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夢見させてくれた……凱旋門の月桂冠
文=瀬戸慎一郎 写真=JRA |
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※馬齢表記ほか、文章は掲載当時のままです |
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第11話 海外挑戦 |
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年明けた1997年、明け7歳(現表記で6歳)となったサクラローレルは現役を続行した。このクラスの馬であれば引退してもおかしくないが、晩成型の馬ということもあり、走り続けることになったのである。なお、境勝太郎の引退に伴い、弟子の小島太が厩舎を引き継ぐことになり、ローレルも小島厩舎の所属馬となっている。
また、日本最強となった今、かねてからの宿願を果たすという意味もあった。凱旋門賞挑戦にほかならない。そもそも、サクラローレルはサクラの前オーナー全演植の夢を背負って生まれてきた馬なのだ。なお、このプランは秋の天皇賞のあたりから出ていたという。
とはいえ、とりあえずは国内のレースにも使わなくてはならない。目標は春の天皇賞連覇であった。しかし、調整中に軽い骨折をしたため、有馬記念から直行というローテーションになってしまった。
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平成9年4月27日「天皇賞(春)」(京都芝3200、GI)一番強い競馬をしたはずなのに……マヤノトップガンに漁夫の利をさらわれる |
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天皇賞では休み明けながら1番人気に推されていたが、まさかの2着に敗れてしまう。マーベラスサンデーと競り合っているところ、マヤノトップガンに出し抜けを食らってしまったのだ。力負けでないことは明らかで、展開の綾というべきであろう。また、休み明けにもかかわらず、マイナス14kgの大幅な馬体重減も影響していたと思われる。
その後、サクラローレルは予定通りフランスに遠征した。前哨戦のフォワ賞を叩いて本番に臨む、という青写真である。しかし、フォア賞では、武豊騎手を鞍上に1番人気に支持されながら、8頭立ての最下位に敗れてしまう。しかも、レース中に故障を発症していた。右前屈腱不全断裂という重症であった。
実は、故障に関しては伏線があったらしい。
フランスの調教施設には、日本でもおなじみになった坂路がなく、フラットで固い馬場が主流である。元来脚元が強くないサクラローレルにとって、これはかなりの負担になった。屈腱炎になりかけていたのである。後年、凱旋門賞に使う前、イギリスのニューマーケットに入れるようになったのは、そういった事情があるからなのだ。
さらには、装蹄の問題があった。いつもの装蹄師ではなく、フランスの装蹄師が鉄を打ったため、屈腱炎が悪化してしまったのである。レース中の事故は、ある意味必然というべきものだったのだ。
いずれにしても、これ以上走らせることはできない。結局、凱旋門賞には出走することすら叶わず、引退に追い込まれてしまったのである。
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平成9年12月20日「引退式」(中山競馬場、ゼッケン6番)凱旋門賞に出られず、無念の引退。その姿は心なしか寂しげだった |
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ローレルの遠征から2年後の1999年、エルコンドルパサーがフランスに渡った。戦績は4戦2勝、2着2回というもので、その中にはGIのサンクルー大賞勝ち、凱旋門賞2着が含まれている。この年、エルコンドルパサーは日本のレースに一度も出走しなかったにもかかわらず、年度代表馬に選出された。欧州でのGI制覇に加え、凱旋門賞で好勝負したという事実が、どれだけ高く評価されたかの証左といえるだろう。
「ローレルは叩きつけるようなフットワークのパワー型で、本質的には時計のかかる馬場に向いているんです。さらにいえば、ナリタブライアンのような小柄な馬ではなく、500kg前後の雄大な馬格。ヨーロッパの競馬にも合うはずでした。もし、万全の状態で出走していれば……それだけが心残りです」
と、サクラローレルの生産者、谷岡康成は振り返る。
もしローレルが無事であれば……それは、谷岡のみならず、ローレルの関係者すべてに共通する心情であろう。
ヨーロッパの競馬に憧れ、凱旋門賞制覇の夢を抱き続けた全演植は、天で何を思うのであろうか……?
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