第五部 アマとプロ〈4〉
ミスター・アマ孤高の戦い
「忌まわしい雪男」「ミスター・アマチュア」。国際オリンピック委員会(IOC)で、第5代アベリー・ブランデージ会長(米)ほど多くのあだ名をちょうだいした会長はいない。アマチュアリズムを守り、プロを処断する孤高の戦いを、時代の流れに逆らって、任期満了の1972年まで続けた、その“功績”を評してのことだ。
特に「冬季五輪導入は、クーベルタンの最大の過ち」などと、利権が絡む冬季五輪や、スキー競技の廃止を叫び続けた。投票にまで発展した68年のグルノーブル総会で、冬季競技防衛に戦ったマーク・ホドラー前国際スキー連盟(FIS)会長は言う。「プロ化が五輪を破滅させると言っていたが、彼の方針こそ五輪を破滅させるところだった」
IOCと、独自のアマ規定を持つ国際競技連盟との対立は、五輪「アマチュア憲章」を考案した25年から本格化した。特に、スポーツのプロ化が進んだ50―60年代、旧ソ連圏のステート・アマ(政府が生活を保証する選手)などに目をつぶり、「いかなる報酬も補償ももらってはいけない」というアマ条項を死守し続けたブランデージ時代は現実と理想の差が大きかった。
ブランデージ氏は労働階級の家庭に育ち、シカゴで新聞配達をしながら、陸上の練習に励んだ。その後建設業で成功して億万長者となるとは言え、英国の中・上流階級が労働階級を締め出すために使ったアマチュアリズムを、彼が守り続けたのは皮肉な話だ。
陸上五種競技に出場した12年ストックホルム五輪では、優勝した選手のアマチュア規定違反をIOCに“注進”したと言われる。IOC副会長時代の47年、アマチュア委員長になり、厳しいアマ規定を憲章に盛り込んだ。「彼にとってアマチュアリズムは宗教で、教育だった。それなしには、五輪の理想はトランプの家のように崩れると考えていた」。ブランデージ研究家のオットー・シュランツ・マークボロ大教授は言う。
五輪憲章からついにアマチュア条項が除かれるのは、74年の総会、キラニン会長時代のことだ。「ブランデージは72年には時代遅れの恐竜みたいに見えていたから、誰が会長でも変えたろうね」とは、英ウォーウィック大のリンカン・アリソン教授。「ただ、キラニンの父は競馬のブックメーカー(賭け胴元)もやっていた。プロスポーツに浸っていた分、現実的だったのさ」とも。(アテネ・結城 和香子)
(2004年1月24日付 読売新聞 無断転載禁止)