日本の敗戦が濃厚となった昭和20(1945)年4月初旬。旧海軍航空基地(徳島県松茂町)で、徳島海軍航空隊の操縦員や偵察員ら約250人が基地の広場に集められた。
「白菊特別攻撃隊員を命ずる」。航空隊司令から命令を受けた隊員の中に、田尻正人さん(92)=徳島市在住=の姿もあった。
同航空隊は本来、風向きや方位を計測し航路を誘導する偵察員を養成する訓練部隊だった。
しかし、戦況が厳しくなり特攻隊を編成することになった。操縦員の不足で各地の航空隊や中国・上海の実戦部隊などから、次々と操縦員が集められていたのだ。
当時の心境について、「特攻するのは分かっていた。命令があったとき、覚悟はできていたんです」と振り返る。
田尻さんは鹿児島県出身。大阪外国語学校(現大阪大外国語学部)に進学し、3年生だった昭和18年9月に海軍飛行予備学生を志願した。
茨城県の土浦海軍航空隊で基礎教育を学び、台湾の航空隊に転属。ここで練習機や零戦の操縦を習得後、零戦を主体とする中国・上海の実戦部隊に配属された。
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昭和20年2月の辞令で、特攻隊を編成する徳島海軍航空隊への転属が決まり、3月末に赴任した。
「零戦に乗るものと思っていたが、滑走路には見たことのない飛行機があった。それが『白菊』だったんです」。白菊で沖縄に特攻すると知らされ驚いたという。
偵察員を養成するための練習機「白菊」は戦闘機としての機能は十分ではなかったが、実戦で使える飛行機が不足し特攻機に駆り出されたのだ。