『荒城の月』が聖歌になった

斎藤基彦



 ベルギーのアルデンヌ高原の町シネー (Ciney) から10kmほど南に下った所に,シュヴトーニュ修道院 (Monastere de Chevetogne) というのがある.この修道会はベネディクト会士ランベール・ボードワン師 (Dom Lambert Beauduin, 1873〜1960) によってカトリック教徒と東方正教徒の融合を目指し1925年に設立され,1939年に現在の地に移ったものだ.ここではカトリックと東方正教の両方式でサービスが行なわれている.

 ここの東方正教の聖体礼儀で用いられる聖クリュソストモス(クリソストモスと表記されることもある.英語では St. John Chrysostom,ロシア語ではIoanna Zlatoust)の典礼の中の『ケルビム(またはヘルヴィム)の歌』に滝廉太郎の『荒城の月』のメロディーが使われている.この典礼は古い教会スラブ語で執り行われ,CD になっている [CD1].その譜面を下に示す(この譜面は,筆者の依頼を受け,オランダ在住の村岡恵子氏が中山博幸氏に労をお願いしたところ,中山氏がシュヴトーニュにおもむき,直接芦田竜介神父より頂戴してくださったものである.関係された皆様に感謝申し上げる.2008年3月).





シュヴトーニュ修道院のケルビム聖歌の譜(Maxime Gimenez 編曲)


 『荒城の月』が聖歌になったいきさつは,大塚野百合『讃美歌・唱歌とゴスペル』によると,20年ほど前の話だという.シュヴトーニュ僧院を訪れた芦田竜介神父が 『荒城の月』を紹介したところ,マクシム・ジムネ師(Pere Maxime Gimenez)がこれをケルビム聖歌のメロディーに編曲したそうだ.  CDで典礼音楽の指揮を執るジムネ師は1948年生まれ,パリのカトリック学院で学んだ後,1975年末にシュヴトーニュ僧院に入り,1980年より2001年にかけてシュヴトーニュ聖歌隊を指揮されている.ジムネ師は日本のCD [CD2] のパンフレットに寄せた文で,『荒城の月』を知ったのは1986年のこととしている.そして

ビザンツ−スラブ典礼という背景において日本の旋律を選んだことは,少なからず恣意的かつ大胆に見えるかも知れない.しかしいかなる外的,形式的基準も,こうした音楽が神聖であるか否かを決めることなどできない.ある作品の美的着想において,その普遍的・宗教的特性を形成するものを見分けるためには,ある心からの感性に従うだけで足りることがままあるものだ.こうして「荒城の月」の旋律の音楽的本質を吟味してみると,画家の偉大なスケッチのように純粋で率直な足跡を持っているいるように感じられる.なによりも,この旋律は魂の深い動きに合っている.そして,日本の精神的繊細さをなす優雅な郷愁を,またあらゆるものの愛で方を示す優雅な謙虚さや慎みを,言葉を用いずに告げている.

と述べている.

 『荒城の月』は良く知られているように,土井晩翠の詩に滝廉太郎が曲を付けたものである.これは,東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で中学生用の教科書を作る時,歌詞を公開し,それに付ける曲を募集した.当時音楽学校の研究科生だった廉太郎はこれに応募し,見事3曲(『荒城の月』の他に『箱根の山』と『豊太閤』)が採用されることとなった.彼はこれにより,賞金15円を得たと言われている.

 元々の廉太郎のメロディーは現在良く知られているメロディーと少し違うところが ある. 現行のものは1924年の山田耕筰の編曲によるもので,オリジナルに付いていた「・・・花の宴」の「え」のシャープを取り,「千代の松が枝」のリズムが変更されていて,前奏・伴奏が付けられた.調子もロ短調からニ短調に三度上げられている.もっとも山田が編曲した最初の1918年の版では,「え」は滝のオリジナルと同じだったが,1924年の第二版になって変更されたそうだ[海老沢敏『滝 廉太郎』p. 218, 後藤暢子編集・校訂『山田耕筰作品全集』第九巻,春秋社,1993年].現行の山田版の楽譜を下に示した.楽譜が見にくい場合は譜をクリックすると大きくなる.



