尼寺にお願いした。夜半に肩をつつかれたので誰かと思ったら先生だった。先生の指差す方を眺めたら真っ暗闇の沖のかなたに赤い灯が点々と浮んで見えた。先生のお話しではこの海辺には鱰(しいら)といって三尺以上にもなる大変美味しい魚がいるので、それを釣る為の餌にする、いかを獲る釣り舟が焚いている篝火(かかりび)だとのことだった。私は始めて見たものだから九州の不知火(しらぬい)もこの様なものかなと思った。朝になったら黒褐色の大きな、いかが届けられておった。昨夜のものだった。たまたま実験が雨のため中止になったことがあった。真夏であったから先生に誘われるまま二人で小舟で海に出た。先生はさっそくガラスで水中を覗き込み、さざえを見つけられ、いとも気軽に御自身で潜られ大きいのを五六ケ獲られた。生きたさざえを見たのはこれが始めてであった。先生は「俺は小さい時から潜りは得意であった」と御自慢なされていた。この実験が終り新潟に引き上げる際に先生は吾々に見事な梨籠を一つずつ下さった。とてもうまい梨であった。』 (関知四朗, "超短波による通信実験とその実用化", 『宇田新太郎先生』, 1978, 「宇田新太郎先生」刊行会, p60)

寄居浜(新潟)送信点を光学的な視界に入れるためには水津(佐渡)受信点の高度を海抜72m以上必要だと計算されました。そこで水津の受信点を海抜15, 70, 90, 100mの4カ所に変えながら測定したところ、海抜70m以上では非常に強力に受かったのは当然としても、海抜15m(水津清願寺境内)でも、(無線電話は電波が弱く明瞭度を欠いたが)電信では符号を読むことができました。左写真は水津での受信測定の様子です。

帰路は両津(佐渡)発の連絡船が水津(佐渡)に寄港するため、水津より乗船しましたが、船上では新潟波が直ちに受信できて、最初は52MHzの垂直偏波を試し、後半には水平偏波を試しました。新潟側は三角反射器に数本の導波器による八木宇田アンテナです。

● 島民の大歓迎を受けた宇田グループ

宇田助教授は佐渡島民の大歓迎を受け、そして離島で暮らす人々が本土との通信路を熱望していることを知りました。生まれ故郷が富山県の(新潟県寄りの)日本海に面する舟見町(現:入善町)だった宇田助教授には大いに感じるところがあったようで、やがて超短波を離島通信として実用化(同時通話式であり、有線加入電話回線と相互接続)するための試験を推進するようになりました。以下、参考までにハワイの例を紹介しますが、空電妨害のないVHF無線電話は離島通信に最適だとして注目されました。

世界初のVHFの商用化(参考) ・・・2020年5月24日更新

【参考1】 ハワイのMutual Telephone CompanyがRCA社の協力で、加哇(カウアイ)島、オアフ島、馬哇(マウイ)島、布哇(ハワイ)島の各島嶼間を波長7m(周波数43MHz)の超短波無線電話で結び、さらにそれを陸線電話と相互接続するサービスを開始したのが1931年(昭和6年)11月2日(月曜日)の朝8時です。左図[左]の赤ラインで示す無線4回線が建設されました。

この4回線(オアフ島からカウアイ島、マウイ島、ハワイ島の各島、およびマウイ島-ハワイ島間)の料金は最初の3分までが3ドル(超過1分あたり1ドル)でした。しかし「カウアイ島-マウイ島」間、「カウアイ島-ハワイ島」間で電話する場合は無線回線を2つ使うため最初の3分までが5ドル(超過1分あたり1ドル)に設定されました。

1908年(明治41年)、(火花送信機の時代にあって)米国海軍では既に無線電話の実験を始めていました。ちょうどホノルル港外に停泊中の戦艦が試験通話しているのを、たまたま傍受したのがMutual Telephone社のボルチ氏(現在の同社社長)でした。ボルチ氏はこの無線電話を使えば、ハワイの島々の住民が隣り島の親戚や会社と自由に通話連絡ができて、みんなの暮らしが豊かになると考えました。

