学校にすれば、生徒をどうやって集めるか、制服モデルチェンジによって学校はどう変わっていくか、地域社会へのアピールにつながる、などの思惑があるというわけだ。京都には最近まで制服を自由化した府立高校がいくつかあった。だが、自由化を続けていれば、いつまでたっても良い教育は行えないと、高校は考えるようになった。2019年、府立朱雀高校に制服が導入されたことで、府立高校で制服自由の学校はなくなった(公立高校では京都市立紫野高校、市立銅駝美術工芸高校が制服自由)。

「校則の一環としてこの学校に入学したならばこの制服を着る、ということで、学校イコール制服という考え方です。生徒、保護者にとっては、個人での差が出ないこと、一体感を生むこと、公私のけじめをつける、3年間通すと経済的である、毎日着る服を考える必要が無く勉強に集中できるということ等メリットもありますが、毎日、通学に適した服を選ぶという習慣が無くなることにより、いろいろなものを考えるときに視野が狭くなるかな、という気もしており、また近年では個性や多様性を重視することもあり、制服が絶対にいいとは思っていません。制服販売会社の私が言うのもおかしいですけど」

 着る服装の選択肢が狭まることで、自分で考えて選ぶという自主性が身につかないのではと懸念している。制服に対して、教師、生徒、保護者がみな同じような捉え方をしているわけではない。長屋氏はこう分析する。

「教師にすれば服装指導がすこしでも手間が省けるのは大きく、生徒の一体感、帰属意識を高め、学校のシンボル、教育改革の目玉としてアピールできます。生徒は通学用の服を選ぶ必要がなく楽、かわいいという思いがあるでしょう。保護者からみると制服は耐久性がありメンテナンスも楽、また余計な服を買わなくてもいい、ということです」

 学校にすれば生活指導が軽減されるのは助かる。だからといって何も指導しなくて済むというわけではない。ネクタイの結び目をくずす、スカート丈を短くする、ズボンをだらしなくはくなどの着こなし方の問題が出てくる。学校はこれらを注意してもなかなか効果がない。村田堂では、生徒向けに服育講座を行っている。一般社会では制服姿はこんなふうに見られているという話から始まる。制服を売るだけが仕事ではない、どのように着るかを教える、いうなれば、学校教育に関与することになる。

「たとえば、生徒の中ではスカートは短いほうがかわいいとされる。けれど制服デザインのバランスが崩れます。盗撮される危険が高まること、自分の身は自分で守りなさい、という話もします。また、制服にさまざまなバリエーションがあり、どういう組み合わせがいいかわからない。そこで、着こなし方、メンテナンスの方法などを伝えています。制服は教材であり、学校教育の一環です。一方で制服は文化です。時代とともに役割は変化し、学校、制服メーカーはそれに対応しなければなりません」

 制服は企業が社員に貸与するように、学校が生徒に貸与するというシステムはなじまないのだろうか。保安上、宅配業者が配送員のユニフォーム、航空会社がキャビンアテンダントの制服を貸与するように。長屋氏に教えを乞うた。

「わたしも調べたことがありますが、むずかしいですね。中学生、高校生は3年間でずいぶん成長しますが、人それぞれです。制服の着こなしも方も違い消耗度にかなり差が出ます。制服が傷んだからといってすぐに交換できるものではない。なによりも制服は「お祝い品」としての考え方もあり、新入生は真新しいものを着ることを好まれる。一部の人だけに古いものを渡すわけにはいかないでしょう。全寮制で特定の私学ならば貸与は可能かもしれませんが、現実的には難しいと思います」

 1980年までの男子の詰襟、女子のブレザーは汎用性があった。校章、バッジを付け替えれば、どの学校でも使えた。いまは一校一校、オリジナルの制服が多く、兄弟や一部知人同士の譲り渡しはあるが広く使いまわすことは難しくなっている。

「バブル期以降、制服のデザインは洗練され、その学校の独自性が強調されました。ただ、最近、ある市の公立中学では、すべての学校の制服が同じデザインのブレザーで、胸のエンブレムを変えればどの学校でも使えるという方式になりました。市で統一した制服を作ったわけです。しかしこの方法も、義務教育ではなく、より学校の独自性をPRしていかないといけない高校では難しい。また、高校生になると生徒さんも制服を見て進学する高校を決められるケースもありますから」