北朝鮮拉致

曽我ひとみさんが語るいまだ帰らぬ母への思い(中) 「母の年齢を考えると長くは待てません」 「北では白い米など見たことがない」

【北朝鮮拉致】曽我ひとみさんが語るいまだ帰らぬ母への思い(中) 「母の年齢を考えると長くは待てません」 「北では白い米など見たことがない」
【北朝鮮拉致】曽我ひとみさんが語るいまだ帰らぬ母への思い(中) 「母の年齢を考えると長くは待てません」 「北では白い米など見たことがない」
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拉致された状況に続き、母・ミヨシさん(83)=拉致当時(46)=との思い出を切々と語った拉致被害者の曽我ひとみさん(56)。話は、日本では考えられない過酷な北朝鮮での生活にまで及んだ。

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母の年齢を超えてしまった

あのころの母は毎日どんな気持ちでいたのだろうと、思うことがあります。生活に追われ、働きづめの毎日で、おしゃれの一つもできなかった。集落の付き合いや、職場の付き合いなどもあっただろうに、数えるくらいしか出かけることもなかったと聞きました。そのせいばかりではないのでしょうが、私の知る限りでは、母の写真は両手で数えられるぐらいしか残っていません。

今、私は母のいなくなった年の年齢をとうに超してしまいました。今の私なら母のわがままを受け止めることができると思います。だから母にはあのとき言えなかった愚痴をこぼしてもらい、本当の気持ちを話してほしいと思っています。母が帰ってきたら、やりたいことを好きなだけやらせてあげたい。洋服もたくさん買っておしゃれをして、いっぱい旅行に出かけてもらいたい。そして家族みんなと笑い声の絶えない楽しい生活を存分に味わってもらいたいと未来に希望を持っています。

ただ母の年齢を考えるとそんなに長くは待てません。ごく近い未来ということになります。

帰国したからこそ話せる母の思い出

今こうして、この場で母の思い出話ができるのは(平成14年10月に)日本に帰ってこれたからだと思っています。帰国当初は日本国中かなり混乱をきたしていたようで、私自身も「何でこんなに周りの人たちは騒いでいるのだろう。私はただ自分の生まれ育った故郷に帰ってきただけなのに」とかなり困惑しました。

でも徐々に日本の環境、生まれ育った地元(新潟県・佐渡島)での生活になじんできて、母のことを思いだす余裕ができてきたから、人にも話をすることができるようになったのだと思います。もしも今でも北で生活をしていたならば、こんなにたくさんの母との出来事を思いだすことができたでしょうか。

ときどきは思いだすことがあっても、当時の生活状態ではあれもこれも、母の思い通りに何でもしてあげたいなどと思うことはなかったでしょう。思ったとしてもできる状況ではなかったのです。それだけ北の生活は厳しいものでした。

買い物も指導員の監視付き

北での生活状況を少し話します。招待所での生活が始まってしばらくすると、生活費の支給がありました。買いたいものはあったのですが、まず第1に紙幣価値が分からないこと、第2に物の価値も分からない、第3に勝手に買い物に出られないなどの理由から使えませんでした。

どうしても必要なものがあるときは、事前におばさん、つまり(曽我さん母娘を拉致した工作員の)キム・ミョンスクに伝え、おばさんから指導員に伝え、日程が決まれば送迎の車が来てやっと出かけられるという具合でした。今日どうしても買い物がしたいから、これから出かけるなんていうことはできなかったのです。

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