当時ハワイ州では島ごとに複数の電話会社がありましたが、Mutual Telephone社は約20年の歳月を掛けてそれらの買収を繰り返し、1929年(昭和4年)にはハワイの全ての電話を手中に収め、規格を統一しました。無線電話は1924年(大正13年)に社命を受けたボルチ氏が米国本土へ出張して、ハワイ島嶼間無線電話の実験についてウエスタン電気との技術協力を得ることに成功しました。折しも短波が見直され始めた時期であり周波数1.5~5MHzを用いたところ、空電妨害や他の無線局の高調波妨害を受け、良い成績は残せませんでした。

1928年(昭和3年)に波長5m(周波数60MHz)の実験機で島嶼間通信を試したところ超短波が最適との感触が得られ、VHF研究に熱心だったRCA社の協力を受けることにしました。1929~1930年(昭和4~5年)、両社で実地試験を繰り返した結果、構想から23年目にして、ついにボルチ氏の夢が実現したのです。これは世界初のVHF波の商用化です。上図[右]はMutural Telephone社が、RCA社の協力で各島に施設したVHF無線電話装置です。

("Announcement of the Inauguration of INTER-ISLAND Radio Telephone SERVICE", The Nippu Jiji, Oct.30, 1931, p3)、("Ultra-short wave in Hawaii telephone service", Electronics, 1932.1, Mc Graw HillCompany, p27)、("布哇各島を連絡する無線電話いよいよ開通", 『日布時事』, 1931.11.2, p6)。

【参考2】ハワイ―米国本土間に短波帯の無線電話が開通したのは1931年12月23日。朝10:30の開通式ではAT&T(米本土)のミラー副社長からの電話で着信ベルが鳴り、Mutual Telephone(ハワイ)のボルチ社長がその受話器を取り、ふたりは開通を喜び合いました。

11) 電気試験所平磯出張所J1AG のVHF試験 (1931年9月)

1931年(昭和6年)9月、電気試験所平磯出張所J1AGは、およそ7年ぶりに超短波(30 - 100MHz)の試験を行いました。

送信管はUV-203プッシュプルの自励発振で波長を10m(30MHz, 入力100W)、7m(42.86MHz, 入力80W)、5m(60MHz, 入力50W)、3m(100MHz, 入力15W)に可変させながら、これに211パラレルでトーン信号を変調する可聴電信を使いました。平磯出張所に建てた20m高のやぐらの上(海抜45m)に垂直あるいは水平ダブレットを波長ごとに取り換えながら送信しました(左図[左])。

受信はUV-240の再生式で、低周波二段増幅付きで、これを水戸(J1AGより13km)、友部駅付近(同28km)、石岡駅付近(同37km)、土浦駅付近(同54km)、筑波山頂(同50km)、上野帝国学士院屋上(106km)、大山中腹(同160km)へ持参し受信試験を繰り返しました。

その結果、見通しがきく場所(水戸や筑波山山頂)ではいづれの波長も良好でしたが、友部駅や石岡駅の付近は市街地で見通しがきく場所がなく、このような地理条件では波長が長いほうが有利な事が判りました。

なお土浦駅付近と上野帝国学士院屋上(東京)ではどの波長もまったく聞こえませんでしたが、平磯J1AGより160kmも離れている大山中腹(神奈川県)では波長5mの電波だけが受信できました。

12) J1AG/筑波山 によるVHF電力低減試験 (1931年10月)

1931年(昭和6年)10月、電気試験所平磯出張所J1AGの送信機を筑波山頂付近に移設して、第二次試験を実施しました。

直進性の強い超短波での遠距離通信には経路途中の山岳地帯で中継が不可欠と考え、筑波山からの伝播特性を調査するのが目的でした。発振管をUX245, UX171A, UX226の三種を使い分け、プレート電圧を可変させながら波長4m(75MHz)と波長7.5m(40MHz)で送信電力を4W, 2W, 1W 0.5W, 0.25W, 0.15Wと低減させて試験しました。

受信は平磯出張所の実験やぐらの上、五反田の電気試験所本所J1AFの新館屋上、愛宕山の東京放送局JOAKの屋上の三か所を選びました。もっとも良好だったのはJOAKの屋上で、J1AG/筑波の送信電力を0.15Wまで下げても(受信感度R9を最良として)R7でした(75MHz, 40MHzとも)。

逆にもっとも悪かったのが市街地にある五反田にある電試本所J1AFの屋上で、40MHz(4W)でR6が0.15Wまで下げるとR3に、75MHz(4W)でR4が、2Wと1WでR3になり、0.5W以下では全く入感しませんでした。

