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(9)元クラブ代表・西垣成美さん 「子どもたちのため」チーム設立に尽力

2022年6月18日 11時45分 (6月18日 16時11分更新)

名古屋の創設に尽力した元クラブ代表の西垣成美さん=愛知県岡崎市で

―関西学院大から1963年にトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)に入社。名古屋の前身の同社サッカー部でGKとして活躍し、指導者も務めた。
「大学の先輩に誘われて入り、当初から監督兼選手のような立場を任された。技術のある選手が多くなかったので、とにかく走り負けないように練習中は徹底的に走り込ませた。厳しくしたため、チームメートから『鬼垣』と呼ばれていた」
―トヨタの東京支社(当時)に勤めていた1990年、同社サッカー部のプロリーグ加入に力を注いだ。
「トヨタは当初、プロリーグに参加しない方針だった。東海三県に他に意欲を見せている企業もなかった。そのころ、愛知ではサッカーをやる子どもが増えていた。『子どもたちの夢のためにも愛知にプロチームをつくらなければいけない』と思い、クビになるのを覚悟の上で当時の豊田章一郎社長(現名誉会長)に直訴した。章一郎さんとは以前から関わりがあった。構想や必要性を繰り返し説明し、『西垣が言うのなら』と認めてもらえた」

新チーム名を発表する赤尾愛知サッカー協会理事長(左)と西垣成美愛知プロサッカー設立準備会事務局長=1991年2月15日、名古屋市中区の名古屋栄ビルで

―1992年に同社サッカー部を母体とする「名古屋グランパスエイト」が始動し、自身は初代クラブ代表に就任。Jリーグ初年度の93年、翌94年は下位に低迷したが、95年にフランス人の名将ベンゲル監督を招へいし、チームの成績が向上した。
「ベンゲル監督は選手の適性ポジションを見極め、特長を引き出すのがうまかった。ピッチの外でも研究熱心。キャンプの際は移動の飛行機で解剖学の本を熱心に読み、ホテルでの選手の食事も食べていいもの、だめなものを細かく管理していた。さすが欧州の監督。プロとはこういうものだと教えてくれた」
―95年、リーグ戦で3位となり、同年度の天皇杯で初優勝を果たした。
「勝てなかった時期は周囲から『たいしたことないな』という声が耳に入ることもあった。1つ結果を得られ、名古屋の存在を全国に知らしめることができた。取り組んできたことは間違いじゃなかったと思えた」
―2000年に退任。クラブを離れて20年以上がたつが、今も名古屋の試合結果は欠かさず豊田章一郎氏に伝えている。
「章一郎さんのおかげでグランパスをつくることができた。成績が振るわない時期も自分を信用してもらった。今でも感謝している。そういう気持ちを込め、中継で試合を見届けるとすぐにメールで結果を送っている。この先も、できる限り続けていきたい」

西垣成美(にしがき・なるみ) 兵庫・芦屋高、関西学院大を経てトヨタ自動車工業に入社。同社サッカー部でGK兼監督を担い、引退後は愛知県サッカー協会の技術委員長にも就いた。1992年、名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)の初代代表に就任。2000年に退いた後は豊田スタジアム副社長を務めた。神戸市出身。81歳。

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