四つ相撲学んだ亡き恩師と約束 大相撲・朝乃山(下)
富山出身の朝乃山が相撲を始めたのは小学4年生のとき。当時は今の四つ相撲ではなく、「押していくしかなかった」。中学で全国大会にも出場するレベルになったが、この頃もまだ押し相撲だったという。
中学3年の夏に左肘を骨折し、相撲をやめようと思っていたが、富山商業高の相撲部監督だった浦山英樹から熱烈な誘いを受けて翻意した。その浦山から教わったのが四つ相撲だった。
当時から身長が高く、体も柔らかかった。四つ相撲を取るのに適した体つきだったのだろう。浦山には当たる角度や上手の取り方、寄る方向など四つ相撲のイロハをたたき込まれた。
褒められた記憶はないが、期待に応えようと厳しい稽古を乗り越え、四つ相撲を体に染み込ませていった。「監督に教えてもらわなかったら、プロでこんなに活躍できてないと思います」。ここで自分の相撲となる右四つの形を見つけた。
学生相撲の強豪、近大を経て高砂部屋に入門。三段目100枚目格付け出しで2016年3月に初土俵を踏むと、翌年1月の初場所で幕下優勝を果たし十両昇進を決めた。喜びもつかの間、悲しい知らせを受けたのは翌日のことだった。
浦山ががんのため40歳でこの世を去ったのだ。幕下優勝で活躍した姿を最後に恩師に見せることができたが、「もっといろんなことを聞いておけばよかったな」と悔やんだ。だから、しこ名の「朝乃山英樹」には自らの本名(石橋広暉)ではなく、浦山の名前をもらって一緒に戦ってきた。
■攻めて「富山のスーパースター」へ
新入幕から5月の夏場所で優勝するまでの過去10場所で2回の敢闘賞に輝く一方、負け越しも5回を数えて足踏みが続いた。まわしを引いても安易な投げに頼ったりして墓穴を掘ることが少なくなかった。師匠の高砂親方(元大関朝潮)から言われたのは「攻めろ。四つ相撲でも攻撃的にいかない限り勝てない」。初優勝は教えを土俵で体現できた証しだった。
浦山が亡くなる直前に書いた手紙がある。震える字でこう書かれていた。「横綱になれるのは一握りだが、その一握りになれる可能性がおまえにはある。富山のスーパースターになりなさい」。今でも土俵に向かう花道で文面を思い出す。「褒めてるわけではないと思うけど、天国で応援してくれてるはず。監督との約束にちょっとでも近づけるように頑張りたい」
恩師との約束を果たす道のりはまだ半ばだ。自分の相撲を究め、ひたすら上を目指していくしかない。それが一番の恩返しになると心得ている。=敬称略
(田原悠太郎)