この試験では相当小さな電力でも見通しのきく二点間であれば通信できることが確認できました。また筑波山に仮設した自励発振式送信機は周波数変動が多く、電話の明瞭度が損なわれたことから、次回の試験では水晶発振式送信機を用いるべきとの知見を得ました。

13) 逓信官吏練習所無線実験室の超短波研究 (1930-2年頃)

逓信省工務局無線課が研究室として使っていた逓信官吏練習所無線実験室で小野技師と佐々木技師は1932年(昭和7年)頃まで超短波についても研究していました。左図は波長2m(150MHz)の実験で1931年(昭和6年)頃のものです。

小野技師は官練J1PPの短波無線電話の実験がひと段落した1927年(昭和2年)より約1年間米国へ留学しており、同年秋のワシントン国際無線電信会議には上司で日本政府委員の稲田局長と中上係長の随員という立場で参加しました。またその直後、東北帝国大の八木博士が米国のIRE学会で八木アンテナの研究発表をされた際にはスライド担当係として発表のお手伝いしています。小野技師は東北帝大の八木門下生(1923年3月卒業)だったからです。小野技師はこのときに超短波に強い関心を持ったのではないかと想像します。

『小野技師は短波の実験中、超短波の研究にも手をそめた。即ち糎(センチメートル)波を出してビーム・アンテナを励振し、電波の通路に邪魔物が入ると電波が届かなくことや、電波が反射すること等を確認したが、短波の実験に追われて、超短波を追求しなかった。若しこのとき糎波の実験を続けていたら、外国に先んじてレーダー等を発明したであろうと惜しまれる。尚これらの実験設備は小野さんが個人的にも懇意であった東久邇宮の御覧に供したとのことである。』 (故小野孝君記念刊行会, 『小野さんの生涯』, pp13-14)

また小野技師の上司だった中上係長も超短波に関心があったようです。

『センチ波の実験

短波の伝播試験によって二〇メートル以下の短波が無線通信に使用されることが判ってきたので、官吏練習所ではさらに短い波長の発振に研究を重ね、一メートル以下のセンチ波を発振する送信機の製作に取りかかったが、ほぼ実用可能の域に達したとき、東久邇宮が学校教練査閲官の資格で官練へお成りになった。そこで同所の実験設備を御覧に入れることになり、担当官が提出した数種の項目の中から中上さんは短波およびセンチ波の送信機を取り上げて自らその説明に当たった。

東久邇宮はパリから帰朝されたばかりで、自ら自動車を飛ばしてこられたほどであるから、陳列してある送信機に触ってみたいらしくややもすると手を出されるので高圧にひっかかるおそれがあり、その手をお止めするのに中上さんは躍起となったが、その口振り手振りがいかにも中上さんの性格をそのまま表しておって参列者にはなつかしい思い出となっている。

この実験でセンチ波は直線性が強くかつ小型の導体でも強い反射現象を示すことが明らかとなった。たとえば二〇センチ波(1.5GHz)のビーム・アンテナからわずか数十メートル離れたところに人が立っても指向性が変わるほどの反射影響を示した。この現象を認めた荒川技師や小野技師は、センチ波を伝播特性の研究だけにまかせないでむしろ反射現象の応用に主力を振り向けるべきだと提案したが、これは実を結ばないうちに他の実験に移った。まことに残念なことをしたものだ。この実験から十五年とたたないうちにB-二九が東京を爆撃し、・・・(略)・・・前述の実験研究を進めて居たらレーダーは官練の実験室で誕生していたかも知れない。センチ波以下の実験については小野技師の建言が中上さんを大きく動かしたらしい。』 (佐々木諦, 『中上さんと無線』, 電気通信協会, pp97-98)

14) 東京工業大学による第一回UHF(375MHz)フィールド試験 (1931年12月)

1931年(昭和6年)12月23日、東京工業大学の山本勇教授と森田清氏は波長80cm(375MHz)によるフィールド試験を神奈川県の江ノ島で行うために臨時免許(昭和6年電業第3572号, 375MHz, 2W以下, 12/31まで有効)を受けました。

東京工業大ではこれまで超短波用のBK振動管の研究を重ねており、ようやく実用的なBK振動管の製作のめどがたったことから、それを使った通信試験を行うことにしたものです。

東北帝国大学がUHF研究よりもVHFの実用化を先行させる方針に転じたため、我国のUHF通信の分野は東京工業大学を中心に進められました。この研究は手島工業教育育英資金団よりの補助金と、送受信機の製作には株式会社明電舎が協力しました。