 坂井孝彦氏の「湘南通信」によると,この「荒城の月」のメロディはメンデルスゾーンによるモテット作品番号23-3の出だしと良く似ているという.氏の文を引用させていただく:

バッハ、メンデルスゾーンなどの教会音楽に精通されておられて, 自らもドイツなどの教会で唱ってこられている吉田弘さんにお聞きしましたところ, メンデルスゾーンのこの作品23は,マルチン・ルターの作曲した コラール(ルター派の賛美歌)の旋律の基づいて作られているということです. そして,ギリシャ正教の聖歌の旋律,あるいはカトリックのグレゴリ聖歌 にも似たような旋律があって,ルターはその旋律を使っているのかも しれない,ということです.吉田さんのお考えでは,旋律のルーツ を辿っていくと古い教会音楽にたどりつくということがある,ということで, これは西洋音楽史ではよくあることのようです.
吉田さんはメンデルスゾーン作曲のモテット "Mitten wir im Leben sind"(作品番号23,「我ら人生のただ中にあって」) の曲をお贈りくださいました.私は何度も何度もこの曲を聞きました. もしかして瀧廉太郎もこの曲を何度も何度も耳にしたのではないのかなあ,とも 思いました.

もっとも筆者の素人感覚では,偶然最初の数音が同じだけで,曲想は関連が無いように感じられる.

 ちなみに,滝廉太郎はドイツ留学の前に洗礼と堅信礼を受けている.九州で司祭をされ軽井沢に引退された太田俊夫師によると,滝は1900 (明治33) 年11月7日東京市麹町区上二番丁にあった聖公会聖愛教会で元田作之進 司祭 (1862〜1928,後に立教大学学長) によって洗礼を受け,同じ月の28日ジョン・マキム司祭 (1852〜1936) によって堅信式を受けている記録があるという [小長久子『滝廉太郎』,4-5ページ].この記録は『北関東教区七十年史』(日本聖公会北関東教区,1966年)に写真で紹介されているそうだ.滝この教会のオルガニストを勤めたという.滝がキリスト教と全く縁がなかったという訳ではないようだ.

 滝廉太郎は1901(明治34)年4月にドイツのライプチッヒ音楽院に留学するが,病気となり志半ばで留学を断念,1902年10月に帰国する.ちなみにこの音楽院は先ほどのメンデルスゾーンによって創立された.滝は郷里の大分に帰り療養生活を送る.その折には聖公会の英人ブリベ司教と親交を深めたそうだ.廉太郎の病は癒えることなく,1903年6月弱冠数え25歳で没した.



ケルビム聖歌について

 シュヴトーニュ修道院のCDのパンフレットによると,ケルビム聖歌の歌詞は,古い教会スラブ語で書いてあり,次のようになっている.

これでは読むのが難しいので,現代ロシア文字に書き換えると次のようになる.


これなら読めるが,古いロシア語なので意味を採るのは難しい.現代ロシア語訳は

   http://azbyka.ru/stairs/5/5g8_1_4.htm

にある.またクリュソストモスの典礼の全文は

   http://liturgy.ru/nav/liturg/liturgia.php

で見られる.このサイトには,典礼のビデオも付いていて,ロシア正教の儀式の雰囲気を知ることができる.

 以下にアメリカのアンティオキア正教会 (Antiochian Archdiocese of North America) で使われている英語訳を示す.

"The Divine Liturgy of Our Father among the Saint John Chrysotom"

We who mystically represent the Cherubim,
and sing to the life-giving Trinity the thrice-holy hymn,
let us now lay aside all earthly care:
that we may receive the King of all,
who comes invisibly upborne by the Angelic Hosts.
Alleluia, alleluia, alleluia.

大阪ハリスト正教会で使われている日本語歌詞は数種類あるが,その内の一つは

我ら,奥密にしてヘルヴィムを象(かた)どり,
聖三の歌を生命(いのち)を施す聖三者に歌いて,
今この世の慮(おもんばかり)をことごとく退(しりぞ)くべし.
アミン,アミン.
神使(しんし)の軍の見えずして,
にない奉る万有の王を,戴(いただ)かんとするに縁る.
アリルイヤ,アリルイヤ,アリルイヤ.

となっている.