『波長1m以下の電波を使用する無線通信に関しては近時諸所に於て実験研究が行われ僅少の電力を以て相当遠隔の地と無線連絡を為し得たと称する記録が少なくない。今回本学に於ても多年努力しつつあった電子振動発生用真空管の研究一段落を告げ、相当強力なる発振管を製作し得たので、これを使用し、かつ新空中線方式を考案してこれに連結し・・・(略)・・・実地試験を行った次第である。・・・(略)・・・

送信装置は第一図に示す如きものである。真空管は日本無線電信電話株式会社の製作に係り・・・(略)・・・レッヘル線は管の中心より測りて120cmの長さを有せしめてあるので、この上に丁度3個の半波定常波が載せられている。しかしてこの電圧波腹の位置に(1/2波長の)長さ40cmの銅棒をレッヘル線と直角に、しかもこれと絶縁して配置して送波アンテナとなし、かつその最も真空管に近いアンテナの位置から左方(図上)約25cmの位置に80 x 120 cmの平面銅版を置いて電波反射器の用をなさしめた。』 (山本勇/森田清, "波長80cm極超短波無線電話実験成績", 『東京工業大学報』, 1933.3, p196)

江ノ島の金鎚樓の庭園から送信し、東方へ鎌倉海岸線を移動しながら受信したところ、6.5km離れた小坪まで受信できました。

15) 東工大のUHFビームアンテナ

東工大のUHF(375MHz)試験にはビームアンテナが用いられていますので紹介しておきます。

『送信機は陽極・格子間に長さ一二〇糎(120cm)のレッヘル線を外部回路としてつなぎ、このレッヘル線上の定在波の電圧波腹位置に長さ半波長のダブレット空中線を、三本レッヘル線と直交して静電的に結合し、縦型空中線とし(エレメント三個の)単一方向性を与えるため、約一米四角の銅板を反射板として背部に設けたものである。』 (電波管理委員会編, 『日本無線史』 第三巻, 1951, p130)

左図[左]の回路図は電気学会で発表されたもの。左図[右]は森田氏が『ラヂオの応用知識』(日本ラヂオ通信学校, 1933)で使用した写真で、東工大構内に置かれたUHF送信機(アンテナ付き)です。

この反射板ARは透けて見えていますので、(日本無線史がいう)銅板ではなくて、四角い枠に複数の金属線を垂直方向に張ってメッシュ状にしているようです。そして前方へ腕木を出してレッヘル線を下から支える構造です。そのレッヘル線上には、垂直にA1, A2, A3 のエレメントが付いています。

また下図も、森田氏が「ラヂオの応用知識」で使用した写真で、(腕木が2つ見えますが)送信機と受信機を左右に並べて、どこかと通信試験をしている様子です。撮影場所の説明がありませんので詳しいことは不明で、東工大だろうとの見方が有力ですが、もしかすると(後述する)新橋の蔵前工業会館の屋上で、府立第三商業学校(深川)と通信している様子かもしれません。


1932年(昭和7年)の超短波 ・・・ 海軍に次いで気象台が実用化達成 (仙台放送局の実況中継も)

16) 中央気象台の富士山頂 短波試験 (1932年1月15日)

1930年(昭和5年)、オランダにある国際気象委員会事務局より地球的規模で実施する第二回極年観測(1932-33年)に日本も参加するよう勧誘を受けました。中央気象台(現:気象庁)の第四代台長の岡田武松氏は受諾を決意し、同年5月に文部省へ富士山頂での通年観測計画の予算要求を行いました。

1931年(昭和6年)12月、富士山頂での通年観測予算が承認されました。12月14日、第一次調査隊が登頂し氷雪期の装備、建物の構造、採暖の方法などを調べました。1932年(昭和7年1月15日)、第二次調査隊が短波無線機で山頂から東京の中央気象台JGAとの直通試験を行いました。夏季は富士山頂へ臨時に有線電話が架設されていましたが、それ以外のシーズンは通信手段がなかったからです。しかし試験結果はあまり良好とはいえず、(たとえ東京へ直通でなくても)確実に通信が確保できる補助回線の必要性を実感したようです。

気象庁が1975年(昭和50年)に編纂した気象百年史(資料編 第13章富士山観測所)から引用します。

『第2次の調査隊は、7年1月15日、淵秀隆、三宅恒夫、梅田三郎、出渕重雄(測候係)、森脇義雄、桂俊治(無線係)と数人の強力が無線機と乾電池を担ぎ揚げ、山頂と東京間の短波通信の試験をした。そして(寒さのために)乾電池不良で苦労しながらも、何とか交信するのに成功した。・・・(略)・・・観測結果の通報と山頂緊急時の連絡には通信設備がぜひ必要である。夏は前述の有線電話が使えるとしても、電話線は冬は雪や氷で切断されてしまうので無線に頼る外はない。このため山頂と中央気象台の間には短波無線電信、三島支台との間には超短波(VHF)無線電信・無線電話を取り付けることが計画された。短波は空中状態によって伝ぱが左右されることと、アンテナが大きくなるのが欠点で、このためVHFを利用して見通し内にある三島との間に回線を設けることにしたものである。』 (気象庁編, 『気象百年史 [資料編]』, 1975, 日本気象学会, pp373-374)

1922年(大正11年)に岡田中央気象台長の発案により、神戸の海洋気象台JTJより洋上の船舶向けに海上気象放送を行っている関係上、気象台は多くの無線技術者を擁していました。気象台無線陣はさっそく未知の超短波無線機の自前設計に手を付けたのです。

ちょうど3ヶ月ほど前、電気試験所平磯出張所がVHF試験を行いたいとのことで、中央気象台筑波山測候所の場所を提供したことがありました。電気学会で発表した論文「超短波通信に関する実験」の末尾の謝辞には次のようにあります。

『第一次(1931/9)又は第二次試験(1931/10)に夫々受信場所を提供された筑波山測候所、帝國學士院及理化學研究所の方々・・・(略)・・・』 (中井友三/木村六郎/上野茂敏, 超短波通信に関する実験, 『電気学会雑誌』Vol.52-No.533, 1932, p977)

これが縁となり(?)、気象台の無線陣は平磯出張所J1AGを訪ねてVHF無線機のノウハウを得たようです。

『当時VHFはまだ実用化されておらず、わずかに逓信省平磯試験所が昭和6年夏、筑波山と富士山(神奈川県の大山の誤記)の間で実験をしていた程度である。もちろん市販品はなかったから中央気象台無線係の主任曽我義徳を初め森脇、柳本、桂、山本らは平磯試験所を見学したり文献をあさったりして送受信機2台を自作して・・・(略)・・・』 (気象庁編, 前傾書, p374)

17) 東北帝大のVHF試験と有坂磐雄氏JLYB (1932年春)

1931年(昭和6年)4月1日、軍艦「金剛」の通信士だった有坂磐雄氏J1CV(ex JLYB)は海軍依託学生(研究生)として東北帝国大学工学部電気工学科に入学されました。仙台ではJ6CDの呼出符号でアマチュア無線を楽しまれる傍ら、宇田新太郎先生のもとで我国の超短波通信の実用化を研究されました。

1934年(昭和9年)3月26日に卒業されて東京へ戻り、空母「鳳翔」の通信長を経て、横須賀で超短波レーダーの開発に従事するようになります。時折Web上で見受けられる「有坂氏は海軍の航空機無線やレーダーの開発技術者で業務での無線を使う立場から、昭和2年3月にJLYBの免許を受け・・・」的な見解は全くの誤解です。JLYBの免許の方が先です。

『私は昭和十年のすえ、航空母艦鳳翔通信長から(横須賀の海軍航空技術廠の)兵器部無線課部員としてここに転勤した。』 (有坂磐雄, "私が完成させた電波兵器 航空レーダ", 『丸』, 1961.11, p38)と御本人が述べられていますが、昭和2年にアマチュア局JLYBの免許を取得されてから8年以上も経過してから航空無線やレーダーの研究開発をされるようになりました。

<双方ダブレットANTによる試験 65.2/42.9MHz(仙台-大塚)>

1932年(昭和7年)に仙台エリアで東北帝大J6BAによる42-65MHzの伝播試験が実施されました。学会論文に有坂氏の名前が登場するのはここからです。電気学会雑誌から引用します。