ケルビムと聖クリュソストモス

 ちなみに,ケルビム (英語で Cherubim) とは複数形で単数はケルブ.聖なるものを守護する天的存在の象徴で,一般に羽と手足を持つ像で表されるが,天使とは区別されるそうだ.旧約聖書に多数(創世記3章24節,出エジプト記25章18-22節,他),新約聖書でも ヘブル人への手紙9章5節で言及されている.



ケルビム像の一例. 聖クリュソストモス (イスタンブール,アヤ・ソフィア).

『ケルビム賛歌』には沢山の東欧の音楽家が曲を付けている.試みに インターネットで"Cherbic Hymn"で検索すると,例えば

http://www.cpdl.org/wiki/index.php?title=Category:Sheet_music&from;=C

http://en.liturgy.ru/php/salt.php?alt=lt36

など多数のサイトがある.ここで ロシアのラフマニノフ,チャイコフスキー,ウクライナのボルトニャアンスキーなど10人あまりの作曲家の楽譜や音源に接することができる.

 聖ヨハネ・クリュソストモスは 347年シリアのアンテオケ (現在の Antakya) で東ローマ帝国の将軍の子として生まれた.381年アンテオケの教会で聖職者となる.具体的で分かりやすい説教が評判で,「金の口」とあだ名された.398年コンスタンチノープルの大司教となるが,神を中心とした質素な生活を厳格に求める説教が災いして,当時の皇帝アルカディウス (Arcadius) の皇后エウドクシア (Eudoxia) やアレクサンドリアの大司教テオフィロス (Theophilus) に憎まれ,陰謀により大司教の地位を追われ,アルメニアのククスス (Cucusus) に追放された.これにとどまらず,407年には黒海東北岸のピティウス (Pityus) に移動するよう命令が出された.移動の途中疲労のため,亡くなった.コンスタンチノープルに遺体が戻されたとき,遺体は腐っていなかったと伝えられている.

 守護日は1月27日で,モーツァルトの洗礼名に入っている.ザルツブルクの聖ルパート寺院に残っている記録によると,モーツァルトの洗礼名は Joannes Chrysost[omus] Wolfgangus Theophilus Mozart となっているそうだ.ちなみに Theophilus は名付け親の名前からもらったものが,ギリシャ語で神の愛するものという意味で,結婚式の署名ではフランス語風に Amadeとしているという.妻のコンスタンツェは Amadeus を用いた.

 ロシア語のサイトについてはユーリ・モナルハ博士 (Dr. Yuriy Monarkha) にご教示を得た.記して感謝する.
(2006年12月.2007年2月 改定,2007年2月 日本語歌詞改定,2008年3月 シュヴトーニュ修道院のケルビム聖歌の譜を追加)


[参考]

『ケルビム聖歌』が『荒城の月』のメロディーのCDは二つ出ている.
[C1] "La Divine Liturgie", Maxime Gimenez (dir), Choeur des Moines de Chevetogne, (Art & Musique CH/CD 105/387, 1987年8月録音).
No. 12 "Hymne des Cherubins"
[C2] 『荒城の月のすべて』(キングレコード KICG-3133,2003年6月).
No. 17 「ヘルヴィム賛歌」(ヘルヴィムと表記してある) .これはCD1と同じ音源である.滝に関する解説が非常に詳しく,ケルビム聖歌についてのジムネ師の小文と伊藤恵子氏の解説がある.
[E] 海老沢敏,『滝 廉太郎』(岩波新書,2004年11月)
[O] 大塚野百合,『賛美歌・唱歌とゴスペル 』 (創元社,2006年11月).
第一章 滝廉太郎とキリスト教 に『荒城の月』が聖歌になったいきさつがある.
[K] 小長久子,『滝廉太郎』(吉川弘文館,2003年8月).
[S] 坂井孝彦,「湘南通信」.
   http://www.hfc-south.com/index.html
[D] 聖クリュソストモスの伝記は主として下記によった.
D. Attwater, "The Avenel Dictionary of Saints", (Avenel, 1981).
[E] 聖クリュソストモスの典礼の英訳は,下記のサイトで見ることができる.
  http://yourpage.blazenet.net/chrysostom/liturgy.html#chymn


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