『 [実験一] 送受信空中線としてダブレット空中線を使用した場合

送信機を東北帝国大学工学部本館屋上(第一図A, 第二図参照, 第二図(下図)ではSは送信所)に設置した。アンテナ出力約十数ワットである。波長4.6米(65.2MHz)の実験では受信地を平地に於て感度よく聴取出来るのは8km乃至9km程度であった。第二図で松島(距離21km)、大塚(27km)で聴取不能。同じく距離26kmでも富山(高さ116米)に登れば極めて明瞭に聴取可能。塩釜(14km)ではレコード放送はよいが、強度不足のため談話の明瞭を欠いた。福田町(8km)附近は非常に明瞭にして、原ノ町(3.6km)にいたり愈々(いよいよ)その度を増した。此の所では周囲に鉄塔、電線、建築物等があったが聴取する上に認むべきほどの妨害がなかった。次に波長7米(42.9MHz)で実験した。第二図(下図)D, F点でやはり聴取不能。塩釜では明瞭に聴取出来、4.6米より好成績なるを示した。』 (宇田新太郎/有坂磐雄, "超短波による市街放送、その他特殊通信に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol52-No.530, 1932.9, 電気学会, p655)

<自動車による陸上移動試験 58.8MHz(仙台-塩釜)>

『 [実験二] 送受信空中線として引込空中線を使用した場合

普通の放送無線聴取用の引込式空中線をそのまま超短波の場合の送受信空中線に使用出来れば、場合によっては甚だ好都合である。この目的のため以下の実験をした。

(宇田)実験室の近傍にある高さ約30米の煙突から長さ約50米の線を斜に引き張り之を送信空中線として使用した。受信機は第三図(左図)に示す如く自動車内に設置した。図(左図)中Aは空中線にして長さ約3.5米である。最初波長5.1米(58.8MHz)で実験した。仙台市内はどこも進行中の自動車内に於て明瞭に聴取できた(因に使用した自動車はマグネット・スパークではなく電池感応コイル式であった為かIgnition sparkの妨害は極めて少く、かえってすぐ傍を通る自動車よりのものの影響が著しいという具合で、自動車の進行中に於ても容易に放送を聴取出来たのである。)。送信所を距る4ないし5粁(km)頃より次第に感度を減じ、第二図(上記の仙台―塩釜の広域地図)に於て点より後は自動車に取附けた短い空中線では聴取困難となった。そこで別に用意した長さ約6米半の釣竿より長さ約8米半の空中線を張り、之を自動車内の受信機の連結したところ、聴取再び容易となり約10粁(図中H点)まではよく聴取出来た。それより後は距離と共に感度を減じG点で聴取不能となり、塩釜はもとより聴取不能であった。途中の聴取区域に於て釣竿より張れる空中線を自動車を中心として廻して見ると、最高強度を与える方向のあることが明らかに認められた。・・・(略)・・・』 (宇田新太郎/有坂磐雄, "超短波による市街放送、その他特殊通信に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol52-No.530, 1932.9, 電気学会, p656)

<自転車による陸上移動試験 55.6MHz(仙台市街地)>

次に自転車の後部荷台の後方に送信機を、前部荷台に受信機をゴムで吊り下げるように搭載して、市街地の通話試験を行うことになりました。送信機は201Aプッシュプルで波長5.4m(55.6MHz)で数ワットのアンテナ出力でした。マイクは紐で首にかけた上で、周囲雑音が入らないよう送話口を口に付けて話すよう変調器を低感度に設計されています。電信の場合にはハンドルに付けた押しボタンを電鍵の代用としました。

受信機は特に小型化に配意して設計された低周波一段増幅の四球式で、自転車前輪の上に固定しました。アンテナは70cm長の単條空中線(ホイップ型)とし、バッテリー箱は後部の送信機の横に取り付けられています。もしかするとJ6BAは日本初のチャリンコ・モービル局(電信・電話)かも知れませんね。

『本装置を搭載した自転車で第九図に示す如く仙台市内を一巡し、東北帝国大学工学部構内との間に同時送受話の試験を行なった。高さの影響を見るために構内に設置したものは、第一回目は一階の研究室内に、第二回目は三階の屋上に設置した。此の二回の試験により高さが通達距離に影響する事がわかる。疾走中大きな建物や車庫等の傍を通過の際には若干感度の低下するを見た。・・・(略)・・・』 (宇田新太郎/有坂磐雄, "超短波による市街放送、その他特殊通信に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol52-No.530, 1932.9, 電気学会, pp657-658)

仙台の菱沼益男氏の回顧録に、東北帝大の依託学生の有坂磐雄氏が自転車で超短波試験をしているところを目撃したという話があり、それが『電波と共に:有坂磐雄伝』に掲載されていますので引用します。

『昭和六年、私が石油会社にいた頃、会社前で偶然有坂さんが自転車に組み立てた送受信機を積んで、送話器で話しながらやってくるのに出会いました。自転車を止め、一寸通話を休んで挨拶されましたが、超短波の同時送受話であること以外は秘密事項で何も話せません、とのことでした。

やがて私が(日電商会に転職して)手掛けることになる宇田式超短波装置であることも解りましたが、驚いたのは一メートル程の空中線が細い銅線で、バネの様にブラブラさせながら移動通話ができるのです。再生式で受信するとあのチョロチョロした電波が、そんな安定なものかとビックリしたわけです。その様なことが出来るとは一般の通行人は誰も想像もしなかったでしょうから、人だかりもしなかったのです。翌年、私もこの宇田式超短波を製作して売る日電商会に入って、すべては氷解いたしましたが・・・』 (岡本次雄/木賀忠雄編, 『電波と共に:有坂磐雄伝』(非売品), 1980, CQ出版, p31)

<自転車(新屋敷-岡田町)と背嚢歩行(新屋敷-六町目)による陸上移動試験 60MHz>

そして平地での伝播試験を自転車移動と歩行移動の両方で行ないました。日本初のポータブルVHF無線機(60MHz)です。

『平地に於て送受信機を地表に置いた場合に、どの位の通達距離が現在の装置で得らるるかを見るために仙台市郊外の新屋敷町と岡田町の間で通話試験を行った。(第十図(次の列車無線試験の地図: I[新屋敷町] - J地点 - K[六町目町] - L地点 - M[岡田町])参照)新屋敷に設置したものは前回の実験に大学構内に設置した装置で之を地上に固定し、之と移動式受信機を搭載した自転車との間に通話の試験を行ったのである。

第十一図(下図[左])にこの時用いた移動及び固定装置の全景を示す。これに依れば波長5米(60MHz)で地表に沿って通話し得る距離は大体3kmより4kmであった。第三表(次の列車無線試験の地図内の表を参照)にその成績が述べてあるが、六町目町通過の際にやや受話強度の低下したのは家屋および樹木の影響と思われる。何れにしても通達距離を増すには空中線を高く張るか、或いは波長をもっと長くする要がある。

第十二図(下図[右])は背嚢式送信機で、人体に装着する関係上一層軽量のものとした。・・・(略)・・・波長は5米(60MHz)である。電源は110ヴォルト及び6ヴォルトで共に乾電池を使用し、肩から両脇下に掛けるようにしてある。図中(下図[右])Bはプレート電源(右肩に下げた箱はバッテリー)である。この装置により、同じく新屋敷と六町目間で実験を行った。通達距離は大体2kmであった。・・・(略)・・・』 (宇田新太郎/有坂磐雄, "超短波による市街放送、その他特殊通信に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol52-No.530, 1932.9, 電気学会, p658)

<汽車による陸上移動試験 60MHz(仙台-塩釜)>

宇田先生と有坂氏の実験は列車無線へと発展しました。

『仙台塩釜間の列車内に約5米(60MHz)送受信機を装備し、進行中の列車と車外の固定局との間に同時送受話試験を行った。列車内に装備したものは取附装置および電源の外、送受信機共に自転車に使用したものをそのまま使用した。ただ電源の導線等は全部プラッグ・インとし乗車数分以内に取附を完了し、送受話を開始出来るようにした。・・・(略)・・・送信機は列車内の荷物台に装備し、受信機は単に座席に置いた。第十三図(下図:車内写真)は列車内の送受信機にして、Sは送信機、Aはダブレット空中線、Rは受信機である。

第一回の実験は大学構内の三階の屋上に送受信機を設置し、之と仙台発塩釜行の列車との間に通話試験を行った。互に通話の交換が出来たのは約5kmにして、それ以後は片送りとなり、列車内で受信し得るのみとなった。

第二回以後は大学構内(第十図(下地図の)A点)にあった送受信機を新田の西南約500米(第十図B点)の地点に移動し、之と塩釜行の列車との間に通話の試験を行なった。・・・(略)・・・実用という点よりいえば、むしろ長い貨物列車などに於て機関車と後部車掌との連絡用などによいかと思う。』 (宇田新太郎/有坂磐雄, "超短波による市街放送、その他特殊通信に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol52-No.530, 1932.9, 電気学会, pp658-659)

この試験で述べられている通り、宇田氏の超短波無線はのちに鉄道省で導入されました。

18) 東京工業大学の第二回UHF(375MHz)フィールド試験 (1932年4月)

1932年(昭和7年)3月22日、東京工業大学の山本教授と森田氏は再び江ノ島でUHF(375MHz)のフィールド試験を実施するために、再度臨時免許(昭和7年電業第714号, 375MHz, 2W以下, 4/10まで有効)を受けました。

【参考】 また同時に大岡山の大学構内を装置施設場所とする「300MHz以上、5W以下、呼出名称:東京工業大学」の通常免許も受けて、UHF実験は継続されました。この実験局のコールサインは(無線電話なので)「東京工業大学」でしたが、1934年(昭和9年)2月1日よりJ2BHに変更されました。

今回は江ノ島の富士見亭から送信し、西方へ茅ヶ崎海岸を移動受信したところ、8km離れた茅ヶ崎の南湖院海岸まで受信できました。

『今回は送信管の出力、前回に比し幾分大なる事と、瞬滅振動発振器を使用し受信機の自己発振を抑えて再生作用を充分に現わせしめたる事により、第1回の場合よりも成績大いに宜しく可聴率も大なるのみならず、既述の如くボデーエフェクトなく極めて容易に音声レコード等を聴取し得たのである。・・・(略)・・・以上詳記せる如く本送受信機は電子振動を利用する波長80cmの無線電信機であり、送信側入力約4ワットを以て距離約8kmに亘り通話を行う事が出来る。本機の特徴はその使用真空管並びに送受両空中線方式にあり、殊に受信側には可動反射空中線なるものを使用し、再生受信の調整を極めて容易ならしめてある。』 (山本勇/森田清, "波長80cm極超短波無線電話実験成績", 『東京工業大学報』, 1933.3, p203)

19) 宇田新太郎 帝国学士院より東宮御成婚記念賞を受賞

宇田氏は超短波の研究が認められて、帝国学士院より昭和7年度(1932年度)の"大阪毎日新聞・東京日日新聞寄附 東宮御成婚記念賞"を受賞されました。ちなみにこの年の自然科学分野の受賞者は以下の六名でした。

1932年(昭和7年)5月11-12日、東京帝国大学医学部新講堂で、受賞者の講演会(日本学術協会主催)が開かれました。宇田氏は12日17:30より"超短波長電波の研究"と題し、1924年(大正13年)以来の研究成果について講演しました。前半は八木宇田アンテナのこと、後半はVHF実用化への取組みの話題でした。後半部の要旨を引用します。

『私は恩師東北帝国大学八木秀次教授の御指導により、大正13年以来もっぱら超短波長電波の発生、伝播およびその通信工学への応用について研究してきた。・・・(略)・・・もっぱら簡易実用を主眼とし、特に無線電話として優秀なるセットを組立てることに努力してきた。その間、送信機については特に変調方法について研究し、いかにすれば変調度を深くかつ変歪をなくし得るやを調べた。受信機については再生、超再生、スーパーヘテロダイン法など各種の方法や接続について研究し、その間種々考案を施し、今日充分実用になる送受信機の完成をみるに至ったのである。特に私共は放送のように片方送りの目的のみでなく、互に通話が出来る、すなわち同時送受話用として、それも送信機と受信機が極めて接近せる場合、例えば同一軍艦、船舶、または飛行機内においても自局の送信機による妨害がなく、相手方と通話できるようにした。・・・(略)・・・私共はまた波長数十糎(センチ)の極超短波(UHF)による同時送受話(宇田新太郎, "極超短波による無線電信電話二重通信に就て", 『電気評論』, 1930.2)、多重通信(宇田新太郎, "極超短波に依る多重通信法", 『電気学会大会講演予稿』, 1930.4)、方向探知(宇田新太郎, "極超短波用方向探知器", 『電気学会雑誌』, 1930.3)に関し、実験的の研究を行った。かかる極超短波を用いての実験としては、すべて他に先んじて為されたものである。』 (宇田新太郎, "超短波長電波の研究", 『昭和七年度帝国学士院受賞者講演録』, 1933.2, 日本学術協会, pp16-28